第28話 宵に架かる虹

文字数 5,939文字

「ガルシアンッ!」

 巨漢のシルエットが炎に包まれていく。突き飛ばされた俺のことをシュリが間髪入れずに抱え上げ、渓谷を一気に駆け出した。

「一度森へ逃げる!」

 視界には黒髪と、制服の紺色の残像しか写らなかった。“壁渡りのまじない”もないはずなのに、その体は人ひとりを抱えているとは思えない速度で崖を登って行く。森にあった苔岩に二人分の体を押し込むと、そこから崖下の景色を見遣った。

 紫の炎に包まれた男が出てきた洞窟の入口で、解放された巨漢が仰向けに崩れ落ちる。何十人もの騎士を葬った“封し鳥”の炎とまったく同じ特性だ。自らが作品と称していた鳥と化した芸術家が嗤う。

「ア、キャキャキャキャッ」

「くそっ! あいつ、まだあんな力があったのか!」

 崩落した壁や魔術を突破する物理的なパワーに加え、“封し鳥”が有していた魂の奪取まで。確かに“増進の呪い”は発動させたのに、その致命傷すら意に介していない様子だ。

「火事場の馬鹿力、というやつかもしれない。確実に命が削れている気配がする」

 人語すら発する様子もない。知能が著しく低下しているところを見ても、シュリの言う通りだろう。死に際に、自らにまで“封し鳥”になる呪いでも施したというのか。マイの時と同じ過ちを犯し、ぐっと唇を結ぶ。油断を誘う作戦を行っていた俺が、あろうことかその隙を突かれた。自分の馬鹿さ加減に怒りを滲ませかけた時、俺を下ろしたシュリが厳しい表情を作った。

「悔やんでいる場合ではない。ガルシアン殿は他の誰でもない、君に全てを託したんだ」

「――ああ。ああ、わかってる!」

 本当なら、ガルシアンは芸術家を殺しても良かった。彼の目的はルディナ王国に仇なす者を討伐することであり、魂を奪われた団員たちは常に戦場で散る覚悟を持っていたという。彼は団員のためにも、確実に敵を討ち取らねばならないはずだった。しかしガルシアンは、自らの使命が道半ばでも、俺に託すという選択をしてくれた。今のルミー・エンゼの肩には、ガルシアンの血盟までもがのしかかっている。それに応えられないだなんて、裏切りだ。

「絶対、取り戻してやる……!」

 決意を口にしたその時、地面に広がっていた青い光たちが一斉に燃え上がった。最初は狼煙のごとくゆっくりと、そして突如として、魔術よりもずっと早く夜空の下を動き出した。全ての向かう先は、紫色の鳥人間の元だった。

「魂たちが、集まっていく」

 “刻時石”のレプリカに封じられていた魂たちが渓谷に線を描く。紫の炎の中に吸い込まれ、その翼はさらに大きさを増した。炎は男の影すら飲み込み、次いで嘴、幾重もの尾を創造し、長いトサカを生やした。形だけで言えば極楽鳥に似ているが、小鳥にある可愛げなんて欠片もない。

 男は成ったのだ――月をも隠す怪鳥、全てを取り込んだ本物の“不死鳥(シナズノトリ)”へと。

 俺たちを見失った怪鳥はキョロキョロと辺りを見回した後、意味深に一つの方角を向き、見つめた。その先にあるものにいち早く気づいたシュリが「まさか」と声を漏らす。

「奴は……このままルディナを目指すつもりか」

 ルルー・ジュンシュの根底にあるルディナ王国への憎悪。本能だけで動いているとすれば十分あり得る推測だ。怪鳥が徐々に高度を上げ始めたことで、考えは現実に変わり始める。シュリは俺に向けて言った。

「ルミー。もし奴が王国に到達してしまえば、軍の討伐隊が動き出す。ここで決着をつけなければ、誰も取り戻せなくなってしまう」

 それは本来、明日行われるはずだった犠牲度外視の作戦が始まってしまうという、最悪のお告げだった。そうでなくてもガルシアンが魂を奪われたように、あの姿のルルー・ジュンシュにも“封し鳥”と同じ能力がある。いくら“増進の呪い”で怪我を悪化させているとは言え、人里を襲われれば、いつ起こせるかもわからない昏睡状態の被害者を増やしてしまう。

