怠惰

文字数 3,646文字

 「お客様、お買い上げになった商品の確認をさせていただきたいのですが?」
 言葉は丁寧だが、温度は低かった。富山良美は何のことか理解できないふりをして、罪のない人の厚かましさで返事もせずに睨み返した。そのふてぶてしさに、少し離れていた大我はイライラした。慣れた犯罪者は往々にして図太い。なにしろ罪の自覚がないのだ。

 さっさと殺してしまおう。

 大我は何度も行った殺人への抵抗が少なくなっていた。邪魔だったり、気に入らないのであれば、世界から弾き飛ばせばいい。ここで富山良美が捕まると、それを実行できなくなる。だったら、逮捕を防がないといけない。「裁くのは俺だ。」大我は自分の背中を大きく感じ始めていた。自信を持ち始めると、行動が大胆になる。大我は万引きGメンと思われる女性の後ろまで近づくと背中の真ん中あたりを素早く指で突いた。その衝撃が万引きGメンの心臓の鼓動を狂わす。一瞬の血流の戸惑いが、体を硬直させ、動悸や呼吸のリズムを止める。それは時間の停止のようで、時間の停止に耐えられるものはいない。目の前が暗くなり、足元がおぼつかなくなる。正義の使者は、しゃがみ込む。それを感情が死んだような富山良美がじっと見下している。良美は何が行われたか、なんとなく理解して、しゃがんだ万引きGメンの後ろに立っている大我のことを見ると、カバンから盗んだ菓子パンを取り出して、突きつけるように大我に渡した。よく太った良美の手は浮腫んだように太く、菓子パンは子袋のクッキーのように小さく見えた。大我は餌を出されたようだと、多少屈辱を感じながら、菓子パンを太い枝からもぎ取った。良美は何の感動もないように振り返り、大きな体でノシノシと歩き始めた。大我は歓迎も拒否もされてないが、きびだんごを貰った犬のように、良美に続いた。
 大我は良美の後についていきながら、良美の背中を見ていた。肉が盛り上がって肩についている。背中は小さな山のようだ。しかし、白のスカートに薄い水色のコートを纏っているが、その服装は高価なものと思われた。盗んだ食べ物を入れるカバンも赤い皮の上等なものに見えた。そんな良いものに包まれているが、万引きデブの良美は、そんな価値を踏み潰し、食い尽くすように無駄にしていた。
 「あんた、名前は?」
 「橘大我です。」
 「じゃあ、タイガーって呼ぶわ。タイガー家出中でしょ?使えそうだから、泊めてやってもいいけど。」
 良美は低い声で面倒くさそうに話しかける。大我は不快に思ったが、一方で、何も取り繕うことをしない潔さのようなものを感じた。相手に対して自分を良く見せようとか、人間関係を潤滑にするために、必要のないことを喋ったりする、世界に潜もうとする努力が全く見えなかった。良美の態度は世間に対して怠惰で、不遜で不快なはずだが、今の大我にとっては、違和感が無くて、その方が良いように思えた。
 「じゃあ、泊めてもらいます。名前は何と呼べばいいですか?」
 大我の問いかけに良美は一瞬考えた。振り返って、その厚ぼったく醜い顔で、目に感情は無く、不遜とも言える態度で言いつける。
 「私のことは「お母さん」って呼べ。タイガー、分かったか?」
 こいつをお母さんって呼べ?なんら愛情を感じることができないデブに対して、お母さんって呼ぶことに非常に抵抗を感じた。稲尾泉のような優しさや許容の態度も無く、柊めぐみのような常識を教えようとする思いも無く、原井知世のような自分の正義のために戦う意思のような尊さも無く、郁背マナのような美しさ、魅力なんて全くない。そんな豚のような万引きババアを「お母さん」と呼ばないといけない。大我は非常に屈辱的に感じたし。死んでいった四人のお母さん候補に申し訳ない気がした。
 「分かったよ、お母さん。」
 大我は、仕方ないように呼びかけた。良美はそれを聞くと一瞬だけ足を止めた。一呼吸置くと、すぐに歩き始めた。後ろ姿しか見えない大我は良美の表情は分からなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ、思ったのは、面倒だとしか思えなかった。まるで、良美の怠惰が伝染したようだった。良美はカバンから取り出したコンビニスイーツの大福の袋を引きちぎるように開けて、口の周りを粉だらけにしてムチャムチャと食べだした。食いたいから食うといった感じだ。呆れて見ていた大我も、菓子パンを歩きながら食べた。すれ違う人たちは堂々と食い散らかして歩く二人を見ないようにしていた。大我は、世間に呆れられ、無視されるのが、非常に楽に感じ始めた。

