あおいと恵

文字数 3,801文字

 大我は柊宅に身の置き場がないことに居心地の悪さを感じていた。出来上がった家族に参加することは難しい。これまでと違い家族でご飯を食べるときはテレビがついていて、そこに日常の会話もある。
 「そういえば、健太郎、みっちゃんのお母さんがスーパーでこそこそ買い物してて、みっちゃんの様子はどう?お菓子をカゴに入れたり出したりしてたから、金欠気味なんだとおもうけど。まあ、うちの方がましかもしれないけど。でも、新しい体操服は待ってね。次の次の給料日以降になんとかするから。」
 柊恵は一人で喋っている。健太郎は黙ってゆっくりご飯を食べていて、あおいはおしゃべりな恵に対して明らかに機嫌が悪い。恵の夫である大輔も言葉と表情が少なく、影も薄い。この家は恵が中心となって動力を動かしている仕組みになっている。大我は騒がしい恵を面倒に思うし、早くここから出たいと思っていた。それに、小さな輪っかの中でカラカラ回るハムスターのような女が、自分の母親ではないと思っていた。これは無駄な時間だ。なんであおいは自分を引っ張ってきたんだろう?もし、好意があるのなら、こういった中身を見せようとは思わないはずだろう。もしくは、全部見せたいのだろうか?そっと視線をあおいに向ける。あおいは笑顔を返すこともなく、汚れきったヘドロで溢れるヌメヌメの排水溝を覗き込んだような絶望的な表情を浮かべていた。
 「ところで大我くん、お父さんはいつ帰ってくるの?ほら、うちって狭いじゃない?私たちみたいな他人の家にいるのは辛いと思うのよ。ねえ?」
 初日から退去命令を笑顔でしてくる恵に対して、大我は確かにここにいたくないが、そう言われるのも心外だと、つまらないことだが、腹が立ってきた。さっさと出て行ってしまおうと思ったが
 「お母さん、それは失礼だよ。大我くんがかわいそうだよ。お母さんと稲尾さんって友達じゃなかったの?」
 あおいは、この後及んでなぜ、自分を引きとめようとしているんだろう?大我はそこに興味を持ち始めていた。それほど自分のことが好きなのだろうか?あおいの顔をじっとみる。形の良い顔、大きな目は少し目尻が上がっていて鋭い。眉もそれに平行に伸びていて、涼しげな表情を与えている。鼻筋がスッと通っていて、歯並びも綺麗だ。気が強そうだが美人である。色も白く、儚げなところがあり、そこに魅力を感じる。
 「泉さん、いい人だったのよ。私とは全然違う星の下に生まれた人なんだろうけど、普通に接してくれたし。あんなことになって確かに気の毒に思うわ。そうね、泉さんが出来なかったことを大我くんにしてあげることが供養になるのなら、そうしてあげたいわね。」
 恵は表情を変えて、しんみりとそう言った。泉と恵がどう言った関係だったのだろうかと大我は考えたが、ご近所だけの付き合いではないように思えた。何か思い出さなくてはならないことがあったが、生活の変化に合わすのに集中していて、ここまでの出来事が頭の中で固まりとなって、細かな記憶に死角を作っていた。
 大我は食後、部屋に閉じこもって、床に座ってソファーに合わせた低いテーブルで学校の宿題をしていた。そこへ風呂上がりで髪を濡らしたあおいは入ってくる。あおいは何の躊躇もなく、大我の横へ座り込み、息がかかる距離についた。大我は風呂上がりの女の匂いに圧倒された。胸が沸き立つような欲情が立ち上がる。シャンプーの甘い花の香料に紛れて、ミルクを炒ったようなまとわりつく匂いが、あおいから立ち上がっていた。大我は胸の鼓動が耳の奥から湧き上がってくるのを感じた。戸惑いもあれば、欲もある。
 「ねえ、あとで宿題見せてよ。なんか、私、今日疲れちゃったから。」
 表情が消えていたが、親密さは十分と伝わった。大我はあおいに女を意識した。視線をずらしてパジャマからのぞき見える胸元に視線を送る。柔らかな白い谷間が広がっていた。
 「ちょっと、見たでしょ?」
 「先っぽは見えてないよ。」
 「バカ。恥ずかしいじゃない。」
 「ちょっと、近いわよ。」
 あおいの声ではなかった。恵が部屋に入ってきたのだ。舌打ちをしてあおいは部屋から出て行った。残された大我は気まずさに口を閉じるばかりだった。
 「まあ、中学生同士だから、そういうことにはならないとは思うけど、もちろんダメだからね。これ、寝間着とタオル。順番が最後になってあれだけど、お風呂はいっておいで。洗濯物は一緒に洗うから脱衣カゴにいれとけばいいから。」
