六人目の母

文字数 3,560文字


 「行くよ、タイガー。」
 良美は外出時には大我を伴った。大我は良美と一緒にいるのが恥ずかしくて仕方がなかったが、だからと言って、反抗することもなかった。仕方がない流れに乗ると、自分は被害者で、悪意の位置にいなくて済むという善意側の傍観者に成れることが、この時点での落とし所のように思えたからだ。
 良美は障害者手帳を持って精神科に行き、精神安定剤や睡眠薬を大量に処方してもらい、その薬を空き店舗の二階にある殺風景な買取所でお金に変える。
 「タイガー、世の中ってチョロいのよ。被害者のふりして、声を大きく出せば、お金が降ってくる。働くなんて、奴隷志願が嘘の充実感を手に入れるために、わざとらしくしている寒いことなんよ。取る側に回った方が天才よ!」
 良美は大きな声で反社会的なことを言う。大我はそんな良美が不幸に見えたし、奪われ続けているようにしか見えなかった。つまみ食いをしたことによって、一生本当の食事に招かれないようにしか見えなかった。それに気がつかないデブの良美は、風船のように空っぽだ。
 だまし取ったお金で焼肉屋に行く良美、それについていく大我。肉は上等で味も良かったが、どうしても美味しいとは思えなかった。それは大我だけでなく、良美の不満そうな顔に見て取れた。高級な食事をしても、どうしても満たされない。体が充実しない。満腹感はあるが、飢餓感がずっと隣にいる。二人で三万円の焼肉も、それ以上の価値を作り出せなかった。
 二人は帰り道のコンビニで万引きして、食べたくもないデザートを袋に入れてゴミ屋敷に帰る。良美はスマホでカバンや服を物色する。トンネルの中にいる。そのトンネルには出口がない。大我は縮こまって横になるのが嫌で、自分の場所を作り出そうと、周囲のゴミを少し片付ける。ビニール袋、箱、服、ペットボトル、弁当の殻などを選り分けていくと、黒くカビた畳が見えてきて、まだ、ゴミの上に寝た方が良いのではと思っていたら、ゴミの中に白いアルバムが見つかった。そのまま敷くと座ることしかできないが、開いて敷くと背中を預けることが出来る。何気に開くと、写真館で撮られたような若く綺麗な女性の写真が貼ってあった。スラッとした美人、白いワンピースに水色のジャケットを羽織っている。モデルのような女性。どこか見たことがあるような顔。ここは良美の家。
 「お母さん、これって・・」
 「タイガー!勝手に見るな!」
 良美の顔が真っ赤になっていた。ものすごい形相だった。太い腕が伸びてきた。ひっつかまれるかと大我は身構えたが、良美は伸ばした手を引っ込めると、突き出た胸と喉を太い腕で抑えた。激しい感情の起伏で一気に血が巡ると、肥満、脂肪により細められた血管が、血圧に耐えきれず破れることがある。血管が破れて、それが体外に出るのなら、失血で血が逃げるので、それ以上の被害はないが、体内に漏れる場合は、血流が堰き止められ、血圧の上昇が、さらなる決壊を産むことになる。肥満で伸ばされた血管は薄く、破れやすくなっている。内部で溜まって行き場を失った血が、逆流する。疲弊した心臓は生きるために最後の力を出し切ろうとする。だが、過労であり、無駄な努力である。血は巡らなくなり、酸素は行き渡らない。欠乏は最大の苦しみを生む。足りないものを、酸素を継ぎ足そうと、良美は空気の管を開こうと、大きな口を開け、喉を開こうとするが、そんなもので酸欠は埋まらない。酸欠は体の機能停止を促進する。機能がとまると、それを補おうとする他の機能が無理をする。そんな機能は役に立たず、ただ、体を責め立てるだけになる。苦痛は内部から放射状に広がり、全身に激痛のような激しい苦しみを与える。
 大きな体の良美が苦しさでのたうち回る。ゴミだらけの部屋がパッカー車の中のように攪拌され、圧縮されていく。欲しいものに飢えていた良美が、命に飢えている様を大我に見せている。大我は助けようとは思いもしなかった。ただ、死に様をしっかり見てあげようと思った。
 「た、たいがああ、わたしを、おかあさんを、たあすけて・・・」
 喉が潰れてしまったようなしわがれた声で、命乞いをしている。大我は感情が死んだようにじっと見ている。その様に良美は絶望した。
 「たいっがあ、ああ、ああ、おかああさん、ごめんね・・さようなら・・」
 大我は、良美を、見殺しにした。

