第33話 託される伝説

文字数 5,624文字

 ドゥーマの蘇生条件。それは絶命――文字通り命を落とすこと。悪魔だと言い伝えられるドゥーマでも、人や動物と同じように生命活動に必要な器官を失えば死に、大量の血を流してもまた同様。そしてその瞬間に不死の能力が発動し、全ての傷は元通りとなる。

「つまり、奴を生かしたまま術式を描き込めば」

「封印術が起動できます!」

 クイップさんの言葉を継いで答える。

「なるほど。厄介極まりないけど――希望は繋がれたってわけね」

 アレスに向かって強く頷いた。しかし方法は変わらず簡単ではない。先のように四肢を全て斬り落として動かなくしても、描く文様が複雑過ぎて生きているうちに間に合わないのだ。ドゥーマが暴れる中で、俺が懐に入り込み続ける必要があるのには変わりなかった。

「アレス。お前はルミー殿の支援だ。私が引きつける」

「なんで。私だって……」

「その傷でいつまで持つのだ? ここは年長者の言うことを聞いておけ」

 師の言葉に苦言を呈そうとしたアレスだったが、ぴしゃりと打ち切られる。実力を認められていないのではなく、純粋にその身を案じてのことだろう。二人がぶつかり合ったことに俺が推して知るべき理由は無いだろうが、クイップさんがむざむざと弟子の命を放り捨てる人間ではないと思っている。

「……ふんっ」

 アレスは実に不服そうながらも師匠の言うことを受け入れた。膨れる横顔を見たクイップさんは一つ頷くと、俺に向いて「行きます」と合図する。

 クイップさんを先頭にして三人で走り出した。ドゥーマは束になって向かってくる俺たちを見るなり、すぐに反撃の手を伸ばす。肉薄したクイップさんを掬い上げるように腕をしならせるが、どす黒い鉤爪は固い大地を舐め取るに過ぎない。

 伸びた腕と体の間に滑り込んだ剣士がレイピアを閃かせる。青い筋肉から血飛沫が溢れて、伸びていたドゥーマの右腕が肘から切り離された。

「この程度であれば、くたばりようもなかろう」

 砂埃を上げて腕が落ちた頃には、俺はアレスの手によって背中へと連れられていた。二度曲線を刻むと、振り向こうとしたドゥーマの後頭部に強烈な蹴撃が叩き込まれる。いつの間にか飛び上がっていたアレスさんのブーツが巨体を大地へと這わせた。素晴らしい支援に感謝を言いかけたのだが、彼女は腑に落ちない様子で独り言ちる。

「勝ったのは私だって言うのに!」

 どうやら鬱憤を晴らすために強く当たっているだけのようだ。忘れていたが、彼女の性格にはとても子どもじみた部分があるのだった。師からの忠言はアレスの癪に障ったようで、その憂さ晴らしを一身に受けるドゥーマはいっそ不憫である。

 しかしクランリーダーを務めるだけあって判断は冷静だ。ドゥーマが繰り出そうとする攻撃に対して的確に先手を打ち、勢いが加わる前に阻止している。振り上げかけた手には蹴りを。開きかけた顎に掌底を。軽やかに敵を翻弄するアレスはまるで蝶のようだ。

 ともすれば俺が術式を描き込むのは難しいことではない。無闇に暴れることも許されない獣は、戦いに不慣れな支援者一人振り払えずに居る。唯一厄介なのは翼だと思ったが、これも図体を持ち上げることができるような頑強な作りではない。言わば鶏と同じ飛行能力の無い羽で、障害と呼ぶには些か低い壁であった。

「目が追いついて参りましたな。ルミー殿」

 戦いの最中、俺を連れ引き下がったクイップさんがそんなことを言った。確かにドゥーマが片腕を失ったことで、攻撃がある程度予測しやすくなった。そして徐々にではあるが、高速の剣技が飛び交う戦場に目が慣れを感じ始めている。

「こんな伝説的な戦いを間近で見た支援者なんて、そうそう居ないでしょうね」

「ええ。そして紛れもなく、あなたもその一端を担っておりますよ」

 その言葉に深く頷いた。足手まといだとしても、必要とされて開拓者たちの隣に立っている。かつて夢に見た景色――ふつふつと湧き上がる感情は、俺に数多の伝説と同じ光景を見せてくれているのだ。歓喜がもたらす昂りが足をどれだけだって軽くしてくれる。封印術の発動までに必要な傷はもう指の数程もない。再び悪魔の正面に立ったクイップさんを横目に、俺は自分自身の役割を果たすためにひた走る。

 しかし、伝説は困難が立ち塞がるから伝説だった。ドゥーマの攻撃を防ぎ続けていたアレスさんの体が突如として大きく揺れる。

「あっ……」

 当人でさえ驚きに満ちた声が漏れ、膝からガクンと崩れ落ちた。人らしからぬ不自然な動きが示すのは、アレスの限界に他ならない。何せ彼女は夕方からキッグ・セアルとその部下の襲撃を受け、そして最強の剣士との一騎打ちに臨んでいたのだから。