「とにかく奴をここで食い止めるんだ。何か思いつかないか」

「何かって……」

「彼が無視できない何かだ。気を惹ける言葉でも、行動でも良い」

 シュリが魔術で抑えつけることができない以上、今の俺たちに奴を物理的に止めることは不可能だ。少しでも気を抜いたら途切れてしまいそうな脳をフル回転させ、ひたすら記憶を探る。そして俺は、戦いの中で奴の逆鱗に触れた言葉を思い出した。王都へ向かおうとする男が最も忌み嫌っていた名前。半ば自棄になりながら、隠していた身を晒して大声を飛ばした。

「最期まで負けた相手から目を背けたままか! ルルー・ジュンシュ!」

 名を呼んだ瞬間、巨大な怪鳥がほんの少しだけ減速した。声が聞こえたことを確信し、思いつく限りの罵倒を全力で叫ぶ。

「このっ――逃げ腰のチキン野郎がぁーっ!」

 果たして、星空に響いた汚い言葉は、芸術家の耳に届いた。王都に一直線だった怪鳥は羽ばたいて空中に留まると、そのまま進路を真逆に変えた。人の奇声にも聞こえる絶叫を上げながら、狙いを俺へ。

「来たッ」

「ルミー、ここからの作戦は?」

 正直なところ、まさかこんなにも安い挑発がうまくいくなんて思っていなかった。恐らく無数の魂を封印した“封し鳥”と一体化した芸術家には、冷静な判断力なんて残っていないのだろう。ならば単純な思考を利用して身動きを封じてしまえば、この渓谷からの脱出は困難なはずだ。眩む思考回路をさらに回す。今ここにあるもの全てを使わなければあの巨大な質量を抑え込むことはできない。俺は辺りをくまなく見回し、そして一秒にも満たない世界で霧が晴れる。

「この渓谷に【青の騎士団】が空けた大穴がある。奴をそこに誘い込んで動きを封じるんだ。シュリは片側の穴を塞ぐ準備をしておいてくれ。もう一方は俺がやる」

「良いが……奴の狙いはルミーだよ。その体で動けるのか」

 焼かれた肩、串刺しにされた体。戦いで負った無数の傷はズキズキと痛覚を苛む。しかしここが正念場だ。俺の目的は、血盟を賭してマイを取り戻すこと。さらには俺の背中を押し、託してくれた騎士の誓いも背負っているのだ。動けないなどと泣き言を言っている暇はない。

「アテもあるんだ。俺を信じてくれ」

 迫る“封し鳥”の速度に対して傷だらけの体で逃げることはできないのは百も承知である。ならば支援者たる俺は、シュリ以外にも頼れる存在に頼るだけだ。思考を読んだ訳ではないだろうが、黒い瞳も俺を信じた。頷きも要らず、ただ互いに成すべき違う道を歩む。

「必ず、無事で」

「シュリもな!」

 背を向け合い、俺は這う這うの体で森を進んで行く。痛む足を堪え、とにかく先へ。やがて森の中では一際目立つ白い毛並みが見えてきた。ガルシアンが魔術の滝を降らせた場所で鎮座するのは、主人の帰りを待つ誇り高き白馬。俺は自分より高い瞳に視線を合わせた。

「クリュウ頼む、俺を乗せてくれ!」

 鱗馬(りんま)と呼ばれるクリュウは非常にプライドの高い生き物で、以前ガルシアンと一緒に遺跡を調査した時にはまともに言うことを聞いてくれなかった。しかし今は、彼の類まれなる走力がどうしても必要なのだ。

「お前の主人を助けたいんだ」

 後ろから響くは死神の羽ばたき。もしクリュウが俺を振り退けて逃げてしまえば望みは潰える。しかしプライドが原動力の主人を持つ彼ならば、奴を倒すのに協力してくれる確信があった。

