-10-鈍色
文字数 3,742文字
遠くの空に鈍色の雲がかかっていた。
雨が降るのも時間の問題かもしれない。洗濯物を取り込むのは―――もう少し後でいいか、と僕は視線をテーブルに戻した。
連日の雨のせいで溜まった洗濯物がやっと干せたのだ。
取り込むのは、出来るだけ乾いてからがいい。
「今日も降るかもな」
僕の視線から心情を読んだのか、それとも単に自分でそう思っただけか、そう言って十影は珈琲に口をつけた。
マホロがいるときは決して出てこないその暗褐色の飲み物をぼんやりと見つめる。
「梅雨入り、しないね」
「今週中にはするだろ」
うんざりするように息を吐くと、十影はソファの背凭れに沈んだ。
「まぁでも、暑いよりマシだなぁ」
「………そうだね」
十影の場合、その重度の夏嫌いが暑がりに拍車をかけているような気もするけれど。
年中着ている黒のキャソックも見ているだけで暑苦しい。
僕ほどではないにしろ十影だって信仰心が強いわけじゃないんだから、教会や学校から離れたときくらい違う服を着ればいいのにと思う。
ふ、と。
十影の着ているキャソックの袖口に、ふわりと何かが重なって見えた。
風に揺れるリネンのシャツ。ゆったりとした、生成りのそれから伸びる、透けるような腕、指先。
ノンカラーの襟から覗く、作り物のような鎖骨。
それにかかる月白色の髪。
「なんかあったのか」
「………えっ?」
そう言われて僕は十影の袖口から視線を上げた。
訝しむような目が、僕を見ている。
突然言われたその言葉の、視線の意味を考えるよりも先に、僕は首を横に振っていた。
「………なんにも、ないよ?」
「お前、馬鹿か」
脈絡もなく乱暴にそう言って、十影はソファから背中を起こした。
開いた足の膝に頬杖をついて、本当に馬鹿にしたように鼻で笑う。
「それ、なんかあったって言ってるようなもんだからな」
「え?」
「“なにが?”―――この場合、それが正しい返答だ。余計な心配されたくないなら覚えとけ」
「あ」
「そんで、それを俺に使うな」
最後に少しだけ小さくなったそれは、絞り出すような、懇願するような、そんな声だった。
取り出した煙草に火をつけて、吸い込んだ煙を吐き出す。
まだ殆ど出来ていない灰を灰皿に落としながら、十影はもう片方の手で珈琲をひとくち飲んだ。
「1人で全部抱え込んで生きていける程、お前はまだ強くはないよ」
そんなつもりは、決してなかったんだけど。自覚している限りは。
ただ僕は、僕をあまりに知らなすぎる。
この下っ腹に溜まるような不快感が一体何なのか、なんという名前の感情なのか、僕には分からない。
自分のことなのに、こんな感情を、僕は知らない。
だからどう説明したらいいのか、分からない。
僕が言い淀んでいると、視線を上げた十影がふと笑った。
いやな心臓の軋みが少しだけ和らぐ―――この感情の名前はきっと“懐かしい”だ。
「まぁ、ある意味“それ”もお前の成長か」
「……僕も鍛えたら十影みたいになれる?」
「あ?」
僕はそっと自分の左腕を持ち上げた。
十影のそれの半分ほどしかないか弱い腕は、かといってマホロのような繊細さがあるわけでもない。
今まで同世代と関わることがなかったから、さして気にしたこともなかったけれど
男の強さというものは、やはり筋肉だろうと思う。
「そういう意味じゃねぇよ、馬鹿」
心底呆れたように十影は火が付いたままの煙草を灰皿の淵に置いた。
長い人差し指が、とす、と僕の左胸を突いた。
「内面の弱い奴がそれを隠す為に役にも立たない筋肉つけたりする。その逆で、どれだけ傷付けられようが何度だって立ち上がるヒョロヒョロのガキだっている。外見の強さなんて、所詮見て呉れの仮面みたいなもんだよ」
ぐ、と僕の胸を押したその反動で、十影の人差し指は離れていった。
力に逆らわなかった僕の背中がソファの背凭れに沈む。
にやにやとしたまま、十影はじっと僕を見据えている。
この話を続けるつもりはないけど、僕の話は聞きだすつもりらしい。
観念して、僕は珈琲をひとくち飲んだ。
「十影は、見たことある?」
「なにを」
「マホロの……、………その」
それ以上が言えなくて、僕は俯いた。
手の中のカップに、情けない顔をした自分が映っている。
しかしそれだけで十影は何かを悟ったのか、大きな溜息を吐いてソファに沈んだ。
