第36話 快晴の空に明く灯る

文字数 9,889文字

※――――――――――――――――――――――

 眩し過ぎる閃光が溢れ出した。悪魔の体から漏れ出ているだけの光なのに、それでも目を開けていることさえかなわない。思わず手で覆ってしまった先で起きた事象は、ほんの一瞬の出来事だった。

 前方でばたり、と何かが落ちる音に目を向ける。そこにはもう紺青の壁は無くて、いつの間にか訪れていた太陽が差し込み、煌々と荒れ地を照らす。空は鮮やか過ぎる水色を映し出して晴れ渡っていた。

 朝日を見上げた時、私の頬に血ではないものが伝った。まるで長い悪夢を見ていたかのように、現実を受け入れる支度ができていない。ただ、焼き付いた十秒前の景色が克明に思い出されて、その乖離に戸惑うばかり。だけど、流れ落ちた涙が全てを教えてくれた。

「――晴れた」

 胸の奥がすぅと軽くなって、両足の力が抜けていく。闇に染まっていたマイ・セアルの運命は、やっと見上げることを許された。呪いのような夜は明け、輝く大空に解き放たれた。

 ドゥーマという名の呪いは、朝の訪れとともに消え去ったのだ。


 目の前には全てを解いた少年が倒れている。覚束ない意識で彼を見て、腕すら足りないそ痛ましさに、一気に現実へと連れ出された。

「店主さんっ!」

 呆然としている場合でないことだけは確かだった。訪れかけた平穏を捨て去って彼の元へ駆け寄る。千切れた右腕の断面からは白骨が飛び出ていて、とても放置して良い傷ではないことを悟った。

「目を開けてください! 店主さん!」

 うつ伏せになっている彼の頭が嫌に重たい。だらりと力の抜け切った体を仰向けにすると、自らの血に染まった柔和な目元が露わになる。深緑色の髪の下からは新たに流れる命の源泉。微笑みを帯びたその表情に全身が寒気を覚えた。

 このままでは彼の命は幾ばくもない。決して強くはない彼の体は散ってしまう寸前だ。しかし治療器具の一つもない今のままでは、その儚さを為す術なく見守ることしかできなかった。

「起きて、起きてよぉ……」

 震え懇願する自分が酷く不甲斐なかった。誰かに世界を救うほどの重荷を背負わせておきながら、私はただ身を寄せて啜り泣くことしかできない。どれだけ私が目を腫らしても彼の傷が癒えることなんてないのに。

 何よりも、まだ「ありがとう」の一つも伝えられていない。このまま終わってしまったら、きっと家族を失ったことよりも後悔する。そうなった時、私は本当に全ての繋がりを失ってしまうのだ。

「マイちゃん!」

 遠くから私を呼ぶ声がした。初めてではない女性の声に困惑と安堵を覚えながら応える。

「ハリエラ、さん……どうしてここに……」

「詳しい話は後だよ! それよりルミ坊は!?

 端麗な顔を土や擦り切れた唇の血で汚しているハリエラさんもまた、いつの間にかこの戦場で店主さんに協力してくれていたのだと察する。彼女は眉間に心配そうな皺を寄せながら、ボロボロになった店主さんの手を握った。

「血が止まらなくて、このままじゃ……」

「このバカっ……!」

 悔しそうな顔をして溢れた罵倒は、あたかも彼女自身を責め立てているようだった。ぎゅっと掴んだ手が目に見えて力んでいて、悲痛なほどに掠れた声で言う。

「絶対死ぬんじゃないよ。アンタはアタシの唯一の支援者なんだからっ……!」

 私を助けてくれた恩人たちの関係は、ただの仕事仲間と呼べないくらいの絆がある。彼らの過去は知らないけれど、人はここまで思いやることができるのだと思うと、心の底から羨ましかった。もしも兄が悪魔の妄執に取り憑かれることがなければ。私たちが普通の兄妹のままであったなら、あの洞窟で兄の死に寄り添うことができたのだろうか。そんなたらればが浮かんでしまうのだ。

「とにかく止血だ。何でも良いから布っ切れとか……」

 ハリエラさんが言うも、ここに清潔な布なんて無い。衣服を裂いて使おうにも土埃だらけで、返って傷口を悪化させてしまう。店主さんのポーチの中には応急処置に使える道具があったはずだが、既に殆ど使われてしまっていて、あるのは呪術に必要な触媒ばかり。

