第18話 群れ狼

文字数 4,616文字

 二つの群れは正面からぶつかる形となり、頭一つ抜けて先頭を走っていたアレスがとうとう灰色の波を割った。猛々しい唸りの発信源に切迫し、獣の疾駆と彼女の俊足が交差する。刹那――柔らかな毛並みから深紅の霧が吹き出した。瞳孔をかっ開き、自らに起きた異常事態さえ認識できなかったテルフが途端に勢いを削がれ、地に伏して動かなくなる。

 剣撃がさっぱり見えない俺にも、何が起きたのかだけは理解できた。斬ったのだ。あの一瞬のすれ違いざまに、まるで紙か落ち葉を断つように。彼女が最初に【アメトランプ】に訪れた時に見たあの速度が助走を帯び、もっと速くなった鎌鼬となって。

 つむじ風は踊る。薄藍髪が鮮やかに舞って、右腕がしなる度に毛皮の波が赤く赤く染まっていく。どこにあるのかという足場を緩むことないスピードで駆け抜け、真っ赤なカーペットが伸びていった。

「すごい。あれがアレス・ミークレディアの戦い方か……!」

 思わず感嘆していた。大規模な戦闘では魔術による範囲攻撃が有効とされるが、彼女はその剣速だけで“魔術士”の対応する領域を遥かに凌いでいる。新人ながらギルドで名が売れる最大の理由を、俺はこの目で確かめた。

「お前もあれほどの剣技を見たことはないだろ。性格は難アリだけど、実力はマジで折り紙付きだ」

 幾度となくアレスの戦いを見ているのであろうトウマは至って普通に話してはいるが、初めての時は間違いなく驚愕したことだろう。まるで既に通り道に骸が置かれていたかのように、精密な技巧を持ってテルフたちが斬り裂かれている。“群れ狼”の二つ名に恥じない数が、彼女一人で半分にまで減ろうとしていた。

「なんで号令なんてしたんだ。アレスだけで十分だったろ」

「【ソラティア】の連中はみんな、血に飢えてんのさ。ほら、あっちを見てみろ」

 トウマの指差す方に目を向けると、そちらにはクランの副リーダーを務めるソラウが立っていた。胸元が大きく開いた服装は、線は細いながら鍛え抜かれた体を誇示している。そこに数匹のテルフが肉薄した時、ソラウの全身に紫色の光の筋がパチパチと見えた。

「ッラァァッ!」

 こちらにまで響く大喝とともに腕が振り降ろされる。すると彼の前方が白菫色に光り、さっきの声とは比較にならない程の轟音が訪れ、文字通り大地が揺れた。

「きゃっ」

 隣にいるマイが耳に手を当てながらびくりと体を揺らした。男の前には落雷でできたような大きな窪みが出来上がってしまって、部分的な焼け野原になっていた。彼を食いちぎらんとしていた数匹の獣は、もう見る影も無い。

「雷系の魔術か」

 心なしか足の裏がひりつくような感覚に見舞われる。大きく跳ねた馬を宥めながら、トウマが答えた。

「ご名答。ソラウは魔術に体術を組み合わせる戦士だ」

 ソラウは特別頑強そうな容姿はしていない。しかしその体躯から繰り出される技はまさに豪腕――いや、轟腕とでも呼ぶべきか。比喩でもなんでもなく、そこに雷を呼び起こす。実力派の【ソラティア】を実質的に束ねる者として、申し分無い力の持ち主ということだ。

「殆どの戦いはあの二人で片付いちまう。折角付いて来てるクイップさんの戦いを見る機会もろくにねぇよ。ほら、俺たちもそろそろ出発の準備を……」

「お、おい! お前ら前見ろ!」

 馬車の中に居た支援者が絶叫じみた声を上げた。俺たちは反射的に逆方向へと振り返り、その先に見えたのはいくつかの鋭く尖る琥珀の瞳だ。

「テルフ!?