「アレス!」

 名前を呼んでもアレスは反応を示さない。身体的な限界を迎えた現状に、自らの理解さえ及んでいないようだった。

 青い悪魔はその瞬間を見逃さない。クイップさんと対峙していたはずなのに、すぐに体勢を崩したアレスの方へと瞳を向けた。獣の勘だけでは説明し切れないような知能の高さに、ぞわ、と全身が総毛立つ。

 アレスの首が吹き飛ばされてしまう直前、クイップさんがその間に割って入った。飛び込んだままの無理な姿勢で規格外の腕を弾いてみせたが、未だ残っていた武器である牙が老剣士の左腕を捉える。

「ぐっ」

 初めて苦悶の表情を見せたクイップさんは間近にある顔を蹴り離した。ぶちぶち、と服ではない繊維の引き剥がされる音がして、肘の下には少しのただれた皮が残る。裂けるようにして奪われた左腕は、見るも無惨なものになっていた。

「クイップ!」

 弟子の呼び掛けにも応えないまま、彼は残る手でレイピアを振るう。自身の腕を咥える猛獣の顎を切りつけて上を向かせると、防御のできない腹に剣の柄を叩きつけた。ドゥーマの内側にある骨が鈍い音を鳴らして、悪臭のする体液とともに千切れた腕を吐き出ながら膝をついた。

「今は気にするな。この程度ならくたばらんと言っただろう」

 心配顔を作るアレスを抱え、離脱したクイップさんが言う。しかし、ぼたぼたと留まることを知らない命の露は、体が生み出す最大限の危険信号だ。ポーチから“呪術治療”用の呪符を取り出そうとするも、他ならぬ当人によって止められる。

「ルミー殿も、今は治療をなどと考えなさるな。奴が失血死する前に、術式を完成させてくだされ」

 クイップさんは自らの腕を失くしたことも厭わず、この戦場での勝利に向かって行く。鋼と言う言葉だけでは形容できない精神力。彼が最強の剣士と呼ばれる所以は、さっき見せた絶技だけではないのだ。

 しかしながら重傷であることに変わりはない。いくらクイップさんと言えども、その体は最盛期をとうに越えた老体だ。焦りを行動力に変えて走り出して――その声を聞いた。

「ゥルルルルァァァァッ!」

 内臓が揺れる程の奇怪な叫び。ドゥーマの咆哮は辺りの時間を凍てつかせ、俺たちの視線を釘付けにする。

 開いた口に光が凝縮していく。それは奇しくもマイが生み出していた炎に酷似していた。まさか、と思う間もなく、その正体を誰よりも早く看破したアレスが叫んだ。

「この反応……魔術!?

「まずい――ルミー殿!」

 放たれる赤光。ドゥーマの顔の正面に捉えられた俺たちに灼熱の炎が襲いかかる。高熱の波に目も開けられなくなった直後、俺の体はクイップさんに抱え上げられていた。

 しかし離脱しそびれたアレスの身は火炎に包まれたままだ。左手で生成された幾重かの魔術らしきものが直撃を遮っているが、ドゥーマのそれに比べれば焼け石に水と言わざるを得ない。大地をも焦げ付かせる熱線が彼女の皮膚という皮膚を焼く。クイップさんは俺を魔術の及ぶ範囲の外へと置くと、薄氷で炎を受け続けるアレスさんの元へと疾駆した。

「ぬんっ」

 大上段から振り下ろされた力強い一撃が焔を裂き、空気が揺れてドゥーマに迫る。飛ぶ斬撃は湾曲した角の一本を砕いたが、直撃を避けるようにドゥーマの青い体が火炎の中から這い出した。眼前のクイップさんを躱し、その先に居るボロボロの女性へと迫る。

 ドゥーマの狙いは変わらずアレスだった。獣の勘か、一人でも戦闘不能に追いやれば優位になることがわかっているのだ。

「……っ」

 腕を頭上で交差したアレスだったが、ドゥーマの腕力は人の力では到底受け切れない。それをわかってか、クイップさんが間髪入れずにその間に自らの剣を差し入れた。

 割って入ったクイップさんの細剣とドゥーマの腕がぶつかる。少しの拮抗の後で、甲高い鋼の悲鳴が聞こえた。名を持たない剣は真っ二つになり、その切っ先が荒れ果てた地へと突き刺さる。

 障害が消え、依然狙いはアレスのまま。全てを蹂躙する魔の手が彼女へと突き出され、クイップさんはそれを止めんと動く。武器を失った老剣士は、最後の盾を弟子の前で広げていた。

 聞き覚えのある鈍い音。遺跡で聞いたばかりの何かが壊れる嫌な予感がした。

「がふっ」

 片腕を広げたクイップさんをドゥーマの腕が貫いている。

 キッグ・セアルの時と同じだった。頼もしいはずの背中には血に染まった鉤爪が飛び出ていて、そこにあってはいけないはずの器官をくり抜いている。ドゥーマの腕が引き抜かれると、クイップさんの体は臓器を垂らしながらゆっくりと揺れた。

