母と暮らす

文字数 3,550文字


大我は泉の家の住むことになり、一旦、家に着替えなどを取りに帰ったが、一人で持ち運べる量だった。それを見て泉は微かに笑みをこぼした。大我は持ち物をすでに机やベッドなど用意された部屋に片付けながら、頭の中では、明日からの事を考えていた。通学に関しても、家が変わった、母親がいたとなると、何らかの噂になるので、そこはうまくやる必要がある。お弁当もおそらく、今までのものと違ってくるだろう。通学路で顔を合わす人が変わってくる。細かなことを頭でチェックしていると泉が部屋に音もなくやってくる。
「泉母さん、この家は裏口とかあるの?」
「ないわよ。門から入って、門から出ればいいじゃない。あなたの家なんだから。」
「急にそうなると、誰かに見られると、いろいろと困るんだ。」
「なんで、困るの?堂々としなさい。それとも、私が母親だと恥ずかしいの?」
「まだ母親って、決まったわけじゃないよ。そうじゃなくて、僕の日常が崩れるといろいろと面倒なんだ。」
「形式でしか物事考えられないって、中学生にしては頭、硬いわね。私だったら金持ちになったって、自慢して歩くけど。隠すということは、それだけ弱点があることを証明するだけよ。明るみになったら、如何しようも無い。信用は失うし、立場が下がる。逆に、目立つということは、本心、本当を隠すってことなのよ。」
父、圭とは全く逆の発想をする泉に対して、大我は、父と母が離婚に至った経緯を探りたくなったが、もし、三人で暮らしていたら、どうだっただろう?と思った。穏やかで寡黙、しかし厳しい父親、明るく穏やかだが、意志が強い母親。三人で暮らすことは簡単に想像できたし、それは楽しそうなものであったが、単純にそれが大我の思う、家族像とは結びつかなかった。仲間ではあるが、夫婦と息子の関係にならないのだ。離れた時間というのは、こういった蟠りを作ってしまうのだろうか?と大我なりに考えたが、それも一緒に過ごせば取り戻せるのでは?とも考えてしまう。
大きなダイニング、暖房はよく効いていた。照明はどことなく暗く、オレンジがかっていて、高い天井には闇が覆っている。泉は、ご飯と味噌汁、魚のフライ、ポテトサラダ、漬物を食卓に並べた。大金持ちの家だから豪華なものが出ると思っていたが、普通の食事だった。二人でいただきますを言い、食器がテーブルから離れたり、置かれたりの音、箸が擦れる音ぐらいしか聞こえない静かな食事をする。大我はそれを寂しいものだとは思わなかった。特別なものとも思わなかった。普通のことだった。父と二人で食べる時と感覚が同じだった。父も、泉も、無条件の許容を大我に示しているように感じており、恐れたり、気を使ったりする必要がまるでなかった。とても居心地が良かった。もし、ここに父、圭がいたとしても、大事な存在が二人に増えるだけで、そわそわしたり、必要以上に感謝したり、ということもなく、気兼ねなく、普通に過ごすことができるだろう。
「泉母さん、ごはんおかわり。」
「ご自由にどうぞ。」
少し甘えてみようかと、おかわりを頼むが、圭と食卓を囲む時と同じく、自分でご飯を装うことになった。期待はしてなかったが、期待以上の結果だった。母親と暮らすという夢が叶ったのだ。食べ終わってシンクに食器を持っていこうとすると、それは泉が持っていった。こういった小さな違いが大きな影響を持つ。大我はくつろいだ気持ちを大きくした。
大きな風呂に入り、上がると寝巻きが用意されていた。今までないことが積み重なり、その度に、これまでの生活と比較したが、比較のたびに圭に対して申し訳ないような気持ちがする。圭はこれまでずっと育てて、鍛えてくれた。泉は今日から世話をしてもらっている。時間の積み重ね、大我にとっての重さは、全く違うはずなのに、どうしても、今日の泉からの施しが心地よく感じてしまう。圭に対して不満を持っていないはずだったが、無意識のうちに心が乾いていたのだ。その渇きは、潤いを欲している。じゃぶじゃぶと注がれる暖かい潤いに、もっともっとと、乾いた心が反応している。
殺さなきゃ
大我は髪を柔らかな清潔な真っ白なタオルで拭きながら、真っ黒い意志を心の中に突き立てる。目を瞑ると、泉が苦しむ姿が浮かぶ。そうしなければならない。柔らかな甘い果実を貪ることが幸せなのだろうか?硬い岩を噛み砕き、嘆いて走り出すことこそ、生きている証ではないのか?これまでのつらい修行、岩を突き、崖を這い上り、飢餓から逃れるために虫を食べ、渇きを癒すのに泥水を啜る。その経験が、母という心地よさに誘われて、一気に無駄な過去に変わってしまう恐怖。自分は生きてきたのだ。過酷な中を生き延びてきたのだ。大我は念を押すように自分に言い聞かせる。
「湯加減どうだった?」
リビングでお菓子を用意している泉が、穏やかに話しかける。温かいお茶から湯気が立ち上り、消えていく。穏やかな顔をして座る泉はまさに仏像のような存在感。ふくよかな胸に飛び込み、甘えたい衝動が湧き上がる。大我は、泉が無条件に自分のことを受け入れるだろうということが感覚で理解できている。手を触った時から、皮膚が安全であるということを教えてくれている。やはり、泉が母なのだろうか?
「大きなお風呂だった。」
率直な感想を述べると、泉はフフと笑う。それは自慢でもなく、可笑しいからでもなく、大我が言葉を返してくれたことに対しての喜びのようなものだった。それを大我は理解した。もし、今、泉の存在が消されたら、きっと明かりを消された世界を目の当たりにすることになるだろう。世界が真っ暗闇になるんだ。世界を明かりを消す権限を、自分は持っているし、泉もそれを承知している。自分が、自分の世界の鍵を握っている。
「せっかくお風呂で温まったのだから、冷たくなるようなことは、今日はやめときなさい。」
僅かな殺気を泉は感じたのだろう。やんわりと「今ではない」と大我に告げる。大我は自分の気配をコントロール出来ていないことを指摘されて、ひどく恥ずかしい思いがした。この思いは取っておこう。恥をかかされた怒りのような負の感情は、それを実行するときに役にたつかもしれない。
「そうするよ。」
「私は逃げも隠れもしないから、急ぐ必要はないでしょ?」
「母さん、あんまり指摘しないで。恥ずかしいし、腹がたつから。」
「あら、腹が立ったのなら「うるせえ、ばばあ!」とかいってちょうだい。そういうの憧れているの。反抗期の息子との対立みたいなの。」
「今時、そんな子いないよ。みんな、両親と友達か、他人かのどっちかが多いよ。」
「まわりはどうだっていいのよ。私が、取り戻したいの。大我と一緒に生活した時間をね。親子ゲンカって、一緒にいなけりゃ出来ないじゃない?」
カラカラと笑う泉を見て、大我もつられて笑みをこぼした。泉は大我にとって、強烈な光となっていた。暖かで、惹きつける必要なもの。
「そうそう、大我、あなたの小さな頃の写真見る?2歳ぐらいまでここに住んでいたのよ。これ、アルバム」
泉は菓子を退けて、テーブルにアルバムを広げる。泉が赤ん坊を抱えて、となりに圭がいる。三人揃った写真。泉は今より少し痩せていた。圭はあまり代わり映えがない。次に見せられた写真には、小さなベビーベッドに眠る赤ちゃん。それを覗き込む圭と泉。二人の顔が並ぶと、笑顔に慣れた細い目、高い鼻、うっすらとした唇。泉と圭の顔がよく似ていることに気がつく。
「お父さんと、泉母さんって、顔、似てるね。」
「そう?一緒に住んでると、似てくるのかしらね。それはいいとして、大我はこの頃のこと、覚えている?」
「ごめんなさい。全然覚えてない。この家に来て、懐かしさみたいな全然感じないんだ。この赤ちゃんは、本当に僕なの?」
「あたりまえじゃない。二歳ごろまでの記憶って本当にないのね。なんだか、寂しいわね。私が大我を抱っこしたりしたの、全然覚えてないんでしょ?」
悲しい話のはずだが、泉はホッとしたような感情を匂わせた。大我はそれが気になった。非常に違和感を覚えた。その違和感の答えを探すのに、写真をじっと見た。この家の大きな庭に、立とうとしている子供、おそらく自分だろう。それを囲むように圭と泉は笑顔で覗き込んでいる。よくある写真だが、なぜか引っかかる。隣の写真に目をやると、今度は子供が増えていた。格好からすると女の子だろう。
「この女の子は?」
「ああ、あなたのいとこになる子よ。あおいちゃん。とても可愛い子でしょ?」
これまでの穏やかな泉の声に影がかかったことを大我は聞き逃さなかった。全てを許容する存在の泉が、何か堤防のようなものを作ったのだ。従兄弟のあおいちゃんにはこれ以上触れてはいけないのだろうか?
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