ふぅ、と空間に紫煙を吹き付ける。
「あるよ」
結局、殆ど吸わないままに短くなった煙草を灰皿に押し付けて、十影は小さく言った。
「どうしてあいつが夜、花を食うのか……分かるか」
「っ」
脳裏に“あの”光景が浮かんで、僕は強く首を横に振った。
「人に、見られたくないからだ」
「ひとに………?」
「なんでだと思う?」
「なんでって……」
月光の下。残酷なまでに美しい、マホロのあの横顔。
僕はもう一度、首を横に振る。
「醜いから―――だそうだ」
十影の視線が、窓の外を向いた。
曇天の下の花々が、吹き始めた緩やかな風に微かに揺れている。
「醜い……?」
「欲を貪る悪魔みたいで……愚かで醜い―――あいつは、そう言ってた」
悪魔。
夢魔。
「………インキュバス」
「あ?」
弾かれたように、十影は僕を見た。
その目に、微かな動揺と困惑が滲んでいる。
「……マホロ、言ってたんだ。自分は夢魔みたいだって。美しさで人を誘惑して、その精気を吸い取って自分の欲を満たすインキュバスみたいだって。だから自分に流れる血は、体液はこんなにも汚いって。だから」
人を惑わすその花弁が、決して自分から造られないように。
どんなことがあっても、なにがあっても、絶対に―――
「絶対に―――泣かないんだ、って」
まただ。
この間と同じ。
左胸が、心臓が、きゅうと握り潰されるような息苦しさが、僕の呼吸をおかしくする。
鼻の奥。
生きている人間の、僕の、粘膜の匂いがした。
「そんなの………そんなの、悲しいよ」
「………そうだな」
そう言って立ち上がった十影は、窓のほうへ歩いた。
さっきはあんなに遠くにあった雨雲が、もうすぐ上まで来ている。
「なぁ、縁」
「なに?」
「俺はさっき『1人で全部を抱えきれるほど、お前は強くない』って、お前にそう言ったな」
「うん、言った」
「それは、お前自身の話だ」
十影は僕に背中を向けたまま、変わらない口調でそう言った。
「でも今のは、お前の問題じゃない。マホロのことだ」
「……それが、なに?」
「あまりマホロに深入りするな」
きっぱりと、それでもやはりこちらを向かないまま、十影はそう言った。
咄嗟に口を開きかけた僕を制するように、十影は言葉を重ねる。
「マホロに―――花酔いに、感情移入するな」
「十影……っ!」
僕を、マホロを、突き放すようにそう言って、十影は短く息を吐いた。
空を割くような光が一瞬、部屋を照らした。
そこで初めて僕は、いつのまにか部屋が薄暗くなっていることに気付く。
遅れてやってきた雷鳴は、まだ遠くで聞こえる。
「……それは、花酔いが短命だから?」
「違う。お前が人間だからだ」
「マホロだって人間だよ」
「違う。あいつは、花酔いだ」
「だからっ………!」
花酔いだって人間だろうと、そう叫びたくなるのを堪えて僕は、膝の上で自分の手を握った。
「どうして……どうして十影がそんなこと言うんだよ……っ」
「お前やマホロが大事だからだ」
「大事……?」
「あぁ」
「わかんないよ……大事ならどうして………っ」
「傷付いて欲しくないからだ。お前たち2人に」
雷が、光った。
レースカーテンが風を受け止めて大きく膨らむ。鼻先に、微かに水の匂いがした。
窓を閉め、十影はやっとこちらを振り返った。
それでも僕は、その顔を見ることが出来なかった。
「お前は、人間の闇の部分を知ってるだろ」
「……ん」
「人身売買や麻薬売買、それよりもっと汚くて下劣なことは、思ったより普通に行われてる。お前はそれを見てきたはずだ」
小さいときは知らなかった。
週末になると修道院に花を売りに来る女の子が頻繁に変わる理由。
金曜日の夜になると出かけて行った神父様が、朝方になると甘い匂いをさせて帰ってくる理由。
夜中にベッドを抜け出して街に出た時に見た、裏通りのあの異様な光景も。
小説の中でアンダーグラウンドとされている世界が、思いのほか目の前にあった。
「でもお前は知らないんだよ」
「…………な、にを」
「そういう人間の闇の部分に、自分の大切な人が晒されたときの恐怖を」
「そ……」
「頼むから……」
縋るように、十影は僕に手を伸ばした。
その手が、僕の背中を抱く。
ふわり、と少しだけ煙いバニラの匂い。
熱いくらいの息が、耳元にかかる。
「お前をこの屋敷に連れてきたことを、俺に後悔させないでくれ……」