 恵はさっきと違って、冷静で声のトーンも低かった。怒っている様子でもない。ただ、大我の世話を普通の生活の一部として対応していた。この場での顔になっていた。その様子に大我は恵に対して、良い印象を受けた。母の恵も、娘のあおいも、その場で表情、雰囲気を変えてくる。比べる必要もないが、稲尾泉は、いつでも同じだった。たまに憂を含んだ顔をすることもあったが、泉は全てを受け入れていた。大我は小さな風呂に身を縮めて入り、泉のことを考えていた。全てを受け入れる、何にもしがみついてない泉は、あの大きな稲尾の邸宅の、広い庭で、薄暗い明け方、首を絞められて死んだのだ。泉は悲鳴も上げなかった。近くで殺意があれば大我は気がつくはずだが、それすら無かった。自分が未熟なだけかもしれないが、窓から見える場所で殺人が行われた場合は、何かしらの音、気配がしたはずだ。それが全くなかった可能性がある。つまり、泉は、殺されることをためらいなく受け入れたのだろう。同時に、犯人は、強い想いも気配もなく、それを実行したことになる。ためらいや殺意のない殺人の実行は、殺道の極意である。それが、継承者である自分のすぐ近くで行われたのだ。叔母である泉は、最後に油断するなと教えてくれたのかもしれない。いや、叔母ではなく、本当に母親だったのかもしれない。それは、もうわからない。父である圭に聞いても、圭はおそらく「自分で考え、判断しろ。それが事実になる。」という教えを出してくるだろう。そういったことを考えながら、さっきのあおいの胸元や匂いを思い出し、大我はムズムズしていた。この風呂に、さっきまであおいが入っていたと意識すると、死んだ泉に対して申し訳ないが、そのことは忘れようとしてしまった。今はあおいと肌を合わせたいことが頭の大部分を占めている。その手であおいの隅々まで触ってみたい。その感触を手に入れたい。唇は柔らかいのだろう。腹に顔を埋めてみたい。その欲望の先が、すぐ先にある。しかも、それを許すような雰囲気もある。だが、管理者の恵が監視員の目を光らせている。大我は暖かい湯船から出ると冷水のシャワーを浴びた。
 風呂から上がるとリビングで恵がパソコンに向かってなにやらしていた。
 「上がりました。ありがとうございました。何をしているんですか?」
 「家計簿つけてるの。市営住宅から出たいのよ。ここって狭いでしょ?お家買うために頑張ってるのよ。大我くんの家は、あそこよね、体操教室があったとこでしょ?うちはあおいを通わせることができなかったの。橘体操教室、月謝結構高かったんだから。あそこは建て替えて体操教室やめたけど、お父さんは今、何しているの?子供を放っておいて仕事とか、大変なんだろうけど、それって良くないことだと思うの。」
 「父はコンサルタントをしていて、依頼があれば、全国どこでも行って、そこの会社をよくしているそうです。現地に行かないと出来ないことなので、仕方ないと思ってます。」
 「・・ふーん、そういうことになっているのね。だったら収入が多くても不思議ないか。いいねえ、お金のあるとこは。うちのお父さんは小さな会社の会社員、わたしはスーパーでパート。でも二人合わせた収入は、コンサルタントの先生ほど無いんだろうな。おばさんも頑張らなきゃいけないね。でもね、うちもそんなにお金ないから、申し訳ないんだけど、死んだ泉さんにも悪いけど、早めに出てってね。あ、これは、あおいには言わないでね。」
 さっきと同じで恵は、素直に取り繕うことなく、思っていることを真っ直ぐに告げてきた。大我は恵の言う通りだと思い、恵の印象を良く思うようになった。となると、恵を怒らすことをしたくはない。あおいに近づくと恵は嫌がるだろう。あおいへの欲望は、殺道の試練が終わってから考えよう。
 「わかりました。おやすみなさい。」
 「おやすみ。」
 その瞬間、恵が何もついてない笑顔を大我に見せた。あれは全てを受け入れる許容の顔だ。母でもないのに泉と同じような顔を見せた恵に、初めて親近感を覚えた。だが、せっかくの親近感は大我に運命の試練を思い出させる。恵は、母かもしれない。だが、あおいと兄弟であることはあり得ない。だが、泉より、恵の方が母である可能性が高く感じた。ノートパソコンを操る化粧気もない三十代後半の恵に非常に興味を覚えた。どうしても触ってみたい。感覚で判断したいのだ。肌は、嘘をつかない。だが、クラスメートの母親を触る理由が普通の社会には存在しない。無いなら作り出す必要があるが、どうやって作ればいい?気になる確認は早い方がいい。今すぐにでも恵に触りたいが、理由なく触れば、恵は何か違う目的を見出すに違いない。それは事件になる。
 「大我くん、宿題見せてよ。」
後ろからの声に驚く。あおいだった。
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