冷め切っている熱を帯びた

文字数 3,688文字

 「宿題ぐらい自分でやりなさい。大我くんもあおいに見せなくていいから。」
 「うるさい。あんたには関係ないでしょ。」
 つけ離すようなあおいの言い方、恵の顔は曇り、大我は口を閉じる以外に思いつかなかった。大我はあおいが恵に対して反抗しているのではなく、甘えているように見えた。母親の存在とはなんだろう?ああいったものだろうか?圭に対して大我は犬のように従順だった。言われるがまま、それに尊敬もしていたので、親に対して逆うという選択技は持っていなかった。だから、あおいに対して腹が立った。同時に威厳ない恵に対してもイラつきがあった。自分が知らないもの、自分の価値観以外のものをさりげない自慢のように見つけられたと大我は感じていたが、その自覚はなかった。ただ、ダラシない奴らだと、断罪する視線を送っていた。もし、恵が自分の母親だったら失望する。
「いいよ、見せるよ。」
大我があおいの主張を認めてしまうと恵の立場が無くなる。大我は恵を意図的に追い詰めた。さて、どうするかと見たが、恵は不機嫌な顔をしていただけだった。感情を露わにしないが、本心も持ち出さない。逃げるような女だと大我は恵に対して軽蔑の念を抱いた。人に対して思いや感情を極力持たない大我にとっては、珍しい感情の動きだった。

 「ごめんね、変なとこ見せて。あいつ、うざいでしょ?」
 「そんなことないよ。僕はお母さんがいなかったから、新鮮だったよ。」
 「そうだったね。でも、普通のお母さんって、あんな感じなのよ。子供に関わりたいけど、理解しきれてなくて、でもしがみ付いてくるの。」
 しがみつく。母親は、子供にしがみつく。大我は知らない価値観を見つけたように感心した。圭は「しがみついたものを切り離して母を殺せ」と言っていたが、子供に殺されるとなると、それだけで、しがみついたものを切り離すことになるのではないか?と思いついた。だとすれば、見つけたら実行するだけで、母親はしがみついたもの、信じたものに裏切られ、未練なくこの世から去ることができるのでは?と仮説を立てる。この仮説は大我にとって都合の良い考えであり、それにしがみつくことは、悩みを放棄することと一緒だろうと自覚があったが、それは、自分が壊してしまった自分の大事なものを処理するように、なるべく自分に見つからないように隠そうとする。
 「ねえ、宿題見せてよ。」
 そう言うとあおいが大我に対して距離を詰めてきた。さっきの続きみたいだ。鼻の先にシャンプーの香り、口の周りに女の匂いを感じる。匂いが飢餓を、欲を掘り出そうとしている。大我は冷静にいようとしていたが、女に対する興味がフツフツと湧き出ているし、それは止まりそうになかった。あおいとの距離が近くて、あおいの体温が空気を隔てて伝わってくる。自分よりも少し冷たい温度が、自分の熱気を少しづつ奪っている。だが、それを追い抜かすように大我は熱気を放射する。いつの間にか大我とあおいの間に空気がなくなっていた。あおいがくっついてきたのだった。冷んやりとしたあおいの熱が大我に伝わる。熱を帯びた大我にとってはそれは、心地良いものだった。大我の熱があおいの熱に混ざると、大我は自分の肌が、あおいの肌を食おうとしているのを理解した。腹を空かしている野獣がしゃがみこんで、獲物を狙っている。それは止める必要もないような渦だった。大我は指の先にしびれを覚えた。刃物の先の緊張を帯びたように感覚が鋭くなる。もぐりこむようにあおいが大我の内側に入り込んできた。大我は決して逃さぬようにそれを捕まえた。大我の指先は、あおいの柔らかな肌を捉え、大我の手のひらは、あおいの肌から温度を吸い出そうとしている。大我の息が浅くなり、酸素の濃度が下がると、理性が顔を潜める。二人は無言で自分の服を剥ぎ取る。冬の部屋の温度は低く、自分の熱が放射されるが、それを受け止める肌が吸い付く。扉の向こうには、あおいの家族がいるが、それは喉元に突きつけられたナイフのような緊張を二人に与えていたが、そのスリルこそが行動を解放しようとしていた。喉元にせり上がったきた心臓が暴れる。押さえつけないと体から飛び出てきそうだった。大我の首元にあおいの髪が絡みつく。あおいの首の後ろから女の匂いが沸き立ち、それが大我の感覚を支配する。喉が乾くので、大我はあおいの口に吸い付いた。柔らかな唇の感覚が、電気を帯びてビリビリと体の中を貫通する。心臓が止まるかと思ったが、ここはしぶとく、死ぬはずもない。大我は膨らみかけの胸に下から手を当て、その柔らかで破けそうな感触を手のひらで受け取る。口を離すと、お互いの顔を食べるように舐め合う。手は肌を探り合い、体の表面が、体の表面を吸い付けるように欲しがる。肌が飢えている。
 思いとか気持ちではない、肌への飢餓と肉体への欲が、二人を結び付けようとした時、扉が開いた。裸で重なり合う大我とあおいは、ドアの方を見上げた。真っ白な顔をした恵が立っていた。恵は、動物の交尾のように繋がろうとする子供達を目の当たりにして、しがみつくものを手放した。大我は、大事なところを見られたと言う屈辱と怒りが渦巻き、もぬけの殻になった恵に対して反射神経で右足と右手で踏み込み、その反動を左足で受け止め、それに勢いをつけるために左の肘を思い切り引いて、溜め込んだ力を、右足で踏み込みつつ、右腕を瞬発力で突き出した。大我の指は恵の喉元のある部分を全身の力を倍速で加速させた威力で、鍛えられた中指先に集中させて、恵の大事な管を突き破る。
 恵はテレビのスイッチを切ったように、一切を遮断され、糸を切られた操り人形のように、その場にへたり込んだ。大我は急いで服を着た。体の表面を覆っていた飢餓や欲望は隅に逃げて、ようやく理性が湧き出た。後悔の念がにじみ出る。実行は今じゃなかった。俺はバカだ。大我は無駄だと理解しつつも、その出来事を湾曲しようとした。
 「大丈夫ですか!」
 大きな声を出して茶番を演じる。シナリオを描きながら、助演のあおいも消すことを考えたが、呆然として裸で寝転がっているとおもっていたが、あおいはすでに服を着て、亡骸となった恵にしがみつき
 「お母さん、大丈夫!ねえ、どうしたの!」
 と大きな声で思い通りの助演を始めた。大我はあおいの異常を咎めるよりも、都合よくコトが運ぶシナリオを選んだ。「事実は意志で変えることができる。真実を求めてはダメだ。」圭の教えを思い出す。ここで「しかし」とか「なんで?」を考えてはダメなのだ。恵が突然死んだのだ。それがここでの事実なのだ。

