戦わないと終わる

文字数 3,671文字



 知世の家に二人で帰った。感情は走っている間に収まり、ただ、昨日と同じような気分に戻っていた。二人でいて取り立てて嬉しいわけでもないし、それが苦痛であるわけでもない。部屋は静まり返っていて、特に話すこともない。お互いが指摘したり、説明を求めたりする必要がない。
「先にシャワーでも浴びてなさい。ご飯作るから。」
知世はそれが当たり前だと言わんばかりに、夕食の支度を始めた。大我は「あー」と短く返事をする。二人とも他人であることを忘れているかのように、客でも、主人でもなく、共同生活者としての自然な振る舞いを始めていた。
シャワーを浴びながら大我は、泉、恵と知世のことを比べていた。泉は情愛を込めて包み込むように接してくれた。恵は、普通の家庭の母親像を見せてくれたし、他人である自分に対して、特別な接し方をしなかった。普通に受け入れてくれた。泉も恵も、イメージにある母親らしい態度で接してくれた。が、知世は、慈悲や寛容さなどを感じさせない。だが、泉や恵と違って、感情を露わにするし、何か施そうとする演出もない。味も素っ気もないが、なぜか、一番親しみを感じてしまう。全く理想からかけ離れた母親像を持っているが、不思議と一番身近に感じてしまう。
シャワーの熱のある流れが髪の間を染みるように滴っていく。その軌道が画一的ではなく、無条件に広がるような、非常にとらえどころがない感触がするが、その定型にとらわれない水の流れが、体を伝っていくことで、自分の体の形を切り取られたごとく、自身がはっきりとした存在に感じられる。服を着ることで形の中に埋没する方が、人としての存在が際立つような気がしていたが、無形の水に流されている方が、人としての形が際立ってくる。固定ではなく、流動の中にこそ形がはっきりと浮き上がる。シャワーを止めると、流れが止まり、自分の形が世界に埋没するような恐怖を感じた。大我は体をタオルで拭きながら、水に埋もれた自分の形を発掘する。流体が、世界と自分の境界を曖昧にしていたが、流体が取り除かれると、ヒリヒリするほどの世界が、自分を覆い尽くそうとしてきた。ヒヤリとした空気が体を撫でることによって感覚が研ぎ澄まされる。大我は思いかけずに思いつく。
もしかして、知世が母親なのではないか?
確たる証拠もないし、そうであって欲しいとも思えない。だが、大我はここに正解を見つけたような気がする。だとしたら、殺さないといけない。いや、殺す前に、知世がしがみついているものを引き離さないといけない。
泉は殺された、恵は勢い余って殺してしまった。結局のところ、殺道の師範であり、父である圭に言われたことが何も出来ていない。いや、失敗したと言っても過言ではない。警察にも目を付けられてしまった。挽回するにも、もう遅いような気もする。しかし、だからこそ、これだけはしないといけない。知世は母であると決めて、継承の為の使命を実行しないといけない。
「上がった?ご飯にするわよ。」
大我は生返事だけして、箸や食器をテーブルに並べる。その間、知世も大我も表情は変わる事はなかった。当然のことを当たり前にしている生活に染まっている。
二人で向き合い手を合わせていただきますという。麦ごはん、椎茸と人参とこんにゃくを照り焼きにしたもの、筍とえんどう豆を煮たもの。大根とからし菜の酢味噌和え。主菜が、肉が、魚がない献立。塩、野菜、穀物、味噌はあるが、魚などの動物性の出汁はない。卵もない。口に入っている間は、確かに美味しいし、歯ごたえなんかもあるのだが、食べた後の、腹の中で、大事なものが無くて、スカスカに感じてしまう。だから心が、精神が落ち着かないのだ。
無言で食べて、腹が満たされるだけで、心が満たされるわけでない。菜食主義に慣れない自分だけがそう感じているだけだと思っていたが、食べ終わっても、満たされたものが顔に浮かばない知世を見て、大我は、自分と一緒だと気がついた。
「なんで、肉を食べないんですか?」
「自分が生きるために、他の動物の命を奪う必要がないからよ。逆に、大我くんに聞くけど、なんで肉を食べたいの?」
「肉を食べないと、気持ちがスカスカになるんです。」
「それ、理由がある?」
「たぶん、あると思うけど、僕は科学者じゃないから説明できない。でも、ここ数日の菜食主義の食事で、明らかにイライラし始めました。」
大我は圭に言われた、肉を食べないと精神が安定しない、肉を食べなかったら、人は残酷になり、戦国時代に舞い戻ると言いたかったが、科学的でないのは間違い無く、言えば知世から質問責め、もしくは「命とは」という講義が始まるような気がして、言い出せなかった。