「くそっ! 何匹か別行動を取ってたのか」

 四匹の狼が馬車に向かって走って来ている。数こそ開拓者たちが相手にしている分の十分の一にも満たないが、奴らは間違いなく狩人だ。俺たち支援者ができる対処には限度がある。

「どうすんだ! あいつら全員出払いやがったぞ!」

「トウマ、すぐに誰か呼んで来てくれ! 俺が時間を稼いで――」

 積荷の陰に置いてあった長剣と呪符の入ったポーチを引っ掴み、俺は荷台から飛び降りようとした。しかしそれより早く、目深にフードを被った人影が身軽な動きで外へ飛び出す。

「私がやります!」

「マイ!?

 両足片手で体重を受け止めた少女は右腕に火炎を纏う。今は見えない彼女の髪の毛と似た鮮やかな明かりが周囲を照らす。

「“火連槍”っ」

 連続で生成された炎が槍を象り飛翔する。これは初めてマイと出会ったとき、彼女が呪符へと封印していた魔術だ。あの時はハリエラさんの氷塊による質量の暴力に押し負けたが、ここに凶弾を防ぐ魔術士は居ない。走って来たテルフの一匹の顔面に炎が突き刺さって火だるまにする。僅かに浮いていた獣の体は、もう前足で体重を支えることはできなかった。

「おお、やるなマイちゃん! そこらの魔術士にも引けを取らねぇんじゃねぇか?」

 一緒に見ていたトウマが感嘆している。俺も同様に思っていたが、まだ迫る狼は残っているから安心はできない。

「トウマ、今のうちに開拓者の所に急げ! まだ他の群れが居るかもしれない」

「おう。お前こそ、しっかりマイちゃんを見とけよ」

「わかってるよ」

 馬の手綱を受け取ってトウマと代わる。彼は得意の風魔術を行使して、その身に追い風を受けて開拓者たちの戦場に走り出した。アレスほどとはいかないが、浮くようなステップは馬が駆けるように早い。彼の支援者としての能力の一つ、伝令としての役割である。

「おーい! こっちにも敵襲だ! 誰か来てくれぇー!」

 よく伝わる声を草原に響かせているのを確認してマイの方を見遣った。先程の魔術が再び放たれ、寸分違うことなく二匹目のテルフを撃ち抜く。実際に戦っていたハリエラさんはマイが眠っている間に、彼女の戦闘センスには光るものがあると教えてくれた。凄腕開拓者の言葉を裏付けるように鮮やかな対処だ。

「こりゃあ心配無さそうだな」

 他の支援者たちも奮戦する少女を見て安心し切っている。華奢な腕から炎が鳥みたいに飛び出して三匹目を仕留める。

 こちらは彼女に任せて良い。そう思ってトウマが行った開拓者の方を向くと、開拓者たちの戦闘は殆ど終了しているようだった。若手ながらも注目されるだけの実力を確認できたのは時勢を知るにも良い機会だったろう。【ソラティア】の二枚看板であるアレスとソラウ。能力には申し分ないが、いかんせん彼らが次代を担うとなると支援者として不安で仕方がない。

 すると、男と目が合った。

 紫電を纏う男がニヤリと口角を上げた気がした。三白眼と相まった悪辣な相貌。俺はその笑みの意味がわからず、ただただ嫌な予感だけがする。

「あっ……!」

「――!? マイ!?

 突然聞こえた呻吟に、俺は少女の後ろ背を目で追った。

「おい! 嬢ちゃん、どうしたんだ!?

