手紙

文字数 3,832文字


 大我が板橋清彦の家に来て一週間が経った。清彦が毎日、何をしているのかを大我は理解したし、その手伝いみたいなのが生活に組み込まれつつあった。大したことはしていない、洗濯と食事の支度と掃除、通帳からの出金、公共料金の支払い。マニュアルのようなノートがつけてあり、必要なものはまとめてあった。
「橘くん、ちょっと疲れたから、先に休ませてもらうよ。」
 いつもなら「おやすみなさい」と二階に上がる清彦が、今日に限って違うことを言う。少し気になったが、ようやく一階に一人きりになれると思うと、さっさと上がって欲しかったので、大我は「おやすみなさい」とは言わず「わかりました。あとはやっておきます。」と返事をした。
 スマホを取り出し未読の稔からのメッセージの見出しだけを見る。「どこにいる?」「心配している」「何してる?」「困ってない?」見出しは質問ばかりで、辺鄙な生活に閉じ込められて、答えることが面倒になっていた大我は無視するしかなかった。「引きこもりのババアの食べ残しをどうにかしたいのだが」って稔に言ったところで答えなんて出てこないに決まっている。稔からのメッセージはどうだってよかった。気になっていたのは父である圭からのメッセージだった。あと一週間で期限が来る。「本当の母親を探し出し、しがみつくものを無くして、殺す。」という試練の結果は、行き当たりばったりの無残な結果となってしまった。失敗したという判定なら、もうそうしてもらったほうがいい。もう、どうでもいい。
 音がなくて、静まり返っている。天井は煤けて、薄暗い。畳の部屋で寝転がる。いつも明美がスマホを見ている場所だ。こんなところで、一日を潰していくことを三十年してきたらしい。自らを拘束して、自らを閉じ込めて、自らをジワジワ殺そうとして、ただ、することがない。そりゃ、何もしたくなくなるだろう。ご飯だって残すはずだ。
 明美は一体何を考えていたんだろう?背中を曲げて、縮こまって、世界から自分を遮断して、虚ろな目でスマホを眺めて、自分と全く関係ない情報を漁って、何がしたかったんだろう?もし、自分がそういった所に閉じ込められたら、どうするだろう?
 考えても無駄なことだと分かっていても、考えてしまう。そんなことは、今までの五人ではなかった。そこに引っかかるのが、非常に煩わしく感じたが、おそらく、現時点での明美の存在をこの世の中で知っているのは清彦と自分だけなのだ。そうなると、意味もなく責任を感じてしまう。別に死んだって構わないし、あれだったら殺してもいいけど、それだと、本当に、何もなかったことになってしまいそうな気がする。
 「寝よう。」
 面倒になったら、眠れば良い。その時間だけは、悩みから自由になれる。大我は襖を開けて布団を敷いて気がついた。枕と一緒に「橘大我様」と書かれた手紙が付いていた。もしかして圭がいつの間にかこの家に来たのかと、急いで封を開けた。清彦からの手紙だった。

「橘大我様、私のところに来てしまったことを気の毒に思うとともに、嬉しく思っています。明美が生まれた時、私は妻と大変喜びました。私たちにとっての宝でした。しかし、私たちにとって宝だったとしても、世間では、そうではなかったのです。明美は、優しくておとなしいのが災いとなってしまいました。この醜い世の中で生きていくには弱すぎたのです。しかし、私たちは宝を大事にしました。もしかしたら、大事にしすぎたのかもしれません。しかし、明美が世間にされたことを思うと、私たちが包むしか方法がなかったのです。ですが、私は、やはり、世間に対して申し訳ない気持ちもあります。子育てを失敗したと言う思いはやはりあります。そういう思いがあるからこそ、私は社会人として過ごせたと思っております。
妻が死んで、明美と二人の生活が始まって、世の中と全く関わりがなくなって、しかし、明美に人並みのことをしてやりたい、という思いが強くありました。明美が処女のままで、年老いていくのが可哀想に思ったことがありました。私たちは一緒に風呂に入ったり、一緒に寝てました。ある日、もう思い出したくもないのですが、私は、鬼畜にも劣る所業に出てしまいました。でも、分かって欲しいのは、父として、娘を女にしてあげたかったのです。また、私は明美のことが本当に好きでした。こんなに可愛い女の子が世間から見られずに果てていくのが悔しくもあったのです。一度しか私は間違えませんでした。しかし、あなたが出来ました。橘大我様、申し訳ないのですが、あなたは私と明美の子供です。あなたはここで生まれました。橘さんが引き取ってくれました。息子として育てて、十三歳になる頃に迎えに行かせると言われていました。この十三年間私たちは、待ってました。来てくれてありがとう。私の娘であり、君のお母さんである明美のことを頼みます。さようなら。」

