父の教え

文字数 4,013文字

 「人は誰でも、何かにしがみついて生きている。そのしがみついているものを切り離せば、簡単に事が済む。大我、分かるかい?」
 揺れる炎を前に、穏やかな口調で橘圭は、息子の大我に話しかける。二人とも夕闇の中の炎に照らされて、そこだけが周囲の深い森の闇から浮き出ていた。遠くから見たらキャンプを楽しむ父と子に見えるだろう。だが、近くで見ると、息子の大我の服はボロボロになっていて、足元は裸足である。まだ冬にはもう少し時間があるが、夕闇で差し込むような冷気が空から降りてきている。揺らめく炎だけが、それに対抗している。大我は父の穏やかな言葉を頭の中で繰り返した。その方が、さっきまでの訓練を思い出すより楽だったからだ。
「大我、おまえは今、私の言ったことを頭の中で反芻しているだろうが、それこそが、今、お前がしがみついているものだ。しがみつくということは、自力で立たないということだ。理解するということは、すぐさま手放すことだ。理解できているのに手放そうとしないのは、つまり、不要になったものに、しがみついているということだ。そして、一番理解しなくてはならないのは、しがみつくのは、楽という事実だ。」
 大我は父親の言葉に冷たい熱量を感じた。と同時に、父が理屈や言葉にしがみついているという事実を理解する。これはすぐさま手放した方がいい。そこを指摘すると、昼間の訓練以上の特訓が始まってしまう。まごつきながら理解したふりをするのが得策と、大我は十二歳の少年らしさを演じて、「はい!」と返事せず、ゆっくりと頷いた。
 「大我、お前が考えていることは解っている。だったら、これならどうだ?」
 圭がそういうと、フッと表情が消えた。大我は目の前にいる父親の圭が、写真や絵のように、平面的で温度の感じないものに変化していくのを感じた。目で追っているが、そこに居るという空気が分厚い冷たいガラスによって遮断されたように、父は見えるが、父の気配を感じなくなった。気配を感じないものを見るのは、目の前にある精巧な隠し絵から真実を探すように、大量の集中力を要して、非常に疲れる。父に何があったのだろう?大我は考えたが、考えようにも、対象物の存在がどんどん消えているので、事象そのものに意識が囚われて、それが目の前から消えていく恐怖を感じた。家がある場所に帰ったら更地になっていたような、絶対的にあるべきものがないという恐怖だ。大我は揺れる炎の向こうに平面的に佇む父が、永遠に手の届かないような場所、彼岸に渡ったような焦りを感じた。 まだ、僕には、父がいないと、困る。
 圭は、姿があるが、完全に世界から気配を消した。目の前に父がいるのに、その存在を見つけることができない大我は、自分がレンズの違う世界に迷い込んだのではないかと疑ったが、焚き火の炎は相変わらず揺らめき、きな臭い煙が鼻腔の奥をくゆらすように刺激をして、これまでと変わらす周囲をオレンジ色に照らし、放射状に一定の熱量を発している。自由世界にいるはずだが、対面する人が全くの気配を消して、暗闇に浮かび上がる様を見続けると、違う空間に閉じ込められたような、ひどい息苦しさと、なによりも存在の消える危機を感じた。それは錯覚に違いないが、錯覚を見ているということは、脳が認識を間違い始めているので、辿るべき記憶の道は途絶え、ただ、荒廃した空き部屋に行き場を失った脳信号が漂っているだけになっていた。不安定な大我は、記憶や認識といった、自分が培ってきた経験にしがみつこうと必死になっていた。だが、虚無の前では希望は笑いのタネにしかならないように、自我が行き場を潰され、魂だけが血眼になって、自分を救うしがみつくものを探すだけになっていた。
 大我はしがみつくための記憶を認識の遮断によって辿ることが出来ないので、探すのではなく、自分の中に、しがみつけそうな考えを生み出すように精神を持っていく。「無いものは、創意工夫で作り出すほかない。」これは常々の圭の教えでもある。教えとは思考のパターンを定着させるための光である。大我はその光を自分の中に燈らせて、うっすらとした光から見える、自我の認識への回帰を目指し、潜在意識との対話を試みる。
(父はいるが、消えた、それは存在を消したからに違いない。父の存在とは、気配だ。気配は生きている意志から生み出される。それを消したということは、父は、生きていることを手放したのだ。生きていることを手放す・・何かにしがみついていたのを止めたのだ!そうだ、これは父の教えの実践だ。父はしがみつくことを止めることを行なったのだ。だが、何にしがみつくのを止めたのだろう?聞いたところで、答えてはくれない。だが、父が行なっていることを理解したのだから、それをやるべきだろう。今までそうしてきたし、これからだってそうだろう。)