「ちっ。マイちゃん、森に戻るよ。途中に転がってた馬車の中になら、治療に使える道具もあるはずだ」

 はい、という短い返事をしかけて、その声は出なかった。何かに呼吸が遮られるみたいな寒気が走って、私の異変をハリエラさんも感じ取る。やがて悪寒は背中にある遺跡の奥から、確かな形を持ってゆっくりとやってくる。

 ――それは、終わったはずの呪いの残滓だった。

「マァァァァイィィ!」

 恐怖が植え付けた幻聴かと思った。しかしそれはすぐに錯覚だと悟る。あまりにも鮮明な鬼胎の象徴に、私の奥歯はガタガタと音を鳴らした。

「兄様……!?

 キッグ・セアル。ドゥーマによって致命傷を受け、遺跡で息絶えたはずの兄。ここにあるはずの無い狂気が立っていることに脳の理解が追いつかなかった。

 まさか彼までもが不死の能力を手中に収めたのかとも思ったが、そうではない。未だその腹部には血のカーテンがかかる穴が空き、胸は臓器をこぼしそうなほど抉れている。つまり彼自身の生命力によって未だに息をしているのだ。

「マイちゃん、あれがアンタの兄貴かい?」

 ハリエラさんの言葉に頷くと、彼女は「聞いていた以上の化け物だね」と言ってから、悪魔のような兄の前に立ち塞がる。兄は目の前に居る人間が敵か味方かなんて関係なかった。ただ澱んだ瞳に映るのは、彼が望んだ最悪の未来だけ。

「ドゥーマは……俺の野望はぁぁっ!」

「キッグ・セアル。もう全部終わった。アンタの下らない夢は潰えたんだよ」

「そんなわけあるかっ。マイを寄越せ! 血さえあれば、セアルは、俺は! 何度だってやり直せるッ!」

 キッグの掌には炎の魔術が生み出される。ごうごうと放たれる熱気は微細なコントロールなど欠片もないが、それでも後ろ背の森を焼き払うには十分過ぎる火力を有していた。対するハリエラさんは、既に腕に霜を降ろして臨戦態勢を整えている。

「血に何の意味があるさね!? 人から人に繋がれていくのは、心だ!」

 二人の魔術がぶつかり合う。お互いに手負いとは思えない程の衝撃波が襲って、私は店主さんを庇うことで精一杯だった。真っ白な蒸気が辺りを覆い尽くして、視界が一気に乏しくなる。

「ルミ坊を連れて逃げな!」

 砂埃と一緒に届いたハリエラさんの声で、弾かれるみたいにその場を立つ。だらりと垂れ下がる店主さんを肩で担ぐようにするけれど、自分よりも体格の大きな人間を運ぶには私はあまりにも貧弱過ぎた。

「逃げるな、マイィッ!」

「……っ。しまった」

 悪魔は極厚の氷を、炎の熱で掻き分けながら突き進んだ。四足歩行の獣じみた動きでハリエラさんを躱し、ヨタヨタ歩むことしかできない私たちへと迫ってくる。再び生み出された灼熱に包まれかけた時、目の前を一陣の風が通り過ぎた。

「ぐっ」

 苦悶の声とともに藍色の髪が熱風に靡く。しかしその身は焦げることなく、淡い水色の魔術に防がれていた。風の正体はこちらを向くこともせず突き刺すような口調で叫ぶ。

「早く彼を安全な場所へ運びなさい!」

「あなたは……」

 不遜な態度で店を訪れた【ソラティア】のクランマスター、アレス・ミークレディア。そんな彼女が私たちを――いや、店主さんを助けたことに驚きを隠せない。しかし現実は、兄やハリエラさんに比べたら余程弱々しい魔術で、歯茎を剥き出しにする怪物の進撃を押し留めようとしてくれている。

「どけ、女ァ!」

「あの怪物を倒させておいて、命まで奪われたら! 師匠に向ける顔が無いのよ!」

 キッグの腕がアレスさんのレイピアを掴み、血を滲ませながら拮抗する。愛剣が熱に歪もうと女性の二本足は揺らがず、確固たる信念を叫ぶ。

「アレス・ミークレディアの名において……師が認めたあの男を死なせはしない!」

 戦場にはいつかに【アメトランプ】を訪れていた老剣士が静かに眠っている。その彼の遺志を継いで、彼女は私たちを守ろうとしてくれているようだった。この荒れ地の戦場で起きてしまった悲劇が、一体彼女の何を変えたのだろうか。

 留まる二者の後ろからハリエラさんの氷の魔術が飛び行く。しかしその死角からの攻撃さえ溶かして、私だけを見据えた悪魔が二人の開拓者を乗り越える。

「全員殺してやる……! セアル(俺たち)だけが不幸な世界なんて、俺は認めねぇ! そうだろう!?

