第30話 破剣の生まれた日

文字数 10,447文字



 降り注ぐ無数の雫が喧しいくらいに傘を鳴らしていた。

 葬儀は主の家族と数名の知人だけでしめやかに行われた。あの名君の死を看取る人々がたった数人だけしか居ないと思うと、長年仕えてきた身としてはやるせない気持ちになる。失った存在はあまりにも大きく、また彼が誰よりも先見の明を持っていたからこそ、蔑まれた過去を持つセアル家の味方を無為に増やそうとはしなかった。

 きっとこの雨は、偲び足りない者たちが流せない分の涙の代わりに降っているのだ。そう思わねば、私はこの現実を受け入れることができなかった。

 しかし主がこの世から消えても、まだ守るべき人が残っている。ひっきりなしの雨の中、セアル家の屋敷の中庭へと足を運んだ。主お気に入りのこの場所には彼との思い出が詰まっている。そして、それは私だけに限らない。

「ここにいらっしゃったのですか」

 石肌のスツールの上に鎮座する一人の女性。傘も差さず無限の涙に濡れる姿は、昔のお転婆な頃から想像できない程に麗しい。まだ齢は十六だというのに、紅の髪を頬に付けて哀愁を纏う淑女は、紛れもなく主の一人娘だ。

「クイップ……お帰りなさい」

「ただいま戻りました、シィマーお嬢様」

 十年以上、私が帰るといつも行われるやり取り。こんなにも張りのない挨拶を交わしたのは、かつて彼女が幼い頃に母親を亡くした時だけだった。

 私は持っていた傘を彼女の体がすっぽり入るように伸ばした。すぐに自分の服に染みが生まれていくが、そんなものより寒さにに肩を震わせる彼女を守らねばと思った。

「此度の件、本当に残念でした」

「……」

「旦那様は素晴らしいお方でした。ご息女として胸を張り、これからのセアル家を……」

「違うの……違うの、クイップ」

 お嬢様は言葉を遮って私の名前を呼んだ。気づけばその両腕は自身の肩を掴み、爪を食い込ませている。尋常ならざる気配に、私は浅はかにも「どうされましたか?」と聞いていた。か細い音で紡がれたのは、あまりに信じられないことだった。

「王宮に務める官から密告があったの――お父様は、王国騎士に殺されたって」

「な、に……!?

 彼女が話に出したのは主が信頼を置いていた王国の文官だ。葬儀の時も、主の盟友であることを誇りに涙を流していた。あの感情が本心だったことは誰の目にも明らかで、だからこそその話が真実であると確信できる。

 だとしても、些か不可解な点が多過ぎた。ルディナ王国とセアル家の関係は決して良いものではないが、かつて主が語った通りなら、何か大きな役目を与えられた身なのだ。王国そのものから危害を加えられたとは考えにくい。

 シィマーお嬢様は悔しさを歯茎が見えるくらいに噛み締めながら、私に事の顛末を告げる。

「昔、父に摘発されてその座を追われた人達が居たらしいの。その息子を名乗る騎士が、セアル家の粛清と称して、お父様を……!」

 その言葉で、心臓が握り潰されるような驚愕に見舞われた。いつの間にか力の入らなくなっていた顎のせいで、からからに渇いた口に雨が流れ込む。

 私の脳裏を駆け巡っていたのは、私が主に救われた日の記憶だった。もしやその王国騎士とは、かつて私を助けた時に追いやった者なのではないか。もしそうならば、主を殺したのは私自身――

 呆然とする私の背広の襟を引っ掴んで、シィマーお嬢様は今までに見たことのないような痛憤の顔で迫った。

「ねぇどうして!? どうして名前だけでお父様が殺されなくちゃいけないの!? ただお父様は正しくあっただけなのに!」

 雨の冷たさではない熱さが手の甲に溢れ、私の怒りは沸々と煮え滾った。のうのうと生かされていた自分と、主の死を止めることができなかった無力さ――否、力はある。しかし最も守るべき人を守れず、私は一体何のために剣を磨いてきたのか。

 ならばせめて、主の弔いを果たすことが私にできる唯一の贖罪だ。今にも王都の騎士団屯所に走り出しそうな足を必死に押し留めながら、目の前で喉を震わせる女性に問い詰める。

