第7話 スラム街の洗礼

文字数 5,809文字

 衝撃が脳に直接流れ込んでくる。そんなイメージが想起できたのは、体が痛覚を認識するのに長い長い一瞬をかけなければならなかったからだ。

「店主さん!」

 辛うじて聞き取れた声が自分を示していることを知りながら、俺は硬い大地に勢い良く倒れ伏した。

 一体何があったのかわからない。突然の出来事に対する戸惑いが動かない体を支配する。声帯は返事にも震えず、開いたままの瞳孔が砂利塗れの石畳だけを視界に入れ続ける。

「きゃっ」

 時の流れを感じる前に短い叫び声がした。さっき俺を呼んだのと同じ。その情報だけで誰の叫び声が判別する。

「ま……い」

 雲がかる意識の中で、頭上から流れる生温い感触があった。片方の視界が赤くなり、段々と意識が奈落に向かう。つい最近もこんな経験をした。そう、確かあれは、命懸けの戦場での出来事だ。

 老剣士に意識を刈り取られた後、マイはどうなったか。もしも彼女を奪われてさえ居なければ。

 マイは醜悪な兄の言葉に傷つけられることもなかったし、不死の悪魔によって誰かの命が失われることもなかった。あの時に抱いた後悔と、動揺の中に一瞬だけ生まれた冷静な判断が警戒音を鳴らし続ける。

 ――起きろ。今度こそ、俺が助けるんだ。

 地面に拳を叩きつけた。皮が擦り切れ、途絶えかけた思考が踵を返して戻ってくる。同時に比べ物にならない痛みが割れた頭を襲い、全身が命の危機に晒されているのを説いた。

 こんなことで動きを止めている場合ではない。説教じみた痛覚に見て見ぬ振りを決め込んでいる中で、熱風が狭い路地裏を駆け抜けた。

「おい! この女、火ぃ出しやがった!」

 首を上げた先では、マイが抵抗している姿が見えた。太い腕を持った男に首と口元を覆われ、片側からは肩の辺りを掴む別の奴が居た。そして報告を受けた三人目は、血の着いた柄の長いトンカチを持ったまま奴らの加勢に向かう。

 やり口は完全に人攫いのそれだ。人気のない所に迷い込んだ人間の内、まず腕力が強いことの多い男を狙って急襲する。次に金になりそうな女子どもを数で押さえ込んで攫う。使い古された有効な手段のターゲットがまさに俺たちだった。となれば、捕まえられる人間はマイだけに留まらない。守らなければならないもう一人の対象を見た。

 ――不自然なほど、視線がぶつかった。

 子どもは立ったまま暗い目つきで俺のことを見ている。しかし俺に気づくと、すぐに首ごと路地の奥に向けてしまう。まるで、罪悪感から目を背けるみたいだった。

 あの子も最初から、俺たちをおびき出すための餌でしかなかったのだ。一人では生きていけない子どもを利用して、スラム街の大人は無理やり共犯者に仕立て上げた。全てがこの人攫いたちが書いたシナリオの上の出来事であり、必然だったのだ。

「誰か助けてッ!」

「誰もこねぇよ。ここは王国が捨てたゴミ溜めだ! 暴れるだけ無駄なんだよ!」

 マイは炎でどうにか拘束を外すものの、周囲の廃材や家屋を気にしてか有効性に欠ける。いや、気にしているのは火事だけではなかった。恐怖に染まった視線が血に溢れ返った俺の目と交錯する。

「このっ……いい加減にしやがれ!」

 青藍の瞳に拳が迫った。それは勢いよく頬を打ち、ごっ、と骨と骨がぶつかる音が響いた。

「うっ」

「おい、女は傷つけんじゃねぇ! 買取屋の目はカラスみてぇに敏感なんだ」

「つっても『魔術使い』だぞ!? 仕方ねぇだろ!」

 路地裏に倒れ込む紅色の髪。殴られた勢いのままに壁に頭を打ち付けたらしく、マイは意識を失ってしまう。その光景を目の当たりにした瞬間、自分の中で弛みかけていた糸が張り、ぶっつりと千切れ飛んだ。

