第35話 英雄への道を歩む者

文字数 5,167文字

※――――――――――――――――――――――

 暗闇の中に一人で居ることは、もう慣れたものだと思っていた。

 灯火が消え、月の蒼い明かりしか入らない場所。いつ崩れたっておかしくないくらいに破壊された遺跡は、気が狂いそうなほど静かだった。

 ――いや、運命はとうに狂っていたのだ。この祭壇の間に辿り着くずっと前、セアル家としての血筋を持って生まれたその時から。

 横を見れば、そこには血を分けた兄が無残な姿になって倒れている。彼もまた、歴史の影に埋もれたセアル家という足枷によって怪物へと変わってしまった者。迷子の手を優しく引いてくれた面影を捨て、ただ破壊を望むだけの凶禍としてその一生を終えた。

「……」

 もう兄の名前さえ呼べなかった。私はあの人を同じ人として見ることができない。父を殺し、家族という繋がりを弄んだ。その罪を未来永劫赦すことなんて有り得ないだろう。

 だけど、それは私だって同じだった。マイ・セアルには、もう生きる資格の一つだって無い。

私が家を抜け出して、一体どれだけの人が道半ばで倒れてしまったのだろう。無関係の人たちを危険に晒し、それでも犠牲を厭わず進んだ先には、自らが危惧していた『厄災』の鍵という呪い。

 もしも私が自分の立場を知っていて、家族との思い出が残るあの屋敷で心中でもしていれば、こんな結末にはならなかっただろうに。何かを成せると驕り、何一つとして果たすことが叶わなかった無価値の人間。それがマイ・セアルに焼き付けられた烙印の全てだった。

 だからドゥーマが私を殺そうとした時、拒絶を選んだ自分自身がどんなに卑怯で穢れているかを自覚させられた。結果として命を乞うという悪魔の姿にも劣る醜悪な痴態を晒し、どうしてかそんな願いだけは叶ってしまった。私は、死ぬことを恐れている。

 見つけたくなかったおのれの弱さを映すように涙が落ちた。つっかえる呼吸にえずき、顔をうずめると、服の中に仕舞っていた小さな瓶がからん、と床とぶつかる音を立てる。

「……」

 消えない光を携えたそれは、私を助けてくれた人が呪術を教える時に作ったものだ。呪いだって誰かを照らせる。彼の言ったそんな綺麗事が脳裏を過ぎった。

「……!」

 転がった小瓶を引っ掴み、高らかに掲げ、激情のままに地面へ叩きつけようとした。しかし振り上げたところで、私の爪は手のひらに食い込んで離れない。

 私はまだ信じたいと思っている。あの人が言った夢のような言葉を。

「どうして……!」

 なぜ逃げないのか。見捨てれば簡単に生きられるはずだ。自らの命を大切にすれば、支援者という肩書きを鑑みれば、彼はこの戦場を一目散に抜け出すことが正しい選択なのだ。そのはずなのに。

「どうしてっ」

 圧倒的な暴力による絶望を見せつけられてもなお、力無き彼は諦めない。

 だけどそんなことは最初からわかっていた。あの洞窟で助けられた時、彼は誰かが命を賭けるだけで、自分の命までともにできる強さを持っている。彼の友人たちが「お人好し」と称した強さに甘えて、私は彼をこの戦場に引き摺り込んでしまった。

 私が彼を呪ったのだ。彼を心の弱さで縛り付けた。そして今も、彼はその呪いに必死に立ち向かっているに違いない。

「もし、私が死ぬとしても……」

 私はその後の言葉を飲み込んで決意にする。兄に踊らされた運命。呪いを解くために必要なのは、同じ呪いを持った存在だけなのだから。

 立ち上げた体は思っていたよりもずっと重い。でも今は、その重さが操られた人形の糸を引き千切る。私は光に誘われるように、抗いの道を歩き出した。

※――――――――――――――――――――――

 なぎ払われた体はピクリとも動くことはなく、押し上げる後悔さえ思考から溢れ出る。脳は光の屈折だけを信号にして受け取り、それ以外の機能を一切働かせることはなかった。

 ――あぁ、クソ。駄目だったか。

 視界の先には何もかもが元通りになった悪魔の姿。全てを無に帰すその力に、俺は絶望なんてありきたりな言葉を浮かべていた。近くに転がった刻時石は、頭から流れる血を浴びても存在を主張するようなことはなく、ただじっと黙っているばかり。

 どうして封印術は完遂しなかったのだろうか。描いた術式は間違いなく刻時石にあったものと同じだった。あれだけの研究期間を費やして、もはや実物が無くともその形を描き起こせる程に記憶している。何度交互に見遣っても寸分の違いも存在しない。