「お嬢様、そやつの名前や外見は知っていますか。必ず、必ずやこのクイップが、その不届き者に然るべき制裁をっ……」

「駄目よ!」

 シィマーお嬢様は再び私の声に重ねて叫んだ。しかし今度の言葉は、まるで自分自身を酷く縛り付けるような戒めにさえ聞こえる。

「駄目なの……報復なんて、お父様は望んでいない。ここで妄執に囚われたらきっと、セアル家は永遠に王国から見放されたままだわ」

 悲痛な声の先に、彼女は弱々しく続けた。それはセアル家が忌み遠ざけられる最大の理由。

「お父様から聞いたの。私は一族が代々封印する『厄災』の鍵になり得る存在だって。呪術を研究していて、それが本当なんだって自分でもわかった……怖いの。いずれ私が弱い心に負けてしまったら、『厄災』の力に頼ってしまうのではないかって」

 私はセアル家の真実を伝えてしまいたかった。貴女の父親がどうして家の地位を上げようとしなかったのか。背負う使命から逃げることをしなかった偉大さを伝えるべきだと思った。

 しかし、もしそれを伝えたことで、これからもセアル家の血族に不幸が訪れるとしたら。そう思う程にぐちゃぐちゃになる思考が私の言葉を遮る。シィマーお嬢様は幼子のように私の胸へと飛び込んで、傘が落ちるのも厭わないまま顔を埋める。

「だから……耐え忍ぶしかないの。だけど、私一人じゃ抱えられない。お願いクイップ……今だけ……今だけはあなたがこの醜い気持ちを受け止めて」

 私は雨がこれ以上何かを奪ってしまわぬように、彼女の頭と背に両腕を回した。この気丈な強さが醜いわけがない。

「今だけではありません。私はいつでも……いつまでも、セアル家の、貴女の騎士です。貴女が望むままに、この力を振るいましょう」

「それが例え、間違っていたとしても?」

「共に行きます。地獄の果てまでも、一人にはさせませぬ」

 もしも彼女が望むなら、私はどれだけでもこの手を汚そう。私の答えに彼女は再び泣いた。曇天に悲しみが響く度、内にある真っ黒な感情が全てを埋め尽くしそうになる。そしてこの瞬間、いずれ私の人生を大きく変える決意の欠片が生まれていた。


 シィマーお嬢様が泣き止んだ時には、雨は止んでいた。どれだけ雨に打たれていたともわからないが、映る景色の中に小さな虹が出来ていたことで、私もようやくセアルの『家族』として彼らを支えられたのだと思えた。

「……セアル家の名は、もう捨てて生きても良いのではないですか」

 私は一つの提案をした。主であるクゥロスの子どもはシィマーお嬢様しか居ないため、彼女がセアルの名を捨てて嫁入りしてしまえばこの因果からは解き放たれる。そして歴史の中に消えてしまいさえすれば、もう誰も傷つくことはないのかもしれない。

「そうね。きっとそうしたら、楽になれるんでしょうね」

 しかし彼女がそれを考えていないはずがなかった。わかっていてもなお、父と同じ志から逃げることはしない。

「でも私は、父の守ってきたセアルの誇りから逃げたくないの。お父様が、大好きだから」

 まさに私が知るセアル家の言葉だ。誰かを守るために自分が為せることを模索し続ける。父が娘を想っていたように、娘もまた父を愛しているから。彼女は「それに」と付け加えて私に言った。

「あなたなら、私の大切なものを全て守ってくれるでしょう?」

 彼女は笑った。どこまでも強く、気高く。私に名をくれた人のように。

「ずっと、ずっと頼りにしているわ。私の騎士様」

 それが彼女と交わした最後の会話。その後しばらくしない内に、ギルドでの活躍を聞いたルディナ国王直々に、王国騎士団への誘いがあったのだ。

 ――私は、一世一代の報復の機会を得てしまった。



 ルディナ王国の王都。開拓者としてギルドに身を置くようになってからは訪れるのも珍しくはないが、この日はその中でも最も稀有と呼んで良い日だった。

「開拓者クイップよ。ここへ」

 王宮の大広間を抜けた先は、この国を治めるルディナ王の御前。静謐かつ荘厳な玉座に座る当代のルディナ王は、まだ三十にも満たないと聞いている。噂通りの若々しい顔にはぬるま湯の環境が抜け切らない、高飛車で嫌らしい笑みを感じ取った。

「汝に命ずる。汝、王国騎士団『鋼猫(こうびょう)』を率い、王国の剣となれ」

 騎士団長など、四十路ともなった開拓者には破格の待遇だろう。そもそも数年前から王国騎士への加入は打診されていた。それを断り続けていたのは、主が「お前はそんなお堅いところだと窮屈で逃げたくなるぞ」という忠言からである。元より、今回も王国の兵になるつもりなどない。

「そのご勅命、受けかねます」

 宮殿内が大きくざわついた。なにせ事前に受けると言ったからこの王宮に踏み入れることを許されたのだ。言わば神聖な儀式の途中に、王に対して虚言を吐くという無礼を働いている。反逆と見られてもおかしくない行動だった。しかし私は憚ることなく言葉を紡ぐ。

「私は私よりも強い者にしか頭を垂れる気はございませぬ。どうしても私を騎士団に引き入れたくば……誰でも良い。私に膝を突かせることができる人間が一人でも居れば、王のお言葉に従いましょう」

 酷く高慢な物言いに、王や側近たちの表情が目に見えて曇り始める。しかし今日の目的のためには、その挑発さえ効果的な戦術に過ぎない。何せ私の頭の中には『復讐』の二文字しか存在していなかったから。

 無論シィマーお嬢様の命令ではない。この式典については何も伝えてはおらず、間違いなく私だけの判断だ。セアル家には決して迷惑をかけない。それがこの計画の中で最も重要なことだった。

「『一人でも』と言ったか? ここで王国中の騎士一人一人に貴様と試合をさせろと申すか」

「そんな手間をかけて貰わずとも結構でございます、ルディナ王」

 王の問いかけに答えると、私は腰に帯びていた細剣を抜いた。主から譲り受けた名も無きセアルの剣。あの雨の日の涙を拭うため、今ここで運命をともにしよう。

「――百でも二百の騎士でも、纏めてかかってこい」

 あえて騎士の方を向いて切っ先を突き出した。わかりやすい挑発は案の定、数名の近衛から怒号を引き出すことに成功する。

「静まれ!」

 王が息巻いていた騎士たちを一喝した。そして趣味の悪い含み笑いをすると、綺麗に剃り整えられた顎を撫でる。

「素晴らしい心意気だ。お前を何としても引き入れたくなった」

「……」

「要望通り、王宮に居る全ての王国騎士を奴に差し向けよ。手加減は要らぬ。大口を叩いて死ぬならば、それまでの男だったということよ」

 しばらくするとぞろぞろと王宮に控えていた騎士たちが現れた。その数は現時点で二十を優に越えており、これからも増えるだろう。しかし私はおのれの身の心配よりも、この中に主を殺した人間が居るかもしれないという怒りが湧き上がってた。

 犯人は誰かわからないが、詰まるところ全ての騎士を斬れば主が受けた雪辱を晴らすことができる道理だ。ならば弔いのため、この身この息が絶えるまで剣を振り続けよう。

 無銘の細剣を引き抜き、切っ先を天に掲げた。

 ――この剣の全てを、セアル家に捧ぐ。

 血盟は胸の内に。罰せられるのは私だけで良いのだから。

 まず一人の若い王国騎士が抜剣し、懐へと飛び込んできた。さすがに早いが、太刀筋が綺麗過ぎる。私はもっと粗野で暴力的な命のやり取りを交わしてきた。どちらが実戦慣れしているかなど火を見るより明らかだった。

 初撃を力任せに弾くと騎士は大きく姿勢を仰け反らせた。血の管浮かぶそっ首が露わになり絶好の案山子となる。

 心は歓喜に満ちていた。復讐の序章に昂る。この騎士を殺し、怒りに満ちてかかってくる他の騎士も全て斬り伏せる。例え私の命が燃え尽きたとしても、それで亡き主と、あの日優しき心を引き裂かれた彼女のためになるのなら、それだけで『クイップ』という男の人生は最後まで誇らしく刻まれる。

 腕を力ませ、恐怖に歪んだ騎士の首を刃が通る瞬間。

『私は、父の守ってきたセアルの誇りから逃げたくないの』

「……!?

 どこからかそんな声が聞こえた気がして、動きをピタリと止めた。騎士の首はまだ繋がっており、切れた薄皮から、つぅと血が滲むだけ。

 聞こえるはずのない声。けれども確かに記憶に刻まれていた言葉は、自らの内から溢れるようにして脳裏を掠める。彼女が本当に望むこととは何だったのか。私はそれを知っていたはずなのに。

「寸止めとは……! 馬鹿にしおって!」

 命を落とさなかったことで、違う意味で彼らの怒りを買ったようだった。その愚かしさに目を向けると、他の騎士たちも同じように自分の命を粗末にしようとしている。今度は連携を取って一斉にかかってくるようだ。