「――離せよ」

 重く怠い体が不思議と起き上がっていた。地面と片膝を手の支えにしながら、激痛を抱える頭部を起こす。ぬめる顔を上げる。

「離せ。その子、傷つけたら、絶対、殺す」

 垂れる血と同じくらい止めどなく呪詛が氾濫した。ある種科学的とも言える“呪術”だが、今はその声だけで奴らの首を絞めてしまえと思う。触媒なんて煩わしい物も飛び越して、言葉が真実を帯びれば良い。

「お前ら、全員――呪ってやる」

 赤銅の世界で鮮やかな紅だけが目に映った。俺が守るべき存在はそこに居る。強がりは言霊となって男たちを怯えさせていた。

「き、気味が悪ぃ野郎だ」

「虫の息だぞ。やっちまえ」

 さっきのトンカチ男が歩いてくる。俺に流れていたはずの血で糸を引きながら。

 反撃する体力も力も無い。呪符を入れたポーチもしていないし、このままでは間違いなくもう一撃見舞われるだけだ。

「マイ……!」

 二人がかりでマイのぐったりした体が持ち上げられる。殴られた顔にはみるみる青あざができて、もう見たくないと思っていた苦悶を浮かべていた。

 俺は知っている。マイには未だ治り切っていない傷がいくつもあって、家族を失った悲しみが彼女の心を締めつけ続けていることを。それでも前に進もうと、呪いの晴れた道に夢を掲げていることを。彼女の物語は始まったばかりなのだ。

 ――終わらせ、られない。

 何でも良い。今この状況を打開できる何かがあれば。

「大人しく死ねや」

 振り下ろされたトンカチが頭に当たる直前に男の懐に突っ込んだ。そのせいで背骨に響く痛みに見舞われたが、意識を失うほどの衝撃は避けられた。

「なっ、このやろッ」

 トンカチ男は僅かに動揺する。ここまで立っていることで精一杯だった人間が突如動き出したのだ。それも避けるのではなく、自分の方へ。相手の予期せぬ行動を選んだことで、一瞬だけ男の間隙を突くことができた。

 そうして頭を男の腹に埋めてしまえば致命傷は逃れられる。果たして、振り下ろされたトンカチは腰の右側辺りに痛みを生んだ。

「おい何してんだお前! さっさとやっちまえ!」

「うるせぇよ、ちょっと待ってろ!」

 トンカチ男は苛立ちを隠そうともせずに全身に力を込めた。腹には膝蹴り、背中には金属の落ちてくる痛みに挟まれる。頭から伝う鉄の臭いが気にならないくらいに意識が遠く噎せ返る。

 やがて鳩尾に衝撃が走り、吐き出す空気もないまま血混じりの唾液が溢れ出た。男の腰に回していた腕が離れてしまい、飛んで来た裸足に鼠径部を打ち抜かれていた。

「……う、げほっ」

 後退した千鳥足で壁に追突する。バランス感覚なんて残っているはずもなく、いつの間にか視界は煌々と照る太陽を捉えていた。

「汚ぇな。手こずらせやがって、このガキが……」

 首を折って見てみれば、トンカチ男のボロ着には俺の体液がべったりだった。それが随分と男の癇に触ったようで、男の顔には鬼の面が貼り付いている。追い討ちをかけようとこちらにこようとしたトンカチ男を別の男が制止した。

「おい。さっさと行くっつってんだろ!」

「うるせぇ! この緑頭、俺の一張羅にゲロかけやがったんだぞ!?