「どうしてっ……」

 セアル家の責務を託した母親と、家族を守ろうとした父親。高貴な魂を持った彼らに触れ続けて、なぜ彼は狂い、今もなお他者の優しさを奪おうとするのか。略奪でしか手に入れられない幸せなんて、私は望まない。この腕に眠る人は、そんな呪いさえ解き放つのだから。

「これ以上、誰も傷つけないで――!」

 途端、触れかけた化け物の手が真っ赤な炎によって押し戻された。まるで私の声に呼応するみたいにうねる火炎は、私のものでも、ましてや死にかけの悪魔のものですらない。森から突如として飛び出した規格外の暴力が、訪れる災いを引き剥した。

「うっ……ぐおぉぉっ!?

 炎の先端がキッグに纏わり付いたかと思うと、噛み付いた蛇のように荒野を引きずり回す。穴の空いた胸から腰までがオレンジ色に輝いて、流星が大地を駆けた。やがて怪物を遺跡の入り口まで連れ戻すと、炎は満足したようにボロボロの体を吐き出した。

 あまりに一瞬の出来事で、何が起きたかなんてわからない。ただ炎の蛇は私やハリエラさんたちに一切危害を加えることなく、そのまま役目を果たしたと言わんばかりに空中へ霧散していく。

「魔術……?」

 視界に映った現象は、私が知る中では魔術のそれに最も近い。ただしその規模や威力は、もはや芸術的とさえ思える美しさがあった。炎の魔術は性質上、どうしても広範囲に広がってしまいがちだ。一点を狙おうとすると威力の減衰も免れない。しかし今の一撃は、そんな扱い辛さなんて微塵も感じさせない程に完成されていた。

単純な魔術の勝負で兄をも越えている。そう確信せざるを得ないくらい、炎の燐光はどこまでも煌びやかだった。

「やはり『当たり』はこっちだったか。僕はつくづく――運が無い」

 森から低く、若い声がした。男性にしては少し高いくらいなのだろうが、それを鑑みても不機嫌な様子がありありと伝わってくる。やがて見えた姿は、光を飲み込んでしまったかのような黒髪を持つ青年だった。

 青年は紺色の、恐らく制服と言って差支えの無い服を身に纏う。肉の薄い腰の辺りには鞘に収められた一振りの長剣を携えており、クイップと呼ばれていた老剣士のもの同様に、装飾は薄いが『無駄の無い美』が追求されているように見える。儼乎(げんこ)たる漆黒の瞳は、寸分の狂いなく宙を踊った兄を追っていた。

「くるのが遅いよ! “ルディナの英雄”!」

 ハリエラさんがそう呼んだのを聞いて、彼らが既知の仲であることに驚いた。彼女は開拓者のコネクションは広いと聞いていたが、青年の姿はまるで私が空想の中で描いたような騎士そのものだからだ。そして、この国において“ルディナの英雄”という仰々しい呼ばれ方をする人間は、世間一般ただ一人しか居ない。

「謝罪しようハリエラ殿。東のセアル邸からここに着くまで丸一日かかってしまった。だが、終幕までには間に合ったようだ」

「丸一日、って……」

 驚きが口をついたのはアレスさんだったが、私は唖然とするしかなかった。何せ私たちが王都からこの遺跡に着くまで、馬車に乗って三日を要したのだ。それをまさか一日で踏破するなんて、青年が尋常ではないことを悟るには十分過ぎた。しかし青年はさもありなんといった様子で歩み出る。

