‐19‐彼方
文字数 1,065文字
そうだ。
あの日。
あの夏の日。
僕は修道院を抜け出した。
初めて修道院の外で感じた夏は、僕が知っているどの季節よりも溌剌としていて、ぱきっとした色が太陽の光に反射して空気すらきらきらと輝いて見えた。
こんな季節は知らなかった。こんな季節は、僕の知っていた夏じゃなかった。
蝉の鳴く声。
水の弾ける音。
コンクリートの灼ける匂い。
人の声。
風が吹く音。
行先も分からないバスに乗って行きついた、見渡す限り一面に咲いた向日葵の色。
修道院を抜けだした理由は本当にくだらなかったと思う。
隠れてパイを食べていたのが見つかったとか、鶏小屋の鶏を逃がしたとか、そんなことで怒られて、拗ねて、家出したのだ。
そんな、思春期にはよくあるようななんでもないことだった。
けれど、あの日から。
あの人は―――神父様は、変わってしまった。
愛しむように、まるでそうしなければ壊れてしまうとでも言いたげな手つきで、あの人は僕に触れた。
そして僕を見る目はどこか虚ろで、何故かたまに、恐怖に歪んだ。
『―――縁日』
いつからかそう呼ばれなくなった。
人を幸せに出来るように、と。縁を結べるように、と。
この名前をつけたのは他でもないあの人だというのに。
向日葵の大群の中、僕の名前を誰かが呼んだ。
振り返った先。
黄金色に光る向日葵を背景に、黒い服が風に靡く。
靄がかかったように、その表情だけがうまく見えない。
その唇が、薄く笑った。
『―――だったら君が花酔いになればいい』
ざ、と向日葵が一斉に揺れた。
黄色が黒に侵食されていく。
―――あぁ、そうか。
そんな簡単なことだったんじゃないか。
僕が花酔いになれば。僕が“普通”じゃなくなれば。
マホロに触れられる。
その透き通るような頬に触れて、その唇に触れて、それよりもっと奥を探れるのに。
マホロと一緒に、生きていけるのに。
僕が―――
『駄目だよ、縁日は』
振り返った先に、マホロが居た。
今にも泣きそうな顔をして、それでもマホロは笑っている。
『でも……ッ』
伸びてきた指先が、僕の唇に触れた。
その指先から、ほろほろと溶けるように消えていく。
『………き、なんだ……、マホロのこと……』
空気に触れても花弁にはならない、僕の涙をマホロの唇が掬っていく。
頬に触れていた筈の手のひらが、指先が、甘い匂いをさせながら溶けていく。
『うん。俺もだよ』
―――夢の中ですら、僕はマホロに触れられないのに。
あの日。
あの夏の日。
僕は修道院を抜け出した。
初めて修道院の外で感じた夏は、僕が知っているどの季節よりも溌剌としていて、ぱきっとした色が太陽の光に反射して空気すらきらきらと輝いて見えた。
こんな季節は知らなかった。こんな季節は、僕の知っていた夏じゃなかった。
蝉の鳴く声。
水の弾ける音。
コンクリートの灼ける匂い。
人の声。
風が吹く音。
行先も分からないバスに乗って行きついた、見渡す限り一面に咲いた向日葵の色。
修道院を抜けだした理由は本当にくだらなかったと思う。
隠れてパイを食べていたのが見つかったとか、鶏小屋の鶏を逃がしたとか、そんなことで怒られて、拗ねて、家出したのだ。
そんな、思春期にはよくあるようななんでもないことだった。
けれど、あの日から。
あの人は―――神父様は、変わってしまった。
愛しむように、まるでそうしなければ壊れてしまうとでも言いたげな手つきで、あの人は僕に触れた。
そして僕を見る目はどこか虚ろで、何故かたまに、恐怖に歪んだ。
『―――縁日』
いつからかそう呼ばれなくなった。
人を幸せに出来るように、と。縁を結べるように、と。
この名前をつけたのは他でもないあの人だというのに。
向日葵の大群の中、僕の名前を誰かが呼んだ。
振り返った先。
黄金色に光る向日葵を背景に、黒い服が風に靡く。
靄がかかったように、その表情だけがうまく見えない。
その唇が、薄く笑った。
『―――だったら君が花酔いになればいい』
ざ、と向日葵が一斉に揺れた。
黄色が黒に侵食されていく。
―――あぁ、そうか。
そんな簡単なことだったんじゃないか。
僕が花酔いになれば。僕が“普通”じゃなくなれば。
マホロに触れられる。
その透き通るような頬に触れて、その唇に触れて、それよりもっと奥を探れるのに。
マホロと一緒に、生きていけるのに。
僕が―――
『駄目だよ、縁日は』
振り返った先に、マホロが居た。
今にも泣きそうな顔をして、それでもマホロは笑っている。
『でも……ッ』
伸びてきた指先が、僕の唇に触れた。
その指先から、ほろほろと溶けるように消えていく。
『………き、なんだ……、マホロのこと……』
空気に触れても花弁にはならない、僕の涙をマホロの唇が掬っていく。
頬に触れていた筈の手のひらが、指先が、甘い匂いをさせながら溶けていく。
『うん。俺もだよ』
―――夢の中ですら、僕はマホロに触れられないのに。