 大我は読み返すことはせず、手紙を破った。クシャクシャに丸めて捨てようとしたが、しかしそれでは証拠が残ってしまうので、ガスコンロに乗せて火をつけた。手紙が燃えて黄色とオレンジの炎と黒い煙が上がる。一瞬、炎が立ち上がり、大我の顔をコゲつかせようとしたが、大我は避けることなく、髪の先が焦げるに任した。手紙が燃えて、ガスコンロからは青い炎が音もなく揺らめいている。顔に熱気が当たるが、頭を冷ましたかったので、火を消した。火が消えると、手紙の燃えカスが、最後の力を振り絞るように揺れていた。燃えカスさえ憎かった。
 あんなのは嘘だ、嘘に決まっている。あんな役立たずの引きこもりババアが母親のはずなんてない。清彦は、ボケたから、嘘書いて、この地獄から逃げようとしているんだ。ここで大我は我に返って、階段を駆け上る。扉を開けると、真っ暗の部屋に、布団も敷かずに清彦が横になっていた。手にはコップが握られている。服毒自殺ということはすぐに分かった。大我は、犯罪者に一足早く逃げられた刑事の気分だった。しかも邪魔な死体を残している。どんな嫌がらせなんだろう。あの手紙は、嘘だ。実の息子にこんな仕打ちをする親なんていない。あんな残酷な嘘を告げて、心を殺して、責任逃れるように、届かないところに逃げ切る。そんな無責任な親が居るのだろうか?いや、ここは地獄だった。それはあるかもしれない。でも、こんな近親相姦クソジジイ、親であるはずがない。親になれるはずがない。しかし、事実は、あの引きこもりババアの明美の親でもある。こんなだから、あんなになったといえば、クソみたいな大人が存在する証になる。
「おい、起きろ!お前の親父が死んだぞ!」
 大我は扉を開けて眠っている明美を起こす。明美は眠い顔をして、よぼよぼと立ち上がり、明かりがついた部屋に寝転がる清彦を見つけた。黙ってじっと見て、さめざめと泣き始めた。その場にへたり込んだが、決して清彦に近づこうとしなかった。
 「お前をずっと世話してきた父親が死んだんだ、早くどうにかしてやれ!」
 大我は声を荒げていた。腹が立って仕方がなかった。
 「・・・怖い、怖い、怖い・・。」
 そう言うと明美は部屋に戻り布団の中に潜り込んだ。その様子に大我は激しい怒りというより、如何しようも無い恥を感じていた。あれが同じ人間なのか?親が死んでも、何もできないで、逃げてしまった。これまでずっと世話してきた肉親に対する態度なのか?何も知らないから仕方ないのか?バカなのか?こんなのが生きている必要があるのか!怒りや恥が沸き立ちながら、途轍もない恐怖を同時に感じていた。
 この地獄のクソ親子の子供が自分なのか?
 そこから、生まれたのが、恥とか無気力とか敗北とか情けなさの結晶が、自分なのか?そんな仕打ちがこの世にあるのだろうか?俺は何か悪いことをしたのだろうか?なんで、俺は、ここにいる。なんで、清彦は明美を残して死んだ?あいつらは世間から知られずに生きて、知られずに死ぬべきだったんだ。それは理解して、そうしてきたのに、なんで、最後に絡んできた?なんで、最後に呪いを残した?俺の父親は橘圭しかいない。こんな地獄とは無縁だ!
 「俺には関係ない。」
 そういうと大我は扉を閉めて、下の階に降りた。深夜になろうとしていた。すぐにでも逃げたほうがいいと思われたが、死んだ清彦をそのまま放っておくことも出来ず、せめて明日の朝までは居ようと思ってしまった。もし、今、闇の街に紛れたら、その闇から抜け出ることができなくなるだろうし、ここまできて、使命を果たさないのも、違うように思われた。それと、布団の中で眠りたかった。こんな時に冬の外で夜を過ごすのは、嫌だった。

 朝になった。清彦がいないので、ご飯を炊き、味噌汁を作り、卵を焼いた。朝の支度が済んだ。清彦は明美を起こしに行くのだが、大我はそれをしなかった。二人分の準備まではして、自分の分はサッサと食べた。その片付けまではした。そのまま家を出ようとしたが、この事実を明美に説明しないといけないと思ってしまった。清彦が五十年、家からほとんど出さずに大事に育てた宝を、放っておくことが出来ない気がしていた。「あとは自分でしてください。」この一言を言わないと、死んだ清彦が報われない気がしたのだ。もしくは、明美が自分で自分の生活をなんとかする姿を見届けたいという思いもあった。じゃないと、清彦の人生が無駄になってしまう。と思おうとしていた。
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