「私は肉を食べることを辞めてから、頭の中がハッキリし始めたの。正義と悪がわかるようになったのよ。中途半場は許されなくて、悪を滅ぼさなくてはならないって思うようになったの。白黒がハッキリした方が、曖昧なものが無くて、すっきりした気分になれるのよ。」
でも、全然楽しそうで無いし、寛容さも見当たらない。自分の正義に託けてイライラして、自分を通そうとするばかりのワガママな存在になっているじゃないか。と大我は言いたかったが、どうせ、自分の正義、清潔感にしがみついて、人の意見なんて聞けないだろうから意見なんてしたら炎上しかない。
知世は自分の正義、清潔にしがみ付いている。
大我は、不意に知世がしがみ付いているものを発見した。そのしがみ付いているものから、切り離してあげないと、知世のことを殺せない。いや、殺さないにしろ、人生を楽にするためには、イライラせずに過ごすためには、正義、潔癖から解放しないといけない。
「なんで、そこまで自分の正義にこだわるんですか?ちっとも楽しくないでしょう?」
「正義がなんで悪いの?正義を捨てて、楽しいことを大事にした方が良いってこと?それは堕落でしょ?堕落の先は不幸しかない。」
「でも、正義のため、清潔のためにイライラするのは、幸福なことじゃない。イライラしている時点で、不幸だ。それに、声高に正義を叫んで戦争するのは、決して良いことじゃない。」
「正義がない世界なんて、ゴミ箱と一緒じゃない。ゴミまみれの中で仲良しこよししてても、無駄よ。小汚い豚小屋の方が、堕落した方が楽だとしても、そんな世の中、意味がない。」
「なんで、菜食主義の正義屋が、世界の価値や正義を決めることができるんだ!肉がない焼肉屋みたいに、なんの旨味も意味もない世界にしようとするな!」
「あなたが言う楽しみのために、罪のない動物が死んでいくのよ。弱い人たちが、苦労を背負い込むことになるのよ。みんなが楽しくないのに、誰かが、踏みにじられているのに、犠牲になっているのに、それを良しとするわけにいかないじゃない。悪を倒さないと、悪と戦わないと、本当の理想社会は実現できないのよ!私は、正義のために、ずっと戦っているの。なんで、あなたがそれを理解できないの!次の世代、つまり、あなたのために、戦っているのに!」
「そんな恩着せは真っ平ごめんだ。誰が、あんたの正義を求めた?俺には、俺の正義がある。いや、正義なんてないのかもしれないけど、俺が良いと思う価値観はあるんだ。その価値観は、今までの価値観より、ずっと価値があるんだ。」
「なんで、これまでより、あなたの価値観が優れているっていうのよ!」
「これまでは過去として消えるけど、これからは未来として発生する。今から生まれるものが正しいに決まっている。守ろうとすると同時に、それは死ぬんだ。だって、それだけじゃ、生きていけない弱いものになるからな。だから、未来に過去が口出しをしてないけないんだ。あんたがやっている正義や命を守る行動は、未来を殺しているに違いない。あんたの戦いは、破滅を近づけているってことに気がつかないのか!」
大我は思いもしないことが、口からどんどん出て行くことに戸惑っていたが、しかし、これまでの経験、父から聞いた思想により、それは自分の中に埋まっていて、知世と話すことで、発掘されたのだ。
断定的に言葉で攻められて、知世は息苦しさを感じていたが、そのうち、困り果てたような顔になり、それから表情が一切なくなり、さめざめと泣き始めた。
「私は、邪魔だってこと?なんなのよ!人のためって思ってやってきたことが、無駄ってこと?誰よりも、世の中を良くしようとしていたのに、あんたのためにやってきたのに、そのために戦ってきたのに、その戦いでボロボロになっているのに、あんたにそんなこと言われるんなら・・」
大我は、知世が、しがみ付いているものを切り離した。可哀想に思った。これ以上、生きるのは辛いだろうと思った。大我は椅子から立ち上がると、取り乱す知世の首の根元一点をめがけて、指を素早く伸ばした。柔らかな首の皮を触れた瞬間、肌が、知世の存在が特別だと教えてくれた。大我は、後悔したが、勢いがついた指先、手刀は止まることはできなかった。指先の衝撃が、知世の首の中の神経、血管を破いて行く。
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