「あ……」

 呆然とするアレスが再び狙われる。小さな頭が鬼の手に包まれ、脳漿をぶちまける姿を否応なしに想起させられた。世界はあまりにも純然に、死という現実だけを突き付けて――


「――待て」

 地獄の底から轟くような冥府の声音。その響きに、『厄災』と呼ばれる悪魔でさえ動きを止めた。

「私の弟子に何をしようと言うのだ」

 暗褐色に濡れた体がぬるりと沈んだ。ドゥーマの巨体によって全身が見えなくなった直後、爆音にも似た空気の高鳴りが巻き起こる。青い肉塊は土手っ腹に風穴を開け、どんな馬よりも早く、とてつもない勢いで吹き飛んだ。

 殆ど柄だけになった剣での一撃。先の攻撃も比較にならないその威力は、距離を置いていた俺の身が硬直してしまう程の旋風となった。嵐が止み、荒野に転がったドゥーマはビクビクと痙攣を起こしている。

「……!」

 あまりの衝撃に言葉を失った。人はその身一つでここまで強くなることができるものなのか。今まで様々な開拓者に出会ってきたが、俺というちっぽけな人生の中では、間違いなくこれ以上の剣閃を見ることは叶わないだろう。それほどまでにあの一撃は雄々しく流美で、人間の至る最高峰の剣だと思った。

 しかし、人智の及ぶ剣を超越した老剣士の体がふわりと揺れる。芯を失ったように足首が不自然に曲がり、血濡れた体が後ろで守られたアレスの前に落ちた。

「ク、イップ……?」

 倒れた師の姿に、彼女は酷く困惑していた。広がった血液が枯れた大地の割れ目に吸い込まれていく。それは次から次へと落ちて、溢れんばかりに地脈を巡った。

「クイップさん!」

「待って……クイップ!」

 片腕と胸郭を抉られた体はやけに小さく見えた。俺はすぐに“呪術治療”を施そうと呪符を取り出すが、その手はさっきと異なる理由を持って塞がれてしまう。

「無駄です……この傷では、いくら貴方でも治しようがない」

「そんなの、やってみなくちゃ……っ」

 無責任な言葉は悟った眼によって遮られた。信じたくはないが、絶え絶えの息と戦士である彼の直感が全てを物語っている。既にクイップさんには治療に耐えるための体力が残っていない。よしんばあったとしても傷口が大き過ぎる上、腕をも失っている体は血液が全く足りていないだろう。

 俺は自らの愚かしい考えを恥じていた。この戦場に居て、未だに伝説の中身が綺麗なものだと信じていたのだ。物語のような人生を歩む人間には凄惨な道など訪れない、と。しかし現実は誰かを特別視なんてしなかった。

さっきの一撃はおそらく火事場の馬鹿力だ。命を削る攻撃を瀕死の体で繰り出せば、どうなるかなんて火を見るより明らか。俺が肩を落とすよりも早く、酷く表情を歪めたアレスが身を乗り出す。

「嫌よ! 貴方が死ぬなんて、私が許さない!」

「アリシア……」

 クイップさんは奄々の気息で知らない誰かの名を呼んだ。しかしその目はアレスさんを離すことなく、愛しい我が子に語りかけるように言った。

「私はお前に、救われていたのかもしれんな……」

「そんなことない! 私はただあなたに教えを乞うだけで、まだ何も返せていないのよ!」

 アレスは現実を受け入れまいと首を振り続ける。その姿は、巣立ちを前に泣きじゃくる雛鳥のようだった。

「あなたに名前をもらった。強さをもらった。それでも私にはまだあなたが必要なのよ! だからっ」

「お前はもう、私より強い。越えた者の背中など、いつまでも見るな」

 父親はずっと前から我が子を認めていた。それはきっと、彼が【アメトランプ】を訪れた日よりももっと以前に。なぜなら俺が初めて出会った日、クイップさんは彼女のことを“ギルド最強の剣士”と呼んでいたのだから。

「強くなれ、アリシア。他の誰でもない、お前自身のために――」

 アレスが必死に言葉を叫んでいる。しかし無数の想いを孕んだ声は彼には届いてはいないようだった。

「あぁ、そこにおられたのですね」

 クイップさんはぽつりと呟き、そして愛おしそうに弟子の頬を撫でた。

「泣かないで、くださいませ」

 空虚な瞳は月の向こうを望んでいる。掴んだ愛弟子の頬には、大切な誰かが重ねられていたような気がした。猛々しい彼には似合わないような、ずっと練習していた気さえする優しい声音がアレスから流れる雨を拭った。

 ふわりと手のひらが落ちていく。歴史を孕んだ花筏は、大切な人を守った赤い海の上に浮かんで、やがて静かに動かなくなった。


 たった一人の弟子の絶叫が響き渡る。痛ましい声は、終幕を告げる挽歌として荒野に広がった。

 ――ギルドの伝説、“破剣”のクイップはその生涯を終えた。
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