 すると導き出されるのは、俺自身の技量――唯一の才能である呪術の能力が、ドゥーマの封印には及ばなかったということ。

 もし本当にそうであるなら、俺は俺を笑うことしかできない。夢であった開拓者の道を絶たれ、やっと手に入れた呪術には慢心だと嘲られる。ともに命を賭けてくれたハリエラさんやアレス、そしてクイップさんにも合わせる顔なんてあるはずもなかった。偶然近くに突き立っていた伝説の愛剣の片割れが、主の仇だと言わんばかりに俺を責め立てる。

 うつ伏せのままだらだらと血を流す体は、恐怖と自分自身の薄ら笑いで震えていた。死と正反対にいる悪魔が、死とともに近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。

 結局、俺はあの子の願いを叶えてやることをできなかった。希望を持たせるような言葉だけを言って、この惨状を見た彼女にどれだけ残酷な思いをさせるのだろう。戦う力も技術も持たない無力なルミー・エンゼという男は、何も成せずに消えていく。

「ごめん、な」

 誰にも届くことはない懺悔を呟き、俺は静かに目を閉じた。


 死を、待つ。

 光を認識できなくなった脳は、戯れに思い出を再生した。それは俺を言葉で救ってくれた兄との思い出でもなく、支援者として歩んで来た日々でもなく、自分の店を開いた日のことでもなかった。

 必死に何かを掴み取ろうと努力する、健気で儚い少女の姿が泡のように浮かんでいた。笑った姿が見えて、それがなぜか嬉しくて。弾けたら、今度は残念に思えて。どうしてそんな感情になるのかはわからない。でも、ただの同情と呼ぶには少しだけ心が痛み過ぎる気がした。

 泡影の思い出たちが、ぱちん、ぱちんと消えていく。それは今生の終わりを受け入れるために必要な過程なのだろう。


 再び目を開けば、死神はすぐ近くにいた。藍色の空に差し込みかけた薄明を告げる光を遮って、宝石じみた黒い瞳が見下げている。世界はゆっくりだ。ドゥーマの豪腕が掲げられた先には迎えることのない明日が見えた気がした。その指が体へと食い込み、俺に死を与える。

 その時、赤い光が彗星のように迸った。冷えかけていた体には熱いくらいの熱風が訪れ、ドゥーマの赤い髪や背中の翼がオレンジの炎に包まれる。

「グラァァッ」

 短い獣の叫びが聞こえ、俺はわずかに首を上げた。青い巨躯のその向こう、遺跡の入り口に広がる光景に目を見開く。焦げ荒れてしまった髪が顔を覆うことも厭わずに、両手を開いて叫ぶ少女が居る。

「止まりなさい、ドゥーマ!」

 俺を助けたのは他でもないマイだった。煤けた髪を汗で頬に貼り付けて、あどけなさの残る顔は泥に塗れている。みすぼらしいはずなのに、その姿はどんな貴族にも負けない凛々しさがあった。

 どうして、なんて疑問の答えは簡単だった。数え年よりもよほど大人びた彼女は、逃げるという選択をしなかったのだ。家族の責任をおのれの責任に重ねて、母親との約束を守ろうと戦いの場へと踏み込んでいる。

 暗い森に響いた声がドゥーマの向く方を変えさせた。両手を構えて立つ少女を視界に捉えた悪魔は、燃えたぎる鬣さえ厭わずに歩みを進める。続けてマイが魔術を行使した。いつかに見たような火柱がひとつ、ふたつと命中するが、憔悴し切った彼女の攻撃はドゥーマには全く効いていない。

「だ、めだ」

 叫ぼうとしても、遺跡にまで届くような声は出なかった。感覚も覚束ない今、指先の一本を動かすだけで精一杯だった。もどかしさが募る内に、ドゥーマはマイへと接近していく。炎に包まれた巨大な図体は、まさに悪魔と呼ぶに相応しかった。

 ――動け、動けよッ!