「この男の相手は任せてもらおう」

 その声はすぐ隣から聞こえた。え、という声を漏らした時には、青年は森に向いていた私の背中に立っている。端正な横顔は残像を残して、いつの間にか横を通り過ぎていた。

 炎に引き摺られた兄と青年が向かい合う。狂人じみた眼光を飛ばす兄は薄ら笑いを放った。

「“ルディナの英雄”シュリクライゼ・フレイミアだな……!? 噂は聞いているぞ。クイップをも超える剣の使い手だと」

「歴戦の剣士の名を出してもらえるとは光栄だ。そういう君は、キッグ・セアルだな?」

 兄は青年の質問には答えなかったが、無言を肯定として二人の会話は進む。

「君は数日前、王国の最重要危険人物に登録された。悪いがここで死んでもらう」

 青年の言葉を聞いて、兄は血だらけの口を開いた。赤黒くなった歯の歪さでケラケラと感情を剥き出しにする。

「っはは。殺すってか? 俺を? そんな生意気ほざいた王国騎士を、俺は死体にして帰してやった覚えがあるぜ」

「君の闇での行いは粗方調べがついている。奇しくもその見せしめに殺された騎士が、死の直前に自らの体に言伝を刻んでくれたおかげでな」

 その言葉の最中、青年の雰囲気が変わったのがわかった。さっきまでそこにあったはずの凛とした態度から、獰猛に獲物を見据える獅子のように。

「王国騎士は君が思っているほど無能ではない。冥土の土産によく覚えておけ」

 溢れ出る怒気が、優しげに見える彼を紛うことなき戦士だと確信させる。張り詰めた戦場の空気がぴりぴりと肌に染みて、改めて場違いな世界に居ることを自覚させられた。

「そうか……ならお前こそよく覚えとけ。俺にたった一人で挑むなんてことがどれだけ愚かか。お仲間には叩き込んでやったはずだぜ」

 兄から濃密な魔術の気配が漂った。陽炎が揺れて荒野の空気をぐつぐつと煮る。対する青年は、儀式のような所作でゆっくりと剣を引き抜く。その刀身は朝日を受けて、より一層優美に輝いた。殴りつけるようにして振るわれた拳と、格式ある動きで持ち上げられる真剣。対照的な二つの暴力は、一瞬だけぶつかり合う。

 一瞬だけ、だった。

「あ? ……ああっ?」

 真剣はいとも容易く、燃え盛る腕の一本を肘から切り落としていた。切断面は研ぎたての包丁で切った食材みたく綺麗に中身が見えていて、血が吹き上がることさえ少しの間があった。あまりの早業に目を見張っていると、今度はもう片方の腕が飛んで化け物は地面にのたうち回る。

「なんだ……なんだこれはァッ」

 信じられない光景だった。私や【ソラティア】に対して無類の強さを誇った兄が、まるでまな板に乗せられた魚のよう。開拓者でも騎士でもない私が見てもわかる――彼の実力は、ありとあらゆる人間と一線を画していた。

「君が無傷であったなら、こうはいかなかっただろうな」

 青年はそんなことを言うが、目の前に広がる現実がその言葉さえ否定してしまう。すると突然、兄は向き合っていた騎士から私の方へぐりんと首を曲げた。充血し切った出目金のような眼球で、焦点は大きく離れてしまっている。

「マイ、俺を治せッ! 俺とお前なら、まだやり直せる! セアルの悲願を、果たしてっ……」

 言葉はそこで止められた。後ろに居たハリエラさんの手から放出された冷たい結晶が化け物を足から侵食していく。くるぶし、膝と徐々に高度を上げていき、やがては抉れた胸までを飲み込んだ。

「これはアタシの分。そんで……」

 冷気を放つ紫髪の女性は凍えた歯をがちがち鳴らす兄の前に立ち、大きく振りかぶった鉄拳を鼻先に突き刺さした。

「が、ふ」

「これがルミ坊の分だ」

 倒れられない体は衝撃の全てを受け止め、幾本かの歯が散った。それでも頑強な男は気を留め、空気の漏れ出る口を止めようとはしない。

「おで、は……ぜっだいに、死なん……俺は、選ばれた人間なん、だ……」

 朦朧とした意識で呪いのように呟く。しかし圧倒的な力で制した狩人は、その曲がり切った信念を真っ向から否定した。

「選ばれた人間なんて居ない。誰しもが、等しく英雄になれる素質を持っている」

 “英雄”と呼ばれた青年の瞳は真っ赤に染まっていた。怒りの比喩でもなくて、物理的な色彩が黒から緋色に変容したのだ。そして、先に放ったどんな言葉よりも固く、荘重な意思を持って言った。