この感覚を、僕は
知っている、と思った。
雨が降るのも時間の問題かもしれない。洗濯物を取り込むのは―――もう少し後でいいか、と僕は視線をテーブルに戻した。
連日の雨のせいで溜まった洗濯物がやっと干せたのだ。
取り込むのは、出来るだけ乾いてからがいい。
「今日も降るかもな」
僕の視線から心情を読んだのか、それとも単に自分でそう思っただけか、そう言って十影は珈琲に口をつけた。
マホロがいるときは決して出てこないその暗褐色の飲み物をぼんやりと見つめる。
「梅雨入り、しないね」
「今週中にはするだろ」
うんざりするように息を吐くと、十影はソファの背凭れに沈んだ。
「まぁでも、暑いよりマシだなぁ」
「………そうだね」
十影の場合、その重度の夏嫌いが暑がりに拍車をかけているような気もするけれど。
年中着ている黒のキャソックも見ているだけで暑苦しい。
僕ほどではないにしろ十影だって信仰心が強いわけじゃないんだから、教会や学校から離れたときくらい違う服を着ればいいのにと思う。
ふ、と。
十影の着ているキャソックの袖口に、ふわりと何かが重なって見えた。
風に揺れるリネンのシャツ。ゆったりとした、生成りのそれから伸びる、透けるような腕、指先。
ノンカラーの襟から覗く、作り物のような鎖骨。
それにかかる月白色の髪。
「なんかあったのか」
「………えっ?」
そう言われて僕は十影の袖口から視線を上げた。
訝しむような目が、僕を見ている。
突然言われたその言葉の、視線の意味を考えるよりも先に、僕は首を横に振っていた。
「………なんにも、ないよ?」
「お前、馬鹿か」
脈絡もなく乱暴にそう言って、十影はソファから背中を起こした。
開いた足の膝に頬杖をついて、本当に馬鹿にしたように鼻で笑う。
「それ、なんかあったって言ってるようなもんだからな」
「え?」
「“なにが?”―――この場合、それが正しい返答だ。余計な心配されたくないなら覚えとけ」
「あ」
「そんで、それを俺に使うな」
最後に少しだけ小さくなったそれは、絞り出すような、懇願するような、そんな声だった。
取り出した煙草に火をつけて、吸い込んだ煙を吐き出す。
まだ殆ど出来ていない灰を灰皿に落としながら、十影はもう片方の手で珈琲をひとくち飲んだ。
「1人で全部抱え込んで生きていける程、お前はまだ強くはないよ」
そんなつもりは、決してなかったんだけど。自覚している限りは。
ただ僕は、僕をあまりに知らなすぎる。
この下っ腹に溜まるような不快感が一体何なのか、なんという名前の感情なのか、僕には分からない。
自分のことなのに、こんな感情を、僕は知らない。
だからどう説明したらいいのか、分からない。
僕が言い淀んでいると、視線を上げた十影がふと笑った。
いやな心臓の軋みが少しだけ和らぐ―――この感情の名前はきっと“懐かしい”だ。
「まぁ、ある意味“それ”もお前の成長か」
「……僕も鍛えたら十影みたいになれる?」
「あ?」
僕はそっと自分の左腕を持ち上げた。
十影のそれの半分ほどしかないか弱い腕は、かといってマホロのような繊細さがあるわけでもない。
今まで同世代と関わることがなかったから、さして気にしたこともなかったけれど
男の強さというものは、やはり筋肉だろうと思う。
「そういう意味じゃねぇよ、馬鹿」
心底呆れたように十影は火が付いたままの煙草を灰皿の淵に置いた。
長い人差し指が、とす、と僕の左胸を突いた。
「内面の弱い奴がそれを隠す為に役にも立たない筋肉つけたりする。その逆で、どれだけ傷付けられようが何度だって立ち上がるヒョロヒョロのガキだっている。外見の強さなんて、所詮見て呉れの仮面みたいなもんだよ」
ぐ、と僕の胸を押したその反動で、十影の人差し指は離れていった。
力に逆らわなかった僕の背中がソファの背凭れに沈む。
にやにやとしたまま、十影はじっと僕を見据えている。
この話を続けるつもりはないけど、僕の話は聞きだすつもりらしい。
観念して、僕は珈琲をひとくち飲んだ。
「十影は、見たことある?」
「なにを」
「マホロの……、………その」
それ以上が言えなくて、僕は俯いた。
手の中のカップに、情けない顔をした自分が映っている。
しかしそれだけで十影は何かを悟ったのか、大きな溜息を吐いてソファに沈んだ。
ふぅ、と空間に紫煙を吹き付ける。
「あるよ」