 俺は四肢を引き摺りながら体を起こそうとする。口に土が入ってきても、鼻を、額を、地べたに擦りつけて、それでも体はピクリとも反応しない。刻一刻と、マイの命のタイムリミットが近づく。

 彼女は未だに魔術を放ち続けている。ごうごうと燃え盛るドゥーマの体は一向に留まることを知らない。少女の顔が段々と絶望に染まっていく。だとしても、マイはその場所を動こうとはしなかった。

 あれが彼女なりの責任の背負い方なのだ。実の兄が多くの人間を巻き込み、不死の悪魔を復活させた。そしてこれからもドゥーマは、大昔の伝承のように多くの命を奪い続ける。それを少しでも自分の手で止めようとしている。例えほんの数秒に、小さな命を擲ってでも。

 俺はこの場にいないキッグを心の底から恨んでいた。お前がこんなことをしなければ、彼女はもっと幸せな道を歩めたはずだ。心優しいマイは、きっと多くの人に希望を与えられる人になれるのに。

「こんなところで、終わらせてたまるかっ……!」

 考えろ。彼女を救うために必要なことはなんだ。ドゥーマに飛びつくくらいならまだ間に合う。手元には呪符の入ったポーチがあるが、どれもこれも使い物にはならない。そもそも封印術を起動させるためには手に残る刻時石の術式が必要だ。

 ――あるではないか。さっき奴に刻み込んだ術式の原画とも呼べる存在が。魂を抜き出すことができなくても、術式としての使い道さえ残っていれば。

「おぉッ……! おおぉおああああ!!

 傷口から生命が流れる感触があった。それでも俺は慟哭とともに体を起こす。激痛と看過できない熱が俺を貫くが、今だけは倒れてやるわけにはいかない。

 死んでも、彼女を助ける。

 英雄なんてほど遠い。そんな能力も器も持ち合わせてはいない。けど今は、どれだけでも欲張りたかった。


 全身に通い続ける痛みを無視し、俺は全力で駆け出す。折れたクイップさんの細剣と刻時石を拾い上げて、炎熱を纏うドゥーマに向かう。地面と足がぶつかる度に意識が揺らぐけれど、ここで止まることは絶対に許されない。

 マイとドゥーマの距離は目と鼻の先。気丈に抵抗を続ける彼女からは涙が溢れていた。もう彼女に期待ばかりさせない。次に彼女が太陽を浴びる時、呪いは全て解かれていなければいけないのだから。

「もうその子を泣かせるんじゃねぇぇーッ!!

 自らの戒めとともに、鬼気迫る絶叫が腹の奥から飛び出していた。

 ようやく気づいたドゥーマが振り返る。黒い瞳はやってくる邪魔者を捉えた瞬間に片腕を振り上げていた。衝撃が訪れる直前、俺を打ち払おうとしていたドゥーマの腕の前に人一人分の氷壁が現れる。遠くで倒れ伏していたはずのハリエラさんがこちらへと手を伸ばし、最後の力を振り絞って俺を守ってくれたのだ。

 果たして、左側の鼓膜が破られそうになる程の破砕音が響いた後、ドゥーマの攻撃が襲いくることはなかった。薙ぎ払う腕を阻まれた悪魔は、もう一方の手を大きく振り上げる。しかしその時には、俺は懐の中に居た。

 ――もし果たすべき役割があるのなら、今ここで彼女を守ってみせろ!

 刻時石を握り締めていた右手をクイップさんの細剣でドゥーマに縫い付ける。視界が冴え渡る程の激痛が走るが、ドゥーマの焼け落ちた皮膚の中に、ぐじゅ、と挽き肉を潰すみたいに押し入れた。噴き出した血を全身に浴び、大地に広がった血溜まりに足を滑らせても絶対に離さない。

「グォッ」

 悪魔から短い悲鳴がこぼれる。さらに深くねじ込もうとした時、ドゥーマが俺を振りほどこうと体をぐるりと回した。

「うぁっ!!

 剣で固定された右手を軸にして遠心力に引っ張られる。世界が回る中で確かに一瞬だけ、マイと目が合った。俺は彼女に笑みを向け、無理矢理に靴の先を土に触れさせる。足首がごきごきと嫌な音を鳴らすが、執念でドゥーマの動きを止めることに成功した。

 これが、正真正銘のラストチャンス。

 見上げた先に、俺は始めてドゥーマの黒い瞳に感情を捉えた。驚きに満ちたその顔に向かって、ようやく不敵に笑ってやる。振り上げられる悪魔の腕。その豪腕が俺の頭を吹き飛ばす前に。

「消えろぉぉっ!」

 俺はおのれの持つ才能――呪術を解放する。それによって既に描いていた術式が励起し、紫の光を帯びた。

 次に聞こえた悪魔の声は、気迫だったのか、悲鳴だったのか。赤と青がごちゃごちゃになって混ざり合う。ぶちり、という音によって忘れていた激痛が蘇り、チカチカと色の変わる世界で、視界が暗闇に落ちていくのを感じた。

 ドゥーマと剣、そして右腕ごと巻き込んで完成された封印は、俺の意識ごとその全てを消してしまった。
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