マザー

文字数 2,767文字

 明美が起きてくるのを待っていたが、9時を過ぎても降りてくる気配はなかった。起こしに行く事も考えたが、それをすると、この家の仕組み、歯車の一部に組み込まれてしまい二度と外に出られないような恐怖があった。味噌汁は冷め切って、ご飯も表面がカチカチになろうとしていた。時間は取り戻すことができない。静かな食卓で待ち続けるのも耐えられそうになかったので、スマホを取り出し、何かを見ようと思ったが、それでは明美の行動と被るので、それは避けたかった。小さな画面に囚われると、やはり、この家の歯車になってしまう。本当は、さっさと出て行けばいい。でも、もう少しだけ待ってみよう。音楽でも聞こうか?稔が送ってきた曲だ。マザー、作詞作曲ジョンレノン、日本語訳歌詞付きの動画だった。

お母さん

あなたは僕を世界に産み落としただけで

僕のそばにはいなかったんだ

僕はお母さんが欲しかった

でも、お母さんにとって僕は必要なかったんだ

だから僕はお母さんに言わないとね

さようなら、さようなら

 歌を聴いて、歌詞を読んで、大我はドアを開けることを悩んだ。さようならっていう必要しかないのは理解していた。でも、ずっと欲しかったことには変わりない。静まり返った部屋で、空気が固まっていた。一時的な感情に飲まれそうになりながら、冷静になろうとしたら、これまでの母親たちのことを思い出した。
 稲尾泉、あんなお母さんだったら良かった。全部もっているんだ。でも、たぶん違う。それに、そばにいなかった。
 柊めぐみ、あんなお母さんだったら、普通に暮らせただろう。怒ってくれるんだ。ちゃんと育てようとしてくれるんだ。でも、そばにいなかった。
 原井知世、あんなお母さんだったら、強くなれただろう。世界を変えようと思えただろう。でも、たぶん違う。だって、そばにいなかった。
 郁背マナ、あんなお母さんだったら、抱きしめてくれるから愛し合って暮らせただろう。でも、同時に嫉妬でおかしくなったに違いない。たぶん違う。だって、そばにいなかったら意味がないから。
 富山良美、あんなお母さんだったら、僕は優しくなれただろう。僕が心を尽くさないと、母親が世界から外れていってしまう。違う。そばにいたって、つらいだけだろうから。
 板橋明美、あんなお母さんだったら、僕は死にたくなるだろう。何もしないし、何もできない。ずっと世話をみないといけないんだ。だから絶対違う。そばにいたら、二人とも終わってしまうから。
 大我は、答えのない問答を考えていた。結論は初めから分かっている。でも、ここで、考えて、考え尽くして、答えを出さないといけない。でも、それを結論とするのはとても、恐ろしい。それを答えにすると、自分の思う世界から逸脱するに違いない。でも、実際は、初めから自分の考えている世界から、自分は逸脱していた。ただ、必死にしがみついていただけだった。
「お母さん」
父は、しがみつくことで世間と馴染もうとする人間を軽蔑している。しがみつくぐらいなら、世界を手放してもいいと思っている。父は、自分に、母親という幻想にしがみつくのをやめろと言いたかったんだろう。誰かから生まれたという事実があれば、人殺しなんてできない。だから、生まれた元をなかったことにしろと言いたかったんだ。マザーの続きが聞こえる

お父さん

あなたは僕を見切っていたけど、僕は父さんをずっと見てた

僕は父さんが必要だったけど、父さんには僕は要らなかった

だから、僕は父さんに言うことにしたんだ

さようなら、さようなら

 悲しい歌を聴いて、大我は二階に上がる決心をした。薄暗い階段を音を立てずに登る。登っているけど、底なしの沼に落ちていくように感じた。

 「初めまして叔父さん、柊あおいです。私は殺道の試練、成し遂げました。生みの母である稲尾泉を殺しました。私に継承権があると思います。」
 「うん、知ってるよ。僕は柊さんに負けてしまったね。育ての母親がいる状態の方が、生みの母親を殺すことに抵抗がないようだね。」
 「・・いえ、ありました。泉母さんは、私が訪ねた時、喜んでいました。でも、泣いていました。少し話をして、それで、両手を広げて私に命を預けました。私は、とても辛かったです。そのあと、育ての親、私のお母さんが大我くんに殺されました。」
 「目の前だったんだろう?嫌だったろうに。」
 「はい。でも、それは大我くんの試練だったし、私が請け負った試練を、同じように請け負うことを見れたから、自分が一人じゃないって思えました。それに・・」
 「いいよ、なんか、正当化したり、心の被害が少ないようにしようとしないほうがいい。それは心の嘘になる。嘘は人を強くなんかしない。弱くする。人殺しなんて、しないで済むならしないほうがいいけど、どうしても、殺さないといけない悪い人がいる。でも、それを正義感のみで殺した場合は、矛盾が生じる。悪党を倒すために、自分がまず、悪党にならないといけないんだ。あおいさんはそれが出来た。おめでとう。」
 「・・・ありがとうございます。」
 街中のオープンカフェで親子のように話し込む橘圭と柊あおい。あおいがたまらず泣き始めた様子に、街ゆく人は少しだけ関心を示したが、穏やかな顔で対面している橘圭の様子を見て、誰も、すぐに忘れていった。だが、それを近くの席でじっと聴いている二人がいる。
 「ボス、人殺しが堂々と昼間のカフェで、人殺しの正当性を説いてますよ。なんなんですか!我々は橘圭、柊大輔が殺し屋であることまで探り当てたのに、なんで、こんなところで、盗み聞きして、悔しい思いをしないといけないんですか!」
 「・・・山さん、活躍したのは稔くんだ。おまえじゃない。それに、仕方がないだろう。旧世代法があるんだから、我々は法に則り、正義を作るのが仕事だ・・・」
 「昔からされていたことは、時代が変わったからといって、変える必要がない、むしろ保護する必要がある。そんな法律があったことを初めて知りました。公家、武士、神主、忍者、陰陽呪術士などが、まだ残っていて、そいつらが行うことは、今の時代に合わなくても許されるって、そんなの、有りですか?」
 「・・・有りだ。そうしないと、継承してきた人が無駄になる。人がやってきたことに、他人が口を出すべきでは無い。ところで、コーヒーが冷めてきたから、帰ろう・・」

 大我は階段を登りきり、二つの扉の前にいた。手元のスマホからマザーの続きが聞こえている。

子供たちよ、僕がやってきたことをしてはいけないよ

歩くことができなかったから、走ろうとしたんだ

だから僕は、僕は君たちに言わないといけないんだ

さようなら、さようなら

お母さん行かないで、お父さん帰ってきて

お母さん行かないで、お父さん帰ってきて

お母さん行かないで、お父さん帰ってきて

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