-12-翼痕

文字数 2,703文字

―――マグマみたいだと思った。
ぐつぐつと煮えたぎる直視することも出来ないような鮮やかな朱色の感情が可笑しくなりそうなくらい身体中を駆け巡った後、
それはどろどろとした鉛のような塊になって耳の奥や鳩尾に溜まった。
雨に晒されたそれは、酷く重たい石になって今は腹の底に沈んでいる。

この感情の名前はなんだろう。
焦れるような熱と、所構わず吐き捨てたくなるような冷たい感情が、確かに身体の中に共存している。


あの夜からだ。
あの、嵐の夜―――

あれがマホロの父親―――浄見という男だと、なんとなくそう気付いてしまった。
よくよく考えてみれば分かることだ。
金儲けの為に花酔いと結婚し、花酔いを産ませた男。花酔いの体液の提供元は―――マホロなんだろう。
そんなこと、もっと早く――― 十影にあの話を聞かされた時に気付いてもいいことだった。

脳が拒否していたんだと思う。
その自己防衛本能の所為で、あんな場面に遭遇する羽目になってしまった。

僕はそっと窓辺に寄った。
少しだけ弱くなった雨が、梔子の花に降り注いでいる。
あの夜あれだけざわついていた心が、今はすっかり沈み切ってしまっていた。
『こんな気分になるのは雨の所為だ』なんて台詞をいつか本で読んだことがある。
そんなの嘘だ。
絶対、嘘だ。


「………痒」


背中がむずむずした。
―――これは、雨の所為だ。
そう思い聞い込ませることにした。

鏡の前に立って、着ていたシャツを脱ぐ。
背中を向けると、両方の肩甲骨にちょうど沿うように出来た2つの古い切り傷が鏡に映った。
ケロイド化しているそれは、僕の背中が成長してもそのままその場所に残っている。


「縁―?……………縁日」


開けっ放しにしていたドアから顔を見せた十影の表情が曇った。
この傷は、僕より十影のほうが見たくないだろうものだ。


「どうした?」
「なんでもないよ。ただちょっと痒くて……雨のせいかな」


脳裏に、今よりずっと若い十影の姿が浮かんだ。
あんな十影の顔を見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
あの日も―――梔子の香りがしていた。


「……マホロは?」
「寝た」


そっけなくそう言って、十影はソファの背凭れに浅く腰掛けた。
その視線が、窓の外を向く。僕はシャツに腕を通した。


「消えなかったな」
「傷?まぁ、人目に触れる場所でもないし……」
「記憶も」


鏡越しに十影と目が合った。


「………忘れて欲しかった?」
「当たり前だろ」
「無理でしょ……」
「だろうな」


煙草を銜えた唇の端で、十影が笑った。
甘い香りを孕んだ煙が、梔子の匂いを塗り替えていく。
とっくに治っているはずの傷跡が、じくりと熱を持ったような気がした。
「なんてね」と、マホロの真似をした。あの時の僕と同じような顔で、十影が僕を見た。


「実際、忘れてたよ」
「あ?」
「十影ほど“あのこと”引き摺れてないんだよ、僕」


シャツのボタンをしめて、外の景色を遮るように窓に凭れた。
梔子の花が、雨の雫を受けて微かに揺れている。


「僕が普通だったら、ちゃんとPTSDにでもなってたのかな」
「そういう言い方やめろっつっただろ」
「……ごめん」


右手を背中に回した。シャツ越しの傷に指先が触れる。


「………“あの人”に似てる人を見たから」
「は?」
「こないだの嵐の夜にさ。あれ、浄見って人でしょ」


十影の瞳が、微かに開く。それは肯定を示していた。


「…………見たのか」
「うん」
「くそ……!」


らしくない乱暴な言葉を吐いて、十影は灰皿で煙草をもみ消した。


「“あの頃”はさ、十影がなんであんな顔するのか分からなかったけど………ちょっと分かったよ」
「縁日……」
「生まれて初めて人を殺したいと思った」


窓に当たる雨の感触が背中に伝わる。
唇の端が、勝手に笑った。


「おかしいよね、自分捨てた親のことだって恨んだことないのに。“あの人”のことだって―――」


いつも真っすぐに僕を見る十影の視線が、テーブルの上に逃げた。


「後悔してる?」
「なにを」
「僕を、この屋敷に連れてきたこと」
「…………少しな」


ソファに座り直した十影が、新しい煙草に火をつけながらそう言った。


「ただ―――」


大きく肺に取り込まれた煙が、投げやりに吐き出される。
空気に滲むような灰色が、湿気の香りに混ざった。


「こうなることも少しは予想してた」


あまりに残酷な、そんな言葉を吐いて十影はまた煙草を吸った。
ちりちりと煙草の先端に赤い火が走ってバニラの香りを漂わせながら灰に変わっていく。


「お前が浄見に“あいつ”を重ねたことは―――予想外だったけどな」
「僕にとって、あの年代の男の人って“あの人”しかいないんだよ」
「……そうだな」


まだ長い煙草をもみ消して、十影は僕のほうを振り向いた。
視線で僕をソファの上へと導く。
十影の隣に座っても、その目は僕へは向かない。


「俺がお前をここに連れてきたのは、お前をマホロと会わせたいと思ったからだ」
「マホロに……?」
「同世代と関わること、今までなかっただろ」
「そうだけど……」
「いい友達になれると思ったんだよ、お前らなら」


なれるよ、と少し前の自分なら言えていたのかもしれない。
でも今は―――

咽喉の奥で消えた言葉が、やがて砂糖菓子のような花弁に変わった。



「僕、マホロのことが好きだよ」



十影は驚かなかった。
その代わり、酷く優しい、憐れむ様な目で、僕を見た。


「だから、友達にはなれない」
「縁日……」
「言わないけどね」


ほんの少しだけ、十影がほっとしたような顔をしたのを僕は見逃さなかった。
どうやら僕は正しい選択肢を選んだらしい。

だったらそれでいい。
十影の言うことは、いつだって正しいんだから。

ふいに視界が明るくなって、僕は窓の外を見上げた。
灰色の雲が急速に剥がされて、白い空が雨を穏やかにしていく。
窓に右頬をつけた。ひんやりと濡れた硝子の向こうで雨が当たって、つ、と流れる。

鼻の奥に、硝子を隔てた先の梔子の香りが燻っている。
僕は静かに目を閉じた。
脳裏にこびりついたあの甘い焦げた香りの出来事が、いつかの自分に重なった。


「僕、ちゃんと普通になれたかな」


つ、と頬に何かが流れたそれが、
果たして硝子の向こうに落ちる雨なのか、それとも自分の目から零れたものか―――僕には分からなかった。
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登場人物紹介

斎藤 縁日(サイトウ エンニチ)

生後間もなく親に捨てられ、修道院で育てられる。

自分が孤児だという意識があまりなく、戒律厳しい修道院で育ったわりに信仰心もあまり高くない。

一人称は「僕」


山谷 眞秀(ヤマヤ マホロ)

花酔いである母親からの胎盤感染によって、生まれながらにして花酔いに感染している。

自分の出生の特殊性もあってか全てを受け入れて生きてきたため、あまり「自分が花酔いだから」という意識はしていない。

月白色の髪と瞳をもつ。

一人称は「俺」

夕凪 十影(ユウナギ トカゲ)

親同士で交流があり、幼い頃から眞秀の面倒を見て育つ。
書生として山谷の屋敷に下宿していたが、大学教授として就職を機に屋敷を離れる。
愛煙家。

一人称は「俺」

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