 もう後戻りはできない。始まるのはたった一つの命を賭けた無益の勝負。地鳴りの如き騎士たちの疾駆が迫る。

 ――私はセアルの剣だ。

 振るう度、視界が赤く、紅く染まって。無限にも感じられる景色の端に、同じ髪の色をした主の姿を見た気がした。主は口角を上げていた。そしてたった一言だけ、あの豪快な笑い声と一緒に。

 『それで良いのだ』と、確かにそう言ったのだった。


 体はボロボロだった。この式のために用意した背広はそこら中から血が滲み、厚底の靴は擦り減ってバランスもろくに取れない。それでも私は、命を失うことなく立っていた。

 いつの間にか周囲は倒れた王国騎士だけだった。全員に未だ息があり、その魂たる剣だけが全て砕けている。

「まさか、これ程とは……!」

 驚きに満ちたルディナ王の声が聞こえた。何人と斬り結んだかなんて覚えていない。ただ無我夢中に剣を振るい、目の前に立ち塞がる命ではないものだけを狙った。剣が折れ、素手になった者には刃を向けず拳を振るった。その結果だけが目の前に広がっている。

 今なら王諸共全員を殺せることは間違いなかった。しかし最後まで彼らの優しさだけは裏切ることができず、私は鉄の味で溢れる口を回す。

「私を下せる者が居ないのならば、これにて失礼仕る」

 絶え絶えの息が殺意を抑え込んでくれていた。教えられた丁寧な言葉を使って在りし日の主の顔を思い出していなければ、私は全てに剣を突き立てたことだろう。

「待て」

 踵を返した直後、ルディナ王は私を引き留めた。これ以上戯言を吐くのであれば国家の象徴ごと斬り裂いてしまおうかと考えたが、彼が発したのは私に対する一つの問いだった。

「貴様はその力を国にも使わず持て余すのか? 何のために剣を持つ」

 セアルのため。亡き主のため。絶望を味わった少女のため。そんなことを言ったところで、この男には何一つも理解できないだろう。ただその問いを見捨てないとすれば、私の中に眠るかけがえのない思い出が答えになり得る。首だけを動かして愚かしい王を睨んだ。

「――信念」

 誰かの剣であり続けるための意志。これ以上、如何なる者にも彼女から奪わせないという決意。それを掲げる限り、私の剣は絶対に折れない。

「信念はどんな強大な力をも上回る、か……」

 彼に何か思うところがあったとしても私の知る理由はない。玉座から視線を外す直前、王は高らかに言い放った。

「開拓者クイップのために道を空けよ! 此度の受勲は、フェアザンメルン・ヘロ・ルディナの名において取り止めとする!」

 この日を境に、私のことを聞き慣れぬ異名で呼ぶ者たちが現れた。騎士ではなく、その魂を奪い去ったギルドの剣士――“破剣のクイップ”と。

 そんな名には、何一つの価値もないも無いと言うのに。



 王宮での事態は、すぐにルディナ王国中に広がった。馴染みの開拓者やギルドマスターにも事の顛末を聞かれ、私は自分の犯した過ちの重大さをようやく実感し始めていた。

 これからはルディナ王国が私の動向に注意を向けるだろう。セアル家に迷惑をかけるわけにはいかない。私はもう彼らの敷居を跨ぐことはできなくなってしまった。

「優しい貴女は、きっと赦してくださるのでしょうがね……」

 地平線から覗く夕焼けが嫌に目に染みる。まだ助けの要る歳の彼女を一人にすることがとても心苦しくて、何よりあの元気な「お帰りなさい」を聞けないことがとても寂しかった。

 助けになることと言えば、稼いだ金銭を送ることくらいしか思い浮かばない。せめてこれからできるであろう彼女の家族がお腹を空かせてしまわないように、私は開拓者として日々を過ごそう。

そんな決意を持った時、私の居る崖の上から、一人の人間が砂浜に立っているのが見えた。

「子ども……?」

 深い海と同じ色の髪をした少女だった。まだ十にも満たなそうな幼子で、ゆっくりと水面に近づいて行くと、突然やってきた大波に飲み込まれた。

「なにっ」

 波に攫われたと思ったが、その考えをすぐに否定する。少女は高波に覆われる直前、海に倒れるように沈んでいたのだ。つまり事故の類でもなんでもない。

 その命を無惨にも散らそうとしているのだ。

「――ッ」

 その光景を見ていつの間にか体が動いていた。癒え切らない傷口に潮水が染みることも厭わず、一心不乱に少女を探す。

 押し寄せる波が口に塩味を運ぶ。服と剣の重さで沈みそうになる体を鍛えた両腕でどうにか浮かび上がらせ、掻き分け、ようやく少女へと手が届いた。

 意識の無い少女を砂浜に上げると、胸骨を押して水を吐き出させる。ままならない呼吸を助け、小さな命が救われることを天に願う。

「何をしているのだ、私はっ」

 もっと助けるべき人が他に居るはずだ。関係のない人間と思想の違いから斬り合ったこともある。なのにどうして、私は少女一人も見殺しにできないのか。疑問がどれだけ胸の内を反芻しても、処置をする手だけは止まらなかった。