「君の思想はルディナに相応しくない」

 身動きの取れない兄に青年の手があてがわれる。赤い炎が、硬い氷の上から伝っていく。皮膚に、髪に引火し、蝋人形のように全身が霞んだ。

 もう、断末魔は聞こえなかった。

 今度こそキッグ・セアルは本来の形を失い、美しく燃える炎に溶けていった。ぱちぱちと飛んでいく火の粉が、兄の生命の燐光として空へと消える。最後には、音も何も残らなかった。私はその光景を黙って見つめていた。もう戻れはしない世界に心の中で別れを告げると、現実に引き戻されるようにハリエラさんに声をかけられる。

「マイちゃん。大丈夫かい?」

「私は大丈夫です。それより、店主さんが……」

 これ以上追っ手はないだろうけれど、依然として彼の容体は最悪のままだ。剣を納めながら歩いて来たアレスさんが私に尋ねてくる。

「早く治療しないとまずいわね。あなた支援者でしょう? どうにかならないの?」

「応急処置の方法は学びましたが、これほどの傷にはどうしたら良いのか……」

 支援者を名乗るには私の力はとても足りない。一か月間【アメトランプ】でお世話になって学んできたのは、殆どが店主さんの使う呪術だけだった。店主さんは「一般人には要らない知識だよ」なんて言っていたが、今この状況にあってはあの時に食い下がって聞かなかった自分が恨めしい。

「とにかく今はやれることをやるしかないさね。アンタ、止血に使えそうな布は無いかい? みんな血塗れ泥塗れで使い物にならないんだ」

「そんなの私だって同じ……いえ、クイップがいつも背広の内に手巾を入れていたわ。すぐに取ってくるから待ってて」

 言うなりアレスさんは老剣士の亡骸へと駆け寄った。そして少しだけ目を閉じると、何かを呟いていた。それが何だったのか、彼女以外には知る由もない。

アレスさんが持って来てくれた手巾で店主さんの右腕を包む。しかし血はすぐに滲んで、とても安心とは程遠い。

「ルディナまで持つかしら」

「……どれだけ全力で走っても間に合わない。どうしたってここで大方の治療を施す必要があるよ」

 幾多もの死地を潜り抜けて来たであろうハリエラさんだからこその重みがある言葉だった。同時に彼女が冷静な判断を下せる人で良かったとも思う。もしも私一人だけだったら、現状から目を背けて希望的観測に縋るしかなかったような気がするから。

 手を打つならこの場しかない。私にできることはなんだ。止まりそうな思考をぐるぐると巡らせる中で、視界の端に映るハリエラさんがどこか遠くに視線を飛ばした。

「おーい! ハリエラさーん!」

 森の方から聞き覚えのある声がした。風に乗るようなハキハキした声が重苦しい荒れ地に響く。この遠征の間、私のことも気にかけてくれていたトウマさんだった。その肩には包帯だらけの体で項垂れる金髪の男性が体重を預けている。店主さんが最も警戒していた相手――名前をソラウと言ったはずだ。ハリエラさんは首だけ向けて叱責気味に鋭い言葉を飛ばした。

「トウマ! さっさと逃げろって言ったじゃないか」

「いや、それがっすね……」

「僕がくる途中で呼び戻しました。僕が居る以上、敗北は無くても怪我人までは防げないですからね」

 剣を納めた黒髪の青年が堂々と言った。しかし先の戦いを見ていれば、それがただの自信過剰ではないことは明らかだ。むしろ、自分に対する正当な自己評価だと言って良い。何にせよ、店主さんが信頼を置く支援者が現れてくれたことはこの上なく心強かった。

「ソラウ、生きてたのね」

「……あぁ」

 一方で、同じクランの二人のやり取りはとても淡白だった。お互いに死地を彷徨っていたはずなのに、そこに店主さんとハリエラさんのような絆は感じられない。彼女たちの関係は察するところでは無いけれど、少なくとも仕事仲間以上の繋がりはないようだった。軽い再会を交わしてすぐに、ソラウという男性の鋭い目が大きく見開かれた。

「支援者……!」

「お、おいルミー!? 生きてんだろうな!?