 果たして、クリュウは鼻を鳴らし、仕方ないと言わんばかりに身を屈めてくれる。俺は「ありがとう」と言いながら軋む体で鐙を強く踏んだ。高く頑強な背に跨り、手綱を大きく叩く。クリュウはそれを合図に一気に加速を始め、森の木々を躱しながら、トンネルに向けて全速力で走り出した。

「アアアアァァ――!」

「こい、芸術家! 最後の勝負だ!」

 都合二度目の、生死を懸けた鬼ごっこが始まった。クリュウの足の速さは尋常ではなく、巨体の不死鳥すらも引き離した。手綱を引く白馬はまるで数年来の相棒のごとく、僅かな指示だけで走る角度を微調整してくれる。優秀に育て上げたガルシアンに心で感謝し、所定の位置を目指した。

 後ろではバキバキと木々を薙ぎ倒しながら不死鳥が迫ってくる。やがて見えて来た対岸に、【青の騎士団】が“複合魔術”で空けた巨大なトンネルが見えてくる。その岩肌の遠くに、剣を突き立てながら張り付いているシュリが居た。小さな凸凹に爪先を引っ掛けた器用な芸当で俺の到着を待っていてくれたようだ。一つ頷いてシュリに合図を送ると、同様に頷きが返ってくる。俺は握る手網をぱしんと鳴らして指示を送った。

「クリュウ、あの穴に入れ!」

「ブルルっ」

 強く放たれた鼻息の中に「命令するな!」と言う飼い主の声が聞こえた気がした。しかし蹄は思った通りに崖を蹴り、斜めに突き抜けたトンネルへと飛び込んだ。お尻から全身に痺れるような衝撃が走るも、頑強なクリュウはビクともしない。穴の中は月明かりが殆どは入らず、視界は最悪。しかしただの一本道とわかっている以上、何を迷う暇もなかった。

「まだだ! 向こうの出口まで走れ!」

 ほどなくして不死鳥が侵入し、暗闇が青白く照らされる。通路には俺とクリュウ、そして芸術家が抱えて離さない数多の魂だけになった。

 一方で、侵入口には燐光が舞った。入口が崩れていき、これで洞窟は一方通行だ。俺はクリュウの速度を緩めることなくトンネルの出口を目指した。やがて青白い星の瞬きが見えてきて、この場所の終わりを悟った。

「クリュウ、止まってくれ!」

 指示の通りブレーキをかけた白馬の上で、俺は腰のポーチの中身を鷲掴みにした。取り出したのはありったけの“爆裂札”だ。

「もっと早く出会っていたら、俺たちはわかり合えていたのかもな」

 不死鳥の白い目は俺が手に握るものを見てか、揺れる。そしてこれから起きるであろう事象に、最大限の呪詛を紡ぐように言った。

「ルるゥミィィ……エぇンゼェ――ッ!」

 今の俺に呪いは届かない。もしも今生の憎しみを忘れられる世界があるのなら、そこで情けをかけよう。

「――じゃあな、ルルー・ジュンシュ。あの世(向こう)で会おうぜ」

 全ての呪符をまとめて破り捨て、クリュウの手綱を引き、月下に向かって走り出した。

 背にした洞窟で、幾重もの爆発が起きた。石は一瞬で焼かれ、風は貫くように吹き荒ぶ。世界から音が奪われていく中に、怨嗟すら感じない、恐慌の叫びが聞こえた気がした。

 不死鳥の嘴は背中まで迫っていたが、降ってきた無限の土塊によってその姿は見えなくなる。がらがらと崩れていく岩肌に、作戦の成功を悟った。しかし爆破の威力だけが誤算だった。俺を乗せたクリュウの体は大きく爆風に煽られ、さしもの健脚でもトンネルの端から身を落としてしまったのだ。同時に耳鳴りが収まって、自らの体が生み出す風切り音を聞く。

