一人目の母

文字数 3,635文字



 圭の思惑通りに動けば間違い無いのだが、せっかく会える母を運命とは言え、殺さなくてはならないことに若干の憤りを感じていた。自分には無いものが、人より欠けていたものが、実は、あった。その事実は大我にとっては大きな光となっている。しかし、その光は眩しくて、仕方がないように目を背けている。消せば眩しさに煩わせることはないが、光は、たとえ自分に関係がなくても、希望に見えることがある。
大我は家を出て、母であるかもしれない人が住む家に向かう。六人は、そんなに離れたところに住んでいない。遠くても隣の市、近かったら学区内といった具合だった。四十万人が住む地方都市だが、一人の人間に対しては、決して狭くはない。
「ここか。」
大我は冷静を装っていたが、手の平は汗ばんでいた。いくら激しい運動をしても、いくら怖い目にあっても、大我の心臓は平常運転をしているが、母かもしれない女が住んでいる家を目の前にして、地鳴りのような血が巡る鼓動が、耳の奥でドクンドクンと、やや早めに響いている。
閑静な高級住宅街、大きな家が並び、道幅も広く、日当たりも申し分ない。学生服で一人中学生がウロチョロしていると場違いな感じがする。大我は道に迷ったような振る舞いを心がけながら、大通りに面してない交差点から、じっと一軒の家を見ている。そこには由緒あるお寺を思わせるような日本邸宅だった。庭も広く、白い壁に囲まれていた。中は見えないが、手入れされたばかりの庭の木がピンと空に手を伸ばすように伸びていた。文化財の神社仏閣か、広域暴力団の親分宅か、といった具合の豪邸である。
「あら、もしかして大我くん?」
後ろから声がした。気配を感じなかったことを迂闊だったと後悔し、大我は危機感を覚えて、身を切り返すように振り向いた。そこには品の良い膨よかな婦人がたっていた。ひらひらとした軽い素材でできた軽やかな明るい色のワンピースに、集めの光沢がある紫色の羽織を纏っている。顔は丸く、表情が笑顔に慣れて明るいもので、悩みや影がない一切無い印象がする。だからか、何か特別な光が発せられているように、その婦人は後光がさすように輝いて見えた。暖かい感じが、離れていても伝わってくる。大我は今までそのような人に会った事がないので、同世代の少年のように怯んでしまった。
「圭も鬼じゃなかったようね。大我をちゃんと育ててくれていたんだ。」
予想外の言葉に、さらに大我は怯んだが、しかし、この場で逃げるわけにはいかなくなったことは理解した。大我は緊張で喉が張り付いていたが、仕方なくおずおずと話しかける。
「稲尾泉さんですか?」
「そうよ。あなたの母です。」
「お、おかあ、さ、ん?」
「そう、大我、今までごめんなさい。圭との約束だったから、あなたを生んで、離れるしかなかったの。あなたには、私が知らないほど、色々とさみしい思いをさせたと思う。本当、ごめんなさい。」
大我は平静を取り戻そうとしたが、いきなりの目標発見、突然の焦がれた存在の登場、しかも、会いたかったお母さんは、ちゃんと自分のことを考えてくれていた。居なかったことに拗ねたり、恨んだりしていた負の感情は、こういったときは消えてしまう。だからといって、焦がれていた感情が暴れだすこともない。無くして諦めたものが、キチンと揃えられていた驚き、知らないところで完成していた理想、等の「驚愕」が現実として目の前に現れると、喜びより、驚きが先立ってしまう。大我は、感情の置きどころを失い、どう決着をつけようかと止まっていたが、目の前の母と宣言した泉が、柔らかな笑顔のまま、涙を流し始めて、ようやく心が動き出した。
「あなたが来るのをずっとまっていたのよ。さあ、お家に入りましょう!」
泉は大我の手を繋ごうとした。大我は一瞬振りほどこうかとしたが、指から伝わる泉の掌の感触に、その温度、肌の感覚に、全くの違和感を感じず、その感触が欲しくなり、自分から強く手を握りに行った。それは動物の求愛行動にも似た動きだった。泉はそれを真正面から受け取るように、絡めるように手を繋ぐ。二人の指先が体温を共有し、皮膚のシワとシワを擦り合わせるようにゆっくりと感触を確かめ、お互いの存在を繋げようとしていた。大我は、どこかで感じたような泉の手の感触に、懐かしさのようなものを感じている。はっきりと血の繋がりを感じたのだ。圭の教えを思い出す。