 「警備会社の万引きGメンが万引きを止めようとしたところ、急に倒れたそうです。」
 「・・・貧血か?レバーとかいいらしいな。」
 「ボス、真面目に話を聞く気がありますか?」
 山岸の呆れた言い様に、ボスは明らかにムッとした表情をし、サングラスをかけ直した。
 「・・・俺は、いつでもマジだ。急に倒れるなんてことは貧血とかだろう。」
 つり上がった眉のボスに睨みつけられた山岸は、ボスの刺す様な視線に心を砕かれる様な思いをした。ボスの存在感はそれほど大きなものだった。
 「ボス、すみませんでした。先に問題を話してない私が悪いかったです。申し訳ございません。問題は、その万引きGメンが、背中から突かれて、急に立っていられなくなり、倒れたそうです。コンビニのカメラにも姿が写っています。何かをしたわけでなく、後ろに立って、すぐに倒れた様です。その後ろに立っていたというのが黒づくめの細目の男というところまではわかっています。」
 刑事課長の部屋に午後の気だるい光が差し込んでいる。ボスはすっと立ち上がり、窓辺に立つと視線上にあるブラインダーを掴んで引き下ろし、外の景色をじっと見た。その荒々しい様を山岸はカッコいいと思いながら見ていた。

 ほどほど歩いて市営住宅についた。見覚えがあるところだった。この街は広い様で、狭いし、人の繋がりというのは、案外近い。柊あおいの住む市営住宅だった。五つある棟の端と端、距離にして数百メートルほどだった。こんなデブを母と呼び、のこのこついていく様子をあおいのは見られたくない。早くこんなデブは始末しなくてはならない。
殺す理由は?
もし、殺してしまえば、自分の母であるということを認めることになる。
母と認めるとは?
一方的に自分が判断して、母か、そうでないか決めているだけなのかもしれない。血の繋がりがあるかどうか、もし、あるのなら、あんな万引きデブの血が、自分の中に流れていることになる。ずっと離れて暮らしていたけど、関係なく生きていたけど、血が繋がっているというだけで、母と子になれるのだろうか?それを認めることが出来るのだろうか?
市営住宅の五号棟の二階の角部屋。青い鉄の扉、柊家で見たことがある。リビングキッチン、子供部屋、寝室、応接間がある3DK。応接間には小さな二人がけのソファがあった。そこであおいと繋がろうとしたし、それを見ためぐみを一突きで殺した。ドアを開けるとそんな家の中が展開されるだろうと大我は思っていた。
 「すぐ入って」
 青いドアが開くと、良美は駆け込む様に家に入った。大我もそれに続いた。良美はすぐに鍵をかけた。部屋は、玄関は暗かった。それに異様な匂いがした。それ以上に圧倒したのは、目の前の状況だった。天井に届くぐらいまで、コンビニ袋、ペットボトル、段ボール箱、二着っぱなしの服、空の弁当、空のお菓子の袋、ビールの空き缶。ゴミ屋敷だった。酸っぱい様な物が腐った様な匂いがした。壁にはカビが生えていた。
 「これって・・」
 「ゴミよ。捨てるの面倒だから、ちょっと溜まってるの。でも、慣れたわ。」
 廃棄物処理場の様に山積みゴミをかき分けて、良美は奥に行く。玄関入ってすぐのリビングキッチンは食べ物のゴミで溢れている。そこを抜けると短い通路があって入口が三つある。手前が応接間、その向かい側に風呂と洗面、トイレがある。奥の二つが寝室と子供部屋。
 通路には段ボール箱が並べてある。有名な通販サイトのマークが描かれている。破かれた様に開いたものあれば、まだ封を切られてないものもある。大きなものから、小さなものまでが所狭しと並べて積んである。風呂とトイレからは酸っぱい匂いが強烈にしてきた。カビにまみれている。洗剤や服などが踏み固められて、カビで黒ずんでいる。体を綺麗にする場所だろうが、ここでは綺麗になるどころか、汚れやカビ、雑菌を纏うことになるだろう。見ていると腹ただしさがあった。ここは借りて住んでるはずだ。なのに、こんなに汚く使っている。それに、人が汚した様とは、鼻水をかんだティッシュや、排泄物を吹いたトイレットペーパーを広げてみる様な、見ているだけで足の先から力が抜ける様な、ひどい羞恥心を感じる。人が生きて、綺麗にしないと、それは強烈な恥の塊の様なものになることがよくわかった。それに、恥の塊みたいなのと一緒にいると、毒にやられる様な気持ちになる。
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