 マイの膝ががくりと落ちる。両腕をついてどうにか転倒を避けたようだが、まるで立ち上がる様子がない。

「マイっ!」

「か、らだ、がっ……」

 か細い声で何かを言っている。彼女の目前には未だ一匹のテルフが生き残っており、寸分の迷いの後でその牙を突き立てんと走った。

「くそっ」

 気づけば手綱を離して飛び出していた。長剣を鞘から引き抜いて、動かない少女を庇うようにして立つ。

「てん、しゅ……さんっ」

 呼ばれる声を聞きながら剣を両腕で持って構えた。金眼の獣は俺に標的を変え、地を穿つ鋭い爪がリズムを刻む。接近する度にその音が心拍を焦らせて、重なる。

 ――マイを守らなければ。

「ガアッ!」

 テルフの体が俺の身長ほども浮かび、飛び込んで来た。ぐわりと開いた大口が肩を噛み砕こうと迫る。長剣を横向きに構え、寸でのところで噛み付く先を肉から鉄へと変えた。

「うっ、ぐっ」

 岩がのしかかったような重みに耐える。鼻先がぶつかりそうな距離で狼と睨み合い、剥き出しにされた先鋭の犬歯が恐怖を煽った。

「こ……のっ!」

 俺は全力で剣を振り抜いた。空中に居たテルフは牙を刀身に滑らせて三歩分ほど遠ざかる。ざっ、という地を搔く音の後で、互いにもう一度臨戦態勢を取った。

「俺だって、犬の一匹くらい……!」

 昔を思い出して剣を強く握る。支援者にしかなれなかった自分でも、かつては憧れた姿があるのだ。

 そうして、欲をかいたのが間違いだった。次に襲いかかって来たテルフの牙を再び受けようとした時、先んじて伸ばされた前足によって手の甲を抉られた。一瞬の、致命的なまでの判断ミス。

「ぐあっ」

 衝撃と素手を火に突っ込んだような熱が右手を襲い、持っていた剣を落としてしまった。それを拾うよりも早く、更なる攻撃が早いことを悟る。生首を齧り取る、野生の歯牙。

 ――やられる。

 悲鳴が喉に詰まり、俺に訪れる運命を反射的に想起した。首の皮をちぎり、骨の髄まで舐られる。命を落とした獲物を慈悲もなく食らう、血に塗れた獣の嘲笑が――

「ぬうぅッ!」

 獣の歓喜は、たった一つの気合いによって阻まれた。感知もできない世界の中で、いつの間にかそこにあった白銀のレイピア。それは灰色の頭と背中をくっ付けて、大量の血飛沫を俺に飛来させた。でも俺は、そんなことが実に些細だと思えるほどに、その一閃の技に魅了されていた。貫いたテルフを無造作に振り払うと、落ちた場所で獣はすっかり動かなくなっていた。

「お怪我はありませんでしょうか?」

 聞いてきたのはギルド最強の剣士。本人が自称することをやめても、間違いなく人々は彼をそう呼び続けるだろう。

「クイップさん……」

「はい。手の傷と、返り血以外は特に異常無いようですね」

 老剣士は優美な所作で納刀する。ついさっきまで開拓者たちに付いていたというのにも関わらず、トウマの声を聞いてここまで戻って来たのだろうか。だとすると、その足は若き弟子のアレスとも比較にならない程ではないか。伝説の男の規格外っぷりを目の当たりにしたことが、さっきまで死にかけていた恐怖なんかかき消していた。

「傷の手当てを。それと、顔を拭いた方がよろしい。獣の血は疫病を持っているやも知れませぬ」

「あ、はい。すぐに落とします」

 とりあえず顔に付いた分だけでもと服の袖を伸ばしてみたが、返り血はそんなところにまでべったりだった。どうしたものかと思い悩んでいたら、後ろから清潔そうな麻布が差し出される。見覚えのあるそれは、俺が遠征前に用意した物だった。

「店主さん、どうぞ」

「あぁ、ありがとう。マイは大丈夫?」

 麻布を受け取って額を拭った。頬やら耳やらにまで血が付いているらしく、どれだけ取っても生臭い鉄の空気が離れない。

「……はい。すぐに、応急処置を」

「助かるよ」

 フードに隠れた感情も、これだけ一緒に居れば少しは読み取れるようになってきた。だから今は彼女の気持ちに踏み入ることはしない方が良いだろう。それよりも。

――多分、あいつが。

 俺は帰還する開拓者たちを見た。真っ赤になった俺の姿を笑う人々の中に、明らかに嫌な顔を残す金髪が居る。その三白眼の奥には、獣へ向けていた爛々とした攻撃心とはまた別の敵意や憎悪が抱えられていた。口を閉じたままで奥歯を噛み締める。ソラウの危険性を見積もり切れていなかった。被害は俺に留まらず、マイにすら及ぼうとした。もし彼女が居なければ、自分で雇った支援者たちでさえ獣の餌にしていたかもしれない。あの男との因縁が間違いなくこの遠征に悪影響を及ぼしている。

 何が彼を駆り立てるのか。その理解を得る前に、遠征の馬車は再び『クルエアリの森』へと向けて走り出した。
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