「しまっ……!」

 最後にとんでもないミスをしでかした。宙に放り出された俺とクリュウは、そのまま渓谷の底にあるせせらぎへと向かう。もう呪符の一つも残っていない。思わず死を覚悟したその時、跨るクリュウが自ら体を崖に寄せ始めた。ぶるるっ、と鳴った鼻に「離すな」と言われたような気がして、俺は空中へ投げ出されないように、決死の思いで手綱を握る。

 鱗馬は硬い蹄が自慢だと飼い主が語っていた。果たして、クリュウが自慢の蹄を絶壁に押し当て始めたことにより、落下速度が少しだけ減速する。しかし衝撃は電流のように常に流れ続け、死の恐怖が付き纏う。

「うああああ――ッ」

 不安定な手綱ではなく鞍の縁にしがみついた。崖を削る蹄からはガリガリと岩肌を砕く音が響き続ける。永遠にも感じられる落下の後、クリュウは緩やかに地面に降り立った。生を実感するまで、鞍から手は離せなかった。

「凄いなクリュウ……本当に助かったよ。ありがとう」

 やっとクリュウに感謝を伝えると、ふるる、と鼻を鳴らす。そっぽを向いて照れ隠ししているみたいに思えた。丁寧に背を撫でてやると、手のひらは拒絶されることなく何度も往復した。

「ルミー、無事か!」

 鱗馬よろしく踵で崖を下って来たのはシュリだ。一体全体、人間の足がどんな理屈でクリュウと同じことができるかは不明だが、彼の規格外の動きに疑問を持つような時期は終わっていた。

「ああ、俺は大丈夫だ。それより奴は?」

「出てこない……今度こそ終わったのだろうか」

 二人して現状に対する考えが出てこないまま、上空を見上げていた。するとしばらくして、塞いだはずの崖の壁から、青い揺らめきが漏れ出してくる。すじ雲のようなそれは、次々と岩の間をすり抜け、上へ上へと立ち昇った。

「みんなの魂が……!」

 断続して浮かび上がる青い煙たちはゆっくりと速度を上げつつ、全てが同じ方角へと向かった。アーチ状になった魂の集合体は、意思を持ったように森の上空を通り、ルディナへと続く。

 呪いは、同じ呪いを施すことでしか解けないはずだ。しかし“身代わりの呪い”の元凶であるルルー・ジュンシュが居なくなったことで、魂たちが解放されたのだろうか。

 推測だけで一切の道理は通らない。このあり得ない光景を、もし言葉にするなら、それは――

「青い、虹……」

 俺の頭にも浮かんでいた言葉を、隣に居るシュリも呟いていた。

 渓谷からルディナ王国に向けて架かる巨大な一本橋。単色とは思えないほど鮮やかな色彩で、どんな天体よりも輝き、宵の世界が照らされる。深い暗闇を切り裂く虹は、光沢を纏う渡り鳥のようにも思えた。青い翼を取り返した魂たちが拠り所を求め飛び続ける。儚くも神秘的な風景が視界を埋め尽くさんばかりに広がっていた。

 一緒に目を奪われていたシュリが言う。

「美しい……まるで、王宮に飾られる絵画みたいだ」

「あれは、芸術なんかじゃないよ」

 無意識に言葉を否定していた。疑問を浮かべ、こちらを見た彼に対し、俺は天を仰いだまま言葉を並べる。

「人の生きる意思――この世界で生きていたいと願う人たちの強い気持ちだ」

 美しいものを描こうと、誰かに創られた曲線ではない。それぞれが生きたいと願い、泥に塗れてもなお足掻き、そしてできた命の架け橋だ。その想いが“呪術”の理も、現実の理をも超えた。あれは芸術なんかじゃない。儚く脆い人生に執着し続ける、強く貴い魂の意思なのだから。

 気づけば俺の目からは涙が溢れていた。この戦いはずっと、マイを助けたいという独り善がりな気持ちでしかないと思っていた。誰も望まない徒労かもしれないと何度も考えた。だけどこの美しく宵に架かる虹を――救いを求めていた人々の魂を見て、これまでの努力が無駄ではなかったと、初めて信じることができたのだ。

 やがて立ち昇る魂が全て消えた頃、眩しいくらいの朝焼けが俺たちの勝利を告げていた。
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