 大我は目を開いたまま絶命した良美の横に、綺麗な頃の良美の写真を並べた。なんで、こうなったんだろう?アルバムのページをめくると、若くて綺麗だった頃の良美が赤ちゃんを抱いた写真が貼ってあった。綺麗な女性が幸せそうな顔をすると輝きが増す。良美が抱いた赤ちゃんは今、どこにいるんだろう?これ以上、アルバムのページをめくることができなかった。良美の横に圭がいる写真が出てきたら嫌だったからだ。

 大我は夜の公園でベンチに座っていた。凍えるほど寒い夜で、月の白い明かりがさらに地表から熱を奪っているようだった。白く輝く夜、物音なんてしない。体の芯から冷えきりそうだった。誰か、僕を見つけてくれないのか?大我はしがみつくものを探していた。何かにしがみつかないと、風がない冷たい夜に吹き飛ばされそうになっていた。
 ピロロロロン
 スマホの音がなった。稔からメッセージが入っている。白く輝く月の光を集めたようなスマホの画面を凝視する。
 「あおいから聞いたけど、近くにいるんだって?出てこいよ。困っているんだろう?」
 なにやら稔にしては横柄な感じの文面だった。柊あおいのことを呼び捨てにするなんて、少し腹が立った。と同時に、柊あおいは自分が良美といたことに気がついていたし、それを稔なんかに言ってしまうことが嫌だった。
 「どうせ、あれだろ?また、知らないおばさんとこにいて、そのおばさん死ぬパターンでしょ?笑、だったら、これ聞きなよ。」
 曲が添付してあった。MOTHERと書いてあるのは読めた。聞こうと思ったが、こんな月明かりの夜に音楽を聴くことは出来ないのは、世界の常識として、なんとなく知っていた。だいたい、こんな明るい夜には、眠るわけにはいかないので、静かな街を歩くしかない。

 明るくなり、行き着いた場所は小さな古い家だった。駐車場はないが、家の前だけに塀があり、横は同じような家に挟まれている。古い建売住宅だろう。規格が古いのか、今と違って全部一回り小さい。しかし、不必要なものまで揃っている。庭木だとか庭石のようなものが詰め込んだように入り口から玄関までの数十センチの中に入っていた。前の世代は、実用ではなく、様式が美徳だった時代だったのだろう。表札だけは立派だった。
 「板橋清彦 すえ 智彦 明美」
 父親の名が大きく描かれ、妻や子たちが申し訳ないような小さな名前で並んでいる。戦後、家族制という封建的な制度は撤廃されたが、この古い家には名残があったように見える。
玄関の前でじっとしていると、玄関が開き、そこから禿げた体の大きな老人が出てきた。
 「なんですか、こんな朝早くから・・・もしかして、君は橘くんかね?」
 寝ぼけた老人は、大我を見て驚きに目が覚めたようだった。その視線は驚愕に満ちている。大我は来てはいけないところに来たのではと直感で思ったが、今更引き返すわけにはいかないところまで来ていることも理解していた。これまで以上の失敗はないはずだ。なにしろ、もうすでの取り返しのつかない失敗しているのだから。
 「はい、橘大我です。おはようございます。」
 「・・おはよう。まあ、入りなさい。」
 すりガラスの引き戸を開けると薄暗い小さな玄関。玄関の床は石畳で、上がり框は立派なものだった。合板で作られた色あせた靴箱が据えてあり、ところどころ剥がれかかった繊維壁には外出前に顔を見ることができる鏡が取り付けてある。そして、それはすべて小さい。
 「よく来たねえ。さあ、ご飯を作るから座っていなさい。」
 体の大きな老人はストーブに火を付け、白菜を少しだけ切って味噌汁を作り出した。ご飯は炊いてあるようで、緑色の古い冷蔵庫から漬物などを取り出した。
 「卵を焼こうか?」
 と大我に聞いてきたが、わざわざ自分のために焼いてもらおうという気にもなれなかったので 「要りません。」とだけ答えた。
 湯気が立ち上る味噌汁、白飯が食卓に三つ並んだ。部屋は湯気の蒸気とストーブの熱で暖かくなってきた。
 「ちょっと待ってなさい。娘を起こしてくるから。」
 体の大きなおじいさんの娘ならば、そんなに若くないだろう。おじいさんは八十歳ぐらいだから、娘といっても、五十歳ぐらいだろうか?おじいさんがご飯を作って、娘を起こしにいくということは、娘さんは病気なのだろうか?大我の頭に色々な疑問が浮かぶ。
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