「人間は、生き物は、進化に於いて、目が見えるようになり、それが白黒からカラーになり、より視覚情報を深く得ることができるようになった。結果、今ある情報とは、見た目のものばかりになった。文字も目で追うし、動画から新しいものを取り入れる。視覚と脳が直結して、目に入るものが重要な情報となっている。が、一方で、動物の頃は聴覚で獲物や敵を見つけるためことが出来たが、その聴覚も、身近で聞こえるだけのものに退化している。嗅覚で食べ物、敵を嗅ぎ分けていたが、それも、目の前にあるウンコに気がつくだけのものに成り下がっている。だけど、耳や鼻が発達する前の動物は何から情報を得ていたか分かるか?俺たちのずっとずっと前の祖先、土の中で見えず、聞こえず、臭わずでも生きていた祖先がいるんだよ。そいつらは、肌ですべてを感じ取っていたんだ。肌の感覚が、一番古く、生き物にとって付き合いが長い。もし、目の前にあるものが本物かどうか分からなくなったら、肌で感じることを大事にすればいい。肌は言葉や概念に出来ない判断を、感触で伝えてくれる。わかりやすいのは、温度だな。寒さ暑さは目で見えないし、耳でも鼻でもわからない。でも、温度が一番、命にとっては大事なんだ。濡れたり、燃えたりも、肌は感じてくれる。迷ったら肌に従え。」

泉は自分のことを知っている。だから母かもしれない。と思ったが、そんなにことが早く運ぶはずがない。もしかしたら圭の出してきた罠かもしれない。と考えるが、泉と繋がった手の、肌の感触は、どうしても他人に思えない。「肌が合う」という言葉が大きな意味となって自分を納得させる。泉は、他人じゃない。
「私ね、こうやって、大我と手を繋いで歩きたかった。」
嬉しそうな顔で泉が大我の顔を覗き込む。その顔は眩しすぎて、大我は直視できないかと怯んだが、その顔を、今まで見ることができなかった姿を、一瞬たりとも見逃せないと、大我は逃げずに、受け入れるように、掴むように、泉の顔をじっと見返した。丸い顔をしている。顎に肉がダブついている。しかし、剥き卵のようにツヤツヤとしている。目は大きくなく、細く垂れ下がっている。鼻も小さく、唇も薄く、あっさりとしている。肩が丸く、太っているようだ。もう、自分のお母さんにしか見えない。
「母さん、って呼んでもいいのかな?」
「ええ、お母さんでも、母ちゃんでも、ママでも何でもいいわ。あなたが大きくなって、私の元に来るのは分かっていたの。圭にも聞かされていたから。」
「じゃあ、母さんって呼ぶね。母さんは、なら、ずっと、待っていたの?」
「ええ、あなたと離れ離れになってから、ずっと。長かったから、ちょっと太っちゃったけど、あなたを抱っこしていたころは、もうちょっと、スマートなお母さんだったのよ。」
「別に、そこは気にしてないよ。」
「あなたが気にしなくても、私が気にしてるの。大我にとって綺麗なお母さんでいたいのよ。」
泉の微笑みを見るたびに、大我の心にあった空き地に緑が芽生える。隙間が減っていく。これまで満たされたことがなかった。それが、あった途端に、どんどんと満たされていく。大我にとって、母親とは、そういった存在だったのだ。
大きな門が動力で開いて、二人は手を繋いで敷地に入った。外から想像していたより、ずっと中は広かった。大我の学校の校庭ぐらいの広さはあるだろう。屋敷は体育館ぐらいの大きさに見えた。二階建ての白のような木造住宅。その横にコンクリート建てのモダンな真四角な建物が並んでいる。庭には池があり、ちょっとした観光名所のようにも見えた。池の横には東屋がある。庭には小高い丘も造成されており、立体的に見える。太い松の木が長い枝を伸ばしている。大きな石が所々に並べてあり、芝生が敷き詰められている。こんな家、大我は見たことがなかった。
「母さんの家は、大きいんだね。」
「母さんの家じゃなくて、私たちの家よ。ここはあなたの家でもあるのよ。でも、小さなときは、この家に大我も二回ぐらいしか来なかったから、覚えてないのね。でもね、大我はこの庭で遊んだことがあるのよ。まだ、歩き始めた頃で、あなたのお爺ちゃん、お婆ちゃんもまだいたの。あなたがいなくなってから、間も無く死んじゃったけど。」
大我は、自分が、この大きな庭で遊んだことがあると言われ、記憶を辿ろうとしたが、どうしても、思い出せなかった。それをとても悔しく思った。
「今、圭は家にいないんでしょ?今日からお母さんとここに一緒に住まない?」
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