 意味のない救急車がやってきて、意味のない診断のあと、恵が運ばれていく。恵の夫、大輔はうなだれて言葉を失い、健太郎は泣き続けた。柊の家が恵という中心を失い壊れてしまった。大我は居心地が悪いから、ここから早く出たかったが、今出ていくことは、自分が殺して逃げたことに繋がる。あおいが何を考えているのかも全くわからない。あおいは人殺しの大我に恐怖して、ただ、成り行きに任せているのかもしれない。大我がいなくなったら、冷静になって真実を話しだすかもしれない。「殺人に目撃者を決して作ってはならない。」圭の教えを思い出す。教えられたことは出来ると思っていたが、出来ないことを痛感した。しかし圭はこうも言っていた「思い通りにいくことは無い。出来るのは思い通りの形に変えていくことだけだ。」ここからのリカバリーが大事なのだ。

 「・・・また、君か。よく会うな。」
 恵の遺体が彼女の終の住処であった市営住宅から運び出され、大輔と健太郎は、亡骸に付いていった。第一発見者である大我とあおいだけが家に残され、警察官に対して「はい」「いいえ」だけの受け答えをしていたところにボス、東堂がやってきた。事件の疑いをかけられている。大我は面倒だと思ったが、自分の意識を植え替えて、目撃者として完全に演じている。
 「・・・大我、君が部屋にあおいくんといるときに、恵さんが入ってきて、倒れた。そうなのか?」
 「はい。」
 「はい。」
 大我の返事にあおいが続く。
 「・・・また、外傷がない死人が出た。この街には何かあるのかな?大我、おまえは死神を雇っているのか?」
 「ボス、大我くんはひどいショックを受けているから、その辺にしておいてください。なあ、大我くん、大変だったな。君の周りの大人が次々と死んで、ああ、かわいそうだ。大変だ。本当に同情するよ。」
 山岸刑事がボスの追求を潰すように、大人の優しさで大我を励まそうとしている。大我はボスの視線を、その疑いを理解していて、面倒に感じていた。だが、山岸刑事には軽蔑の思いしか浮かばなかった。どちらにしろ、あの一撃を分析することはできないだろう。針か何かでついたような菅への致命的な打撃なのだ。鑑識は突然死までしか辿り着けないだろう。瞬発力、集中衝撃、精度といった、並々ならない技術が詰め込まれた一撃。大我は、ここで初めて実行に移したことに気がついた。大我は、とうとう、人を殺したのだ。
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