-25-落雷

文字数 3,532文字

さっきまであんなに晴れていたというのに、気付けばどす黒い雲がすぐそばまでやってきていた。
雨の匂いがする。
冷たい風が、庭の緑を揺らして消えた。

今朝、縁日が干した洗濯物を十影が取り込んでいる。
その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、眞秀は小さく咳をした。

呼気が、花弁の甘い香りを放って空気と混じる。
心臓が、苦しかった。


「茶でも淹れるか?」
「いらない」
「眞秀……」
「欲しくない」


取り込まれたばかりの洗濯物に倒れ込む。
柔軟剤と太陽の匂いに混じって、消え切らない縁日の匂いがした。
鼻の奥がつんとして、それを隠すように洗濯物に顔を埋める。
自分の目頭から香る甘い匂いが、邪魔だった。


「心配しなくても、縁ならちゃんと戻ってくる」
「分かってる」


戻ってくるのだろう。それは分かる。
何事もなかったみたいに。眠そうな目をして帰ってくる。分かってる。
けれど“いつか”じゃ、いやだ。
今がいい。
今、いつも、そばに、いてくれなきゃ、いやだ。


「子どもか、お前は」
「もうそれでいい……なんでもいい」
「眞秀……」


困ったように十影が溜息を吐いた。
と同時に「ごめんください」と、来客を告げる声が聞こえた。

太く低い男の声は、どこか苛立ったように語気を荒げながら執拗に玄関から聞えてくる。


「誰か!誰かいないのか!」
「…………」


暫く玄関の方を無言で睨みつけていた十影は、やがて観念したように溜息を吐いて庭から廊下に上がった。


「そのまま寝るなよ、眞秀」
「んー……」


洗濯物に顔を埋めたままひらひらと手を振ると、十影はまた溜息を吐いて玄関のほうへ向かった。

雨が、一粒庭に落ちた音がした。
ひとつ、ひとつ、地面に落ちてくる。
それは徐々に多くなり、すぐに連続したひとつの大きな音になる。


「………ん?」


床に横になる眞秀の耳に、直に響いた地鳴りのような音。
雷にも似たその音は、床を踏み鳴らしながらだんだんとこちらに近付いてくる。
その音が近付いてくