母と菩薩

文字数 3,714文字



 泉からの申し出に、大我は断る理由を見つけることができなかった。もし自分の母ならば、一緒に生活するのは親子として当然だろうし、殺道の継承者からすれば、標的となる母から逃げてはならない。強張りが残る笑顔を作り、
 「えっ、今日からいいの?」
 と大我は、子供っぽさを残したような唐突な言い方をした。
 「もちろんよ、だって、大我は私の大事な息子なんだから。もうねえ、ずっと会えなかったから、それを取り戻すぐらい一緒に居たいのよ。さ、私たちの家に入って。」
 親愛の篭った誘いに、大我はそそくさとついていく。泉は細く柔和な目を、少し潤ませていた。あれは涙だろう。大我は、それが自分の為に流されているのだろうと、照れ恥ずかしいような落ち着かない気持ちがした。しかし、一方で、標的であることに変わりなく、父の言う「しがみついているものを切り離せ!」が心の奥底で存在感を重く示す。稲尾泉は、母は、何にしがみついて生きているのだろう?
 庭から建物は距離があり、建物の目の前まで来ると、その大きさに息を飲む。大きなお寺よりも大きい日本家屋だった。体育館二個分ぐらいはあるのではないか?普通より大きな引き戸の玄関のはずだが、建物の大きさからすると、ネズミの巣の入り口のように見える。中に入ると、玄関は吹き抜けになっているのだが、天井はコンサートホールのように高く、燻されたような黒光りする太い梁が、ずっと上に張り巡らせてある。
 「大きな建物だけど、住んでいるのは、お母さんだけなのよ。お手伝いさんが三人いて、一日中、掃除をしているの。大きすぎるのも考えものね。」
 「か、母さんの家は、なんでこんなに大きいの?」
 「歴史とお金があるからよ。そこに私が嫁いだの。ただそれだけ。」
 「だったら、結婚相手がいるの?」
 「もう、亡くなって三年。あなたを産んだ後に、圭と別れて結婚したんだけど、死んじゃったの。大金持ちでも死ぬのよ。もし、生きてたら、あなたの義理の父になるのかな?まあ、そんなこと気にしないで。目の前にあることだけを考えればいいの。私があなたのお母さん、それで、あなたは私の息子、それだけよ。さあさあ、他人みたいに玄関で長話は止めよ。こっちにいらっしゃい。」
 大我は泉の後からついて、長い廊下を歩きながら、泉の後ろ姿をじっと見ていた。自分より背は小さいが、ふくよかなので、存在感がある。強すぎる化粧や香水の匂いはせず、微かな花とミルクが混ざったような甘い匂いがする。父と二人で生活していたから、不意を突くよう女性の匂いには敏感で、強いシャンプーの香りや、練り込まれたような衣服の香料は苦手だった。胸がムカムカして、渇きのような苛立ちを感じる。だが、それは泉には全くなかった。そういえば、他にいた、嫌な匂いがしない女、誰だったか分かっているが、大我は思い出すフリを自分対してした。
「ここがね、居間になるの。まあ、お茶でも入れるから、座っておいて。」
 学校の教室ぐらいある部屋だった。暗めのフローリングは重厚感があり、そこへ大きな赤いソファーが並び、テーブルは大きな無垢の一枚板が黒板を倒したように広がっていた。この部屋に何人入ることができるだろう?部屋の中心になるところに菩薩像が置いてある。一番に目に引きそうなものだが、部屋が大きすぎて、菩薩像はインテリアの一部にしか見えない。だが、落ち着くと、その菩薩像が部屋の中心であり、世界の中心のように見えてくる。大我はソファーに座ることなく、菩薩像から目が離せなくなっていた。
 「あら、大我、お目が高いわね。圭にそういうの教えてもらったの?その菩薩様は鎌倉時代に有名な仏師が作ったものなのよ。大きさが少し小さいけど、そのころの人と同じぐらいの背丈なんだって。」
 泉がお茶とお菓子を持ってきて、大我の前に置く。それと同時に行儀の良い子供のように大我も座る。だが、目は菩薩を追っている。
 「あら、大我、今は菩薩にしがみついているの?」
しがみつくと言う言葉が、大きな刺激となり大我の胸を貫き、その目を強制的に泉に向けさす。
 「大我、知ってる?菩薩って言葉は菩提薩埵(ぼだいさった)の略語で、菩提とは悟り、を意味して、薩埵は衆生、一切の生きとし生けるもののことなのよ。迷いの世界で悟った人を菩薩って言うのよ。悟れば、迷いの世界で、しがみつくことを止めれば、ああいった穏やかな顔になるのを具現化しているの。知ってた?」
 「知らなかった。」
 「圭が教えなかったのね。だって、それは、殺道の継承には意味がないからね。」
 殺道の言葉が、母かもしれない泉の口から出たことに、大我は緊張をした。その緊張を理解した泉は、ふふっと笑い、目の前に座り、これまで以上に寛いだ感じになった。さっきまで大我は、前を歩く泉を小さく感じたが、今は無限に大きく感じる。奈良の大仏を目の前にしたような圧倒を感じる。それだけの巨大な存在感を穏やかな泉から受けてしまう。
 「大我、私は分かっているの。あなたが母である私を殺しに来たことを。」
顔は微笑んでいるが、決して笑っているわけではない。楽しいわけではない。だからといって諦めの笑みでもない。だが、これは、大我がずっと求めていた笑みだった。大我は警戒心を解いてしまった。この人は母だろう、いや、母じゃなくてもいい、ただ、自分が求めていたものが、今、目の前にあることだけは理解した。
 無条件の許容
 泉は大我を無条件で受け入れようとしている。殺しに来たのであろうと、抱きつきに来たのであろうと、どっちでも構わない。大我を、その命を、存在を、無条件で受け入れている。大我は一瞬、これまで行ってきた父との厳しい修行、死ぬ思いを思い出したが、それは胸に広がっていく暖かな白い光がすっかり消していった。母がいない惨めな、いじけた想いもあったが、それはさっさと溶けてなくなっていく。
 目の前にいる泉は、さっきまで釘付けで見ていた菩薩のように感じていた。菩薩の許容の笑みに魅せられていたのだ。それが目の前に実在として現れた。だとすれば、乾いたものは、潤うしかない。大我は胸にこみ上げる熱いものを感じた。それは止め処なく、登っていき、血を暖かにたぎらせ、体の端々に巡っていく。ひび割れたダムの底に雨が降り注ぐように湿っていく。そのうちダムは一杯になり、溢れていく。大我は涙を溢れさせていた。それが何か理解できなかったが、理解する必要が感じられなかった。
 「大我、私は何もしがみついて無いの。だから、あなたは、サッサと私を殺せばいいの。それで、継承できるわよ。母を殺す道、母殺道(ぼさつどう)をね。私を殺すなら、今が一番だと思う。だって、一緒に暮らしてたら、あなたは辛くなるから。」
 大我は泉の存在が大きくなりすぎて、精神が負けそうになった。もし、負けたのなら、泣きながら泉に対して「母」とすがり、首を絞めなくてはならない。今、そんなことをしたら、精神が壊れてしまうに違いないと、少し残った冷静な大我の精神が危険を訴える。だが、母として殺されることが泉の望みに思えてしまう。泉が母ならば、その望みを叶えることが、母と認めることになる。大我は立ち上がり、自制を無くしそうになる。あの柔らかな首に手をかけて、後ろから一気に締め付ける。人差し指で気道を押しつぶし、親指で頚動脈を遮断して、肘を内側に絞り込むように、腕全体で締め上げる。後ろから忍び寄り、顔を見ずに殺す方法ではあるが、だとすると、母である泉が死にゆく顔を見ることができない。母が、世界を手放す瞬間に立ち会えないのだ。だったら、前から締める方法をとる。両親指の根元で気道を押し潰し、親指の先で、親の頚動脈を締め上げる。脳に行きべき酸素を運ぶ血液を止め、肺に行くべき酸素を遮断する。まず、気絶して、それから、心臓が止まる。それだと死の苦しみが減る。頭に上がっていく血を止めることが先だ。魚を締めるのと一緒で、魚だと脳天一撃、もしくは頚動脈を切って血抜き。それから捌いていく。死の強張りこそが、死の苦痛に違いない。母には、苦しむことなく、死んで欲しい。だが、本当は死んでほしくない。だって、会い焦がれた、お母さんかもしれないのだから。
 「母さん、いや、まだ、稲尾泉が、母と決まったわけじゃないんだ。僕は今日から母探しをして、一番にここにきたんだ。」
 「大我、あなた、順番はどうしたの?圭が順番で書いていたでしょ?」
 「なんでもかんでも父さんの言う通りになるのは癪に触ったんだ。」
 「あら、大我、反抗期なのね。せっかくゴールまでの道筋を圭が用意してくれていたのに、ゴールから来たわけだ。」
 「ごめんなさい。」
 「いいのよ。で、どうするの?他の女にも会ってみる?それで納得した上で、わたしを殺しに来る?まあ、あと三ヶ月期限があるから、十分に悩みなさい。その分、大我と私は一緒にいれる時間ができたんだから、私は感謝しかないわ。息子に再開して小一時間で殺されるとなると、ちょっと、短すぎるわね。」
 泉は穏やかな笑みを浮かべている。大我はそれをじっと見て、菩薩像を気にした。
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