 しばらくして少女は目覚めた。遠くの崖からでは見えなかった青い瞳に、あの家族の面影を垣間見た気がした。

「具合は、どうだ?」

 少女は答えない。ただ前へと向き直り、浮かびかけの薄月を見上げるばかり。私はもう一度少女に向かって問うてみる。

「まだ苦しいか?」

「ねぇ、ここは天国なの? それとも地獄?」

 少女はようやく喋り出したかと思うと、質問に質問で返してきた。このくらいの歳の子にしては、随分と大人びたことを言うと思った。シィマーお嬢様でさえ、もっと遊んでと言うばかりだったというのに。

 私はその様子に無事を確認すると、少女の質問に答えてやる。

「違うな。お前は天国にも、地獄にも行ってはいない」

「でも、確かに死のうとしたよ」

 幼子が淡々と言うものだから何ともぞっとしない。しかし妙な既視感を覚えてすぐに「あぁ」と納得する。死を望む姿は、まるでかつての私の生き写しだからだ。

「あなたが、助けたの?」

「……そうだ。私の勝手で、お前を助けた」

 少女の青い瞳には怒りというよりは問責のような雰囲気を見た。私も昔、このような目を主に向けたのだろうか。

「迷惑、だったか?」

「別に。生きてても死んでても、変わらないから」

 少女の表情はピクリとも動かない。濡れた髪を鬱陶しげに払いながら、また夜空に浮かぶ月を羨ましそうに見上げ始めた。

「なぜ死のうとしたんだ?」

「才能が無かったの。そしたら、全部なくなっちゃった」

「才能、か」

「そう。魔術が得意で、でもできなくなって。そしたらみんな、私を見てくれなくなった」

 少女は聞いたら何でも素直に答えた。事の仔細はその少女の生い立ちにあったようだ。かつては王都の魔術学校に通う裕福な家庭に居たこと。昔は魔術の神童などと持て囃されたが、それも幼い頃だけの話だったということ。見限った両親は、最近少女よりも優秀な男児を養子にしたこと。

 そのどれもを聞く度に、この世の現実を知るにはとても幼過ぎると思った。

「私ができる子だったら、私が一番だったら、私が強かったら、こんなことにならなかったのに」

「強くなれば、取り戻せるのか?」

「うん。でももう無理なの。私の魔術はもう伸びないって言われたから」

「強くなるだけなら、魔術だけが方法ではあるまい」

 その言葉を聞いた少女は、スラムでさえ見たことのないような鬼の形相と金切り声を上げた。吐き出した水よりも多い怒りの数々が濁流となって飛び出す。

「私には、魔術しかなかったの! 魔術があったから認められてきたの! 魔術があって初めて強くなれたの! でも見放された! 魔術にも、お父さんにも、お母さんにも! 魔術ができない私なんて、誰も望んでくれなかった!」

 決壊した少女の水溜めは、他でもない少女を突き刺していた。

「私なんて、死んじゃえ――ッ!」

 小さな心を傷つける叫びが果てしなく海に吸い込まれていく。どす黒い感情は月夜を映す水面とっては毒でしかないのに、どうしてこんなにも美しいまま受け入れるのか。もしあの時に主に拾われて居なければ、私もこの少女と同じことをしていたのかもしれない。

「気が済んだか?」

 少女は真っ赤に腫らした目を隠しながら短く頷いた。砂浜に水滴が落ちるのを知りながら、私は少女に向かって頭の中に浮かんだ気紛れを口にした。

「そうか。ならお前に一つ提案がある」

「……提案?」

「俺の元で剣を学ぶ気はあるか?」

 なぜこんなことを言うのか自分でも全くわからない。おそらく向こう何十年経とうとも理由なんて無いのだろう。しかし、後悔だけはしないと直感だけが告げていた。

「私は魔術しか知らないよ。剣なんて、振ったことない」

「最初はみんなそうだ。だからお前には、希望があると言える」

「……希望」

 少女も言い慣れていなそうなその言葉は、私などが使うには些か煌びやか過ぎる。しかしあの運命の日を回顧してみれば、それを与えられることがどれほど生きる助けになっただろう。彼女に必要なものは、遠く前に進んだ先に見える光だ。