結局、殆ど吸わないままに短くなった煙草を灰皿に押し付けて、十影は小さく言った。
「どうしてあいつが夜、花を食うのか……分かるか」
「っ」
脳裏に“あの”光景が浮かんで、僕は強く首を横に振った。
「人に、見られたくないからだ」
「ひとに………?」
「なんでだと思う?」
「なんでって……」
月光の下。残酷なまでに美しい、マホロのあの横顔。
僕はもう一度、首を横に振る。
「醜いから―――だそうだ」
十影の視線が、窓の外を向いた。
曇天の下の花々が、吹き始めた緩やかな風に微かに揺れている。
「醜い……?」
「欲を貪る悪魔みたいで……愚かで醜い―――あいつは、そう言ってた」
悪魔。
夢魔。
「………インキュバス」
「あ?」
弾かれたように、十影は僕を見た。
その目に、微かな動揺と困惑が滲んでいる。
「……マホロ、言ってたんだ。自分は夢魔みたいだって。美しさで人を誘惑して、その精気を吸い取って自分の欲を満たすインキュバスみたいだって。だから自分に流れる血は、体液はこんなにも汚いって。だから」
人を惑わすその花弁が、決して自分から造られないように。
どんなことがあっても、なにがあっても、絶対に―――
「絶対に―――泣かないんだ、って」
まただ。
この間と同じ。
左胸が、心臓が、きゅうと握り潰されるような息苦しさが、僕の呼吸をおかしくする。
鼻の奥。
生きている人間の、僕の、粘膜の匂いがした。
「そんなの………そんなの、悲しいよ」
「………そうだな」
そう言って立ち上がった十影は、窓のほうへ歩いた。
さっきはあんなに遠くにあった雨雲が、もうすぐ上まで来ている。
「なぁ、縁」
「なに?」
「俺はさっき『1人で全部を抱えきれるほど、お前は強くない』って、お前にそう言ったな」
「うん、言った」
「それは、お前自身の話だ」
十影は僕に背中を向けたまま、変わらない口調でそう言った。
「でも今のは、お前の問題じゃない。マホロのことだ」
「……それが、なに?」
「あまりマホロに深入りするな」
きっぱりと、それでもやはりこちらを向かないまま、十影はそう言った。
咄嗟に口を開きかけた僕を制するように、十影は言葉を重ねる。
「マホロに―――花酔いに、感情移入するな」
「十影……っ!」
僕を、マホロを、突き放すようにそう言って、十影は短く息を吐いた。
空を割くような光が一瞬、部屋を照らした。
そこで初めて僕は、いつのまにか部屋が薄暗くなっていることに気付く。
遅れてやってきた雷鳴は、まだ遠くで聞こえる。
「……それは、花酔いが短命だから?」
「違う。お前が人間だからだ」
「マホロだって人間だよ」
「違う。あいつは、花酔いだ」
「だからっ………!」
花酔いだって人間だろうと、そう叫びたくなるのを堪えて僕は、膝の上で自分の手を握った。
「どうして……どうして十影がそんなこと言うんだよ……っ」
「お前やマホロが大事だからだ」
「大事……?」
「あぁ」
「わかんないよ……大事ならどうして………っ」
「傷付いて欲しくないからだ。お前たち2人に」
雷が、光った。
レースカーテンが風を受け止めて大きく膨らむ。鼻先に、微かに水の匂いがした。
窓を閉め、十影はやっとこちらを振り返った。
それでも僕は、その顔を見ることが出来なかった。
「お前は、人間の闇の部分を知ってるだろ」
「……ん」
「人身売買や麻薬売買、それよりもっと汚くて下劣なことは、思ったより普通に行われてる。お前はそれを見てきたはずだ」
小さいときは知らなかった。
週末になると修道院に花を売りに来る女の子が頻繁に変わる理由。
金曜日の夜になると出かけて行った神父様が、朝方になると甘い匂いをさせて帰ってくる理由。
夜中にベッドを抜け出して街に出た時に見た、裏通りのあの異様な光景も。
小説の中でアンダーグラウンドとされている世界が、思いのほか目の前にあった。
「でもお前は知らないんだよ」
「…………な、にを」
「そういう人間の闇の部分に、自分の大切な人が晒されたときの恐怖を」
「そ……」
「頼むから……」
縋るように、十影は僕に手を伸ばした。
その手が、僕の背中を抱く。
ふわり、と少しだけ煙いバニラの匂い。
熱いくらいの息が、耳元にかかる。
「お前をこの屋敷に連れてきたことを、俺に後悔させないでくれ……」
この感覚を、僕は
知っている、と思った。