 大我は、考えることをやめて、感じることも遮断した。すると、だんだんと気持ちが丸裸のように心許ないものになってきたが、その恐怖さえを手放して、ただ、暗闇に、目の前の炎の揺れに、冷たい地面に、自分が繋がっていると考えずに意識した。すると、指先から色が抜けたように自分の存在が薄れていくのを感じた。体は軽くもならないし、重くもならない、大きくなったようにも感じないし、縮んだようにも感じない。ただ、強烈に内部から何かが広がっていく放射していく速さと、それがすっと消えていく寒さだけを感じた。うっかり命綱を手放して、落下していくような浮遊感も感じたが、まるで死への恐怖はなく、周りの景色、薄暗い森、木々、葉っぱ、焚き火などの視覚的な現象の角が取れて、馴染みやすいもののように感じた。
 そうやって自分の気配が消えていくのと同時に、父の存在が新たに目の前に現れてきた。いつもは畏怖の存在であるが、今はとても身近で、しかし、とても命の危険を感じさせる存在に変わっていた。だが、その命の危険も、恐れるような類ではなく、大きな滝や、大きな波、強い風のような自然に発生する死の予感に満ちていた。ひどく単純なのだ。
 「大我、すぐに出来たな。」
 父の穏やかな声がボリュームが壊れたヘッドホンから聞こえるように、鼓膜を破るぐらいに大きく、まるで直接脳みそに音をべったりと当てるように聞こえた。その瞬間、水中から飛び出たように、世界がガラリと変わる。空気があって、風が揺らめき、重力を感じる。気配を消していた世界は水の中のようにくぐもっていて、風や空気の流れは感じなかった。重力も無いように、ただ、大きなものに紛れて、自分が消えていた。
 「父さん、しがみつくのを止めると、気配が消えるんだね。」
 圭は一瞬だけ口元を緩めた。その仕草を大我は決して見逃さなかった。薄暗くて、空気も冷たいが、そこだけは暖かく、光に満ちているように大事に思えたのだ。
 「お前もそろそろ、殺道(さつどう)の審査をしないといけない。橘の家は、鎌倉時代から殺道を代々伝承している。一子相伝、つまり、俺から、お前だけに伝えないといけない。そのために、俺もお前も生きてきたんだ。丈夫な体を作り、技の向上に努め、決して外に情報を漏らさない。すべては、殺道の伝承の為だ。体技に関しては、すでにお前は体得している。心得もしっかり学習してある。気配を消すのは、素養がないとできないが、お前は簡単に出来た。もし、出来ないのなら、ちがう大我を見つける必要があったが、それも杞憂に終わった。つまり、お前は死なずに済んだ。手放すことで、生きることにしがみつけたんだ。」
 大我は父の本気を理解していたので、死なずに済んだことを安堵した。だが、もし、気配を消された父に殺されたとしても、恨みやら、悲しみなどは浮かばなかっただろうと思っていた。あのまま気配を消した父に殺されたとしても、それは雷に打たれたとか、石が落ちてきたとかの自然災害の類で死ぬような、それは逃げ道のない運命だったのだろうと素直に思えたからだ。死なずに済んで運が良かったと大我は素直に思っていた。
 「じゃあ、殺道伝承審査の内容を説明する。まず、六人の女にあうこと。そのうちの一人は、お前の母親だ。お前は、その六人の女から、本当の母親を見つけ出し、十三歳の誕生日、つまり今から三ヶ月以内に、殺さないといけない。六人の情報はノートに書いてあるから読め。お前は、その六人を一人づつ訪ねて行き、近づき、自分の母親かどうかハッキリさせてから、お前の母親が、しがみついているものをキッチリ切り離して、大ごとにならないように、静かに、自然に、収まりが良いように殺せ。それが出来たら、お前は殺道の伝承者となれる。出来なかったら、お前のように殺人技を知りすぎた者は、消すしかない。さっき、お前は生き残ったんだから、生き残れるはずだ。」
 焚き火の炎が一瞬明るくなった気がしたが、それは、最後の熱量の放射で、火は急激に消えようとしていた。圭と大我に闇が肌に張り付くように迫ってくる。大我は、母の存在を聞いて、これまでの「自分にだけ母親がいない」という劣等感のようなものがようやく晴れたような思いがしたが、それは一瞬にして、砕かれてしまった。密かに焦がれた母親を見つけ出して殺さなくてはならない。父であり、師匠である圭が暗闇からじっとこっちを見ている。
 「お前の考えている事は分かっている。せっかく母親に会えるのに、殺さないといけないというのが辛いんだろう?まあ、俺もちゃんとした父親だったって、安心したよ。普通はそう考える。そう考えるように人並みにも育てることができていたようだ。」
 圭は闇の中で穏やかな顔をしていたが、声も穏やかだったが、大我は、父の意地悪さを十分に理解していた。訓練の時もそうなのだ。穏やかで優しい雰囲気の時ほど、父は残酷なことをする。今だってそうだし、これからだってそうだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み