「お前には魔術の才能が無かったのかもしれないが、私はそんなお前を知らん。お前が剣術を知らないように」

「私も、おじさんを知らないよ」

「そうだ。私がお前を知らないように、お前が私を知らないように、わからないことの結果なぞ未知数だろう?」

 何ができるかもわからない。ただその道を模索する場所さえあれば、誰かを守れる強さが見つかるかもしれない。この時、私は初めて自らの身勝手さに気がついた。誰でも良い――こんな私の希望になる人間として、少女に全てを託したかったのだ。

「どうする?」

 私の問いに少女はしばらく押し黙った。砂粒を数えるみたいに下を向いて、長い長い静寂の後、やがて決意を口にする。

「私は、アリシア。強くなりたい。弱いままの私なんて嫌。だからお願い。私を強くして」

 少女は真っ直ぐ一人の剣士を捉えていた。その銀湾に広がる瞳は、いつも私を見ていてくれた藍色の目を思い起こさせる。
 
 迷うことなんてなかった。何より主ならば、最初から答えは決まっていたのだろう。

「ああ。私が今のお前を殺してやろう。これからは、私の弟子として生きるが良い」

 名も無い浜で交わされた約束。それだけが私とアリシアを結び付ける唯一の糸だ。彼女を導くことが本当に正しいのかなんてわからない。ただ私は、

「生まれ変わったならば、新しい名を持たねばならん。何か欲しい名はあるか?」

 聞いてみたが、少女は大きく首を振って否定した。

「おじさんが決めて」

「……」

 しばらく考えてみたが何も思いかばない。シィマーお嬢様が生まれた時も主に似たことを言われたが、どれも可憐さには欠けていて候補にすら上がらなかったのだ。

「期待なぞするなよ。私はそういうのは苦手なのだ」

「別に良いよ、何でも」

 言葉とは裏腹に、少女は餌を待つ小動物みたいに答えを待っている。明らかに期待しているので、なんとかおかしくないものをと思って考えついたのは、少女の名をもじったものだった。

「――アレス」

 その名を聞いた途端、少女はぷっと吹き出した。砂に塗れるのも厭わず、変なつぼを押されたみたいにけらけらと。これまで見せたことのない元気な様子で笑うものだから、私は面食らいながら言う。

「笑うな。だから期待などするなと……」

「違うよ。だってその名前、お父さんとお母さんが、私が男の子だったら付けようとしていた名前だもの」

 そう教えられて自分の配慮の無さを自覚する。男女のどちらが生まれるにせよ、近い名前を考えることは珍しくない。彼女にとっては過去の思い出が巡ることで辛い気持ちにさせてしまう名前だったのだろう。

「別の名前を考える」

「ううん。それでいい。いつか男の子よりも強くなって、みんなを見返してやるんだ」

 少女は立ち上がると、海の向こうに未来を展望する。

「私はアレス。アレス・ミークレディア。この名をいつかルディナ中に轟かせて、私を見限ったことを後悔させてやるの」

 死のうとしていたとは思えないほど晴れ晴れとした表情だった。いや、彼女は一度死んだのだ。アレス・ミークレディアとしての生を受けるために。

 アレスは突然思い出したように尋ねてくる。

「そう言えばおじさん、名前は? 先生、とか呼んだ方が良い?」

「先生なんぞ柄ではない。私は自由が取り柄だからな」

「じゃあせめて名前は教えて! 呼び名が無いなんてこれから不便過ぎるわ」

 腰に手を当てて私を見据えたアレスは、思ったよりもお転婆なところがあるように見えた。それがいつも私を待ってくれていた幼子の姿と重なって、喉奥が熱い感情できゅっと締まった。

「クイップ――ただの、クイップだ」

 この子に私の過去など必要ない。いつか我々を(さざなみ)が分かつまで、おのれの知る剣の全てを教えるだけ。

「うん。よろしくね、クイップ!」

 誰も知らない浜辺で、誰も知らない一つの約束が交わされる。月も星も海も、与えられた名前しか持たない人間を包むように見届けた。私たちを待つ景色がどのようなものでも、この憧憬だけはきっと忘れない。何せ私たちは、今日ここで生まれたのだから。
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