 肩を貸していた男性を押し退けるようにして店主さんの隣へと屈み込む。ソラウさんが尻もちをついて崩れたことにヒヤリとしたが、幸い彼は短い呻きを上げるだけに留まった。

「辛うじてって状況よ。すぐに処置をしてあげて」

「よ、よし、任せろ!」

 アレスさんの言葉に、トウマさんは跳ねるように動き出した。持っていたバッグをひっくり返し、治療に使えそうな物を漁り出しては店主さんにあてがっていく。しかし、トウマさんの険しい表情が戻ることはなかった。

「駄目だ……全然血が止まらねぇ、クソッ」

「弱気になってどうすんだい! 口が回る暇があったら、何でも別の方法を考えるんだよ!」

「わかってますって! ちょっと黙っててください!」

 怒号のような彼らの会話に反して、店主さんの呼吸が薄らいでいくのを感じる。

「店主さん、お願い。死なないで……!」

 もしも母や父が遠くの空からこの景色を見下ろしているのなら、どうか彼を救って欲しい。家を飛び出し、暗闇で絶望するしかなかった私に一等星の光をくれた人。彼を救うことができるとすれば、きっと同じようにここまで私に希望を与え続けてくれた人たちだ。今の私にできることは、あるはずのない奇跡に願うことだけ――

 その時、全員の視線を受けていたトウマさんの手がぴたりと止まった。この場に居る誰もが懐疑を抱く中、彼は突然、私の方に真剣な眼差しを向ける。

「マイちゃん。きみはルミーの弟子なんだよな? だったら“呪術治療”ができるんじゃないか?」

 “呪術治療”――あの洞窟の中で店主さんが見せてくれた呪いの光。兄に砕かれた腕を瞬く間に癒してしまった『呪い』は、まさしく私たちが欲している力に違いなかった。

「でも私、やったことなんて一度も……」

「頼む! 今はそれしか方法がねぇんだ! このままじゃこいつ、死んじまうよ!」

「マイちゃん……」

 張り裂けんばかりの声と、縋るような期待の眼差しに萎縮してしまう。呪術は失敗すればどんな危険が付き纏うかわからない。それこそ、傷だらけの店主さんをさらに苦しめ、あまつさえその命を奪ってしまう可能性だってあるのだ。兄の凶行に対して何一つも上手く成し遂げられなかった私が、果たして背負って良い運命なのか。

 刻々と迫るタイムリミットの中、決断を渋る私の前に一つの影が落ちてきた。細身ながらも引き締まった体は前に見た時よりも血色が悪い。ソラウさんはふらつく足を折って私や店主さんと同じ高さに視線を下ろすと、琥珀色の瞳で私を見据えた。

「オレからも頼みてぇ……オレはこいつに返さなきゃならねぇ借りがある」

 すると彼は筋肉質の体を大きく折り曲げた。膝と拳を荒野に突いて、やがて汚れた金色の頭をも同じ場所にまで下げて平伏する。

「こんなこと言える義理じゃねぇのはわかってる……でも、頼む。オレにその借りを返すチャンスをくれ」

 信じられない光景に私は固まっていた。トウマさんは口をあんぐりと開けて、まるでこの世のものではないものを見ているようだった。店主さんの言う通りなら、この人は私を殺そうとした人だ。それなのに今、実力もない私に頭を垂れている。流れ込んでくる戸惑いと一緒に、確信じみた憶測がパズルのピースみたいに嵌った。

 きっと店主さんはここへ辿り着く前に、私だけではない人たちの命までもを救ってみせたのだ。それも誰かに憎しみを抱えている人の心まで。私は一体、どれだけ大きな背中に憧れてしまったのだろう。

「――わかりました」

 私にも返すべき恩がある。もう無力なままなんて嫌だ。これは、何か守れるようになるための資格を手に入れる最初の試練なのだ。

 店主さんが備えていたポーチから一枚の呪符を取り出す。それは遺跡の中で見た、ギリギリ黒く塗り潰されていないような呪符。しかしその複雑怪奇な紋様には、彼が誰かを救うために捧げた弛まぬ努力が込められていた。

 息を大きく吸った。戦場だった荒野には、戦士たちが大切なものを守るために流した血の匂いがする。むせ返るような熱を持った空気が、心臓の早鐘を止めた。

「巻き戻せ。“再生の呪い”――」

 誰かに頼るだけのマイ・セアルとは決別する。目の前の憧憬を支え、追いかけられるくらい、私は強くなりたい。

 ――戻ってきて、店主さん。

 緑色の光が目の前を覆い尽くしていく。その色彩は奇しくも、私の中に灯火をくれた人の後ろ姿に似ているような気がした。
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