 しかしトンカチ男は聞く耳を持たないで俺の方へ歩みを進める。動けない体の上をどしんと踏まれて、また空気が溢れた。

「大人しく寝ときゃ、死なずに済んだのになぁ?」

「人、攫いって、意外と……儲けて、ないんだな」

「あ?」

 辛うじて脳みそだけは生きていた。俺はトンカチ男が疑問にしてくれたのを良いことに言葉を続ける。

「お前らの、命。買取先に、か、軽く見られてる……って、ことだ。それくらい、わかれよ。脳空」

「……んだと?」

 挑発による時間稼ぎ。逆上させることで命の危険が増すことは直感的に感じ取れるが、その数秒で変わる未来だってあるはずなのだ。

 マイが組み伏せられた原因の一つは、広範囲の魔術では俺を巻き込んでしまうから。彼女が得意とする炎の魔術は一点に絞って攻撃することが難しいらしい。それはつまり、どういう形であれ俺を気にする必要が無くなれば、マイは思う存分戦えるということ。

 ――頼む、マイ。起きてくれ。

 俺が死んだその後なら、彼女がこんなゴロツキに負ける道理はない。一度は開拓者クランを相手取り、撤退をも図らせた彼女なら。

「最期まで苛つくガキだな、てめぇは」

 鈍色が太陽を隠す。まさか開拓者に付いて行った先ではなくて、こんな場所で死んでしまうだなんて。運の悪さ、愚鈍さ。自らの至らなさを血の味で噛み締めたら、俺は次に降ってくる致命の衝撃に身を備えた。

 重い一撃が頭蓋を砕く、その前に。

「うおおぉぉ!?

 真っ白な灼熱が俺からトンカチ男を引き剥がした。さっきの熱風が比にならないほどの温度が周囲に陽炎を生む。路地裏に真一文字の軌跡を描いた流れ星は、本当に扱いが難しい魔術なのかどうかさえ疑わしくなる鮮やかさだった。

「マ……イ。起きて……?」

 しかしその考えは違う。助けてくれた炎は、間違いなく俺の後ろから飛来していた。第三者の介入に一瞬の希望を見出し、そしてそれは現実となった。

「聞き違いだと思っていたんだが……まさか本当に危険な状況とは」

 紺色の制服はこの二日間で嫌と言うほど目にしたもの。細身の体に国家の魂を纏い、片手に宿すは無駄な豪奢さなど感じさせない麗美な剣。混じり気の一切無い純黒の髪を中性的な顔にかけ、見たことのない真剣な眼差しを作るのは、この国の新たな生ける伝説になろうとしている騎士だ。

「シュリクライゼ、さん」

 俺は信じられない光景にその男の名前を呼んでいた。求めていたいくつかの状況の中で、間違いなく最善の人物。あまりに出来過ぎた展開に幻想を疑うが、目の前の“英雄”は物語の登場人物ではなかった。

「生きていてくれて良かった。貴方に死なれたら、私は立つ瀬がありませんでした」

 現実を告げるように動き出したシュリクライゼさんは、変わらない微笑で俺を安心させようとする。しかし“英雄”の登場だけで目を伏せられる場合ではない。

「そんなことより、マイを……!」

「無論です。もう少しだけお待ちください」

 シュリクライゼさんの剣の切っ先はオレンジ色の炎がパチパチと音を立てていた。あたかも剣から放たれているような熱が焚き火にも似た安心感をくれる。ただし心の波が静かになったのは俺だけで、人攫いたちは全員が狼狽してしまっていた。

「お、おい。なんでここに王国騎士が居るんだ……」

「知るかよ! 最悪だ、クソッタレ!」

 美しくと荘厳な剣は奇しくもクイップさんの細剣と似た雰囲気を感じられた。しかしながらシュリクライゼさんが持つ剣は剣身が平たい両刃剣であり、一撃の重みに特化したような形状だ。その迫力がより人攫いの心臓を焦らせ、とうとう一人の男が耐えられんとばかりに声を上げた。

「クソガキ! てめぇ付けられやがったな!?

 雑巾にしか見えない一張羅を着たトンカチ男が太々しい腕で威嚇のポーズを取って怒鳴り散らす。唾を一身に受けた子どもは萎縮しながらもマイには出さなかった言葉数で反論する。

「し、知らない……! ぼくは、言われた通りした、だけで……」

「うるせぇ!」

 しかし反論は聞き届けられることもなく取り上げられた。俺に向けたみたいに子どもへとトンカチが振り上げられる。ひっ、と声を漏らしながら顔を覆った子どもの頭へ、果たして鉄塊は落ちてこなかった。

「子ども相手に、物騒な得物を向けるべきじゃない。それと、喧嘩する相手を間違えないことだ」

 シュリクライゼさんは音すら起こさず、箒みたいに長いトンカチの柄をがっしりと掴んでいた。男が困惑しながらも力を入れるがどれだけ引っ張ってもビクともしない。トンカチ男はかなりガタイが良いのに、体格や体重差では測れない圧倒的な力量の違いがそこにはある。

 するとマイを抱えていた内の一人がナイフを取り出して叫んだ。

「動くんじゃねぇ! こ、この女がどうなっても良いのか?」

 ナイフの刃は部分的に錆びており、刃こぼれを起こしていた。殺傷能力は低いだろうが、あんなものに傷つけられては酷い裂傷が残ってしまう。男もそれをわかっているのか遠慮なくマイの首に押し当てる。シュリクライゼさんはトンカチを離さないままナイフ男の質問に答え出した。

「看過できない。その方も我が国の大事な来賓だ。丁重に返してもらおう。その代わり、君たちのことも見逃そう」

「う、上から物言える立場かよ? この女の命は俺たちが握ってんだぜ」

「君こそ立場を理解した方が良い――君がこの国で生きていたいのなら」

 王国に目を付けられるということ。それはつまり、この国における全勢力から狙われるということだ。王都駐在の騎士団や地方に敷かれた警備団。賞金首になれば開拓者もこぞってその身を奪いにくるだろうし、ルディナ国内で寝ることはまず不可能に近い。

 仮に国を去ろうにも『国渡り』は開拓者ですら命の危険が伴う大行事だ。ろくな移動手段も整えられないスラム街の住人では間違いなく野垂れ死にしてしまう。だから男たちもこの場所で暮らし続けるしかないのだ。

「クソっ。客ならしっかり面倒見ときやがれ!」

 国家権力の脅迫に屈した男はシュリクライゼさんに向けてマイを投げつける。明らかに届かない距離だったが、騎士は残影を作り少女の体を片腕に支えた。

「やれやれ。耳が痛いな」

 男たちは子どもの髪を引っ掴みながら逃げていく。聞き取れない怒りの声だけが遠ざかって行き、俺は未だ沸騰し続ける全身で埃まみれの土を舐める。

「ま、待て……!」

 このままでは奴らは何の贖いもしないままだ。マイをあんな目に合わせておいて、せめて去って行く背中に割れたガラス片の一つも突き立ててやらなければ気が済まない。

「待つのは貴方の方です。今優先すべきは誰ですか」

 二歩這った目の前に銀色の刃が現れた。見上げた先には、片腕に抱えられ未だにぐったりと体を折る少女が居た。

「……マイ」

「……僕は貴方の怪我のことを言ったつもりなのですが。やはり、貴方は聞いた通りの『お人好し』なのですね」

 呆れ口調の言葉の意味は殆どわからなかった。ただ頭の中を支配していたのは、彼女が怪我をしたのは本当に奴らのせいだったのかということ。もしかしなくても、俺はマイを危険に晒し続けてしまっている。

「すぐに王宮へ戻りましょう。王の客人たちに死なれる訳にはいきませんからね」

 騎士は剣を腰に吊るした鞘に戻すと、その空いた手で今度は俺をひょいと抱えた。頭が揺れる痛みなんて、どうでもよく感じていた。

「少々手荒にはなりますが、ご容赦を」

 言うが早いか、英雄は瓦礫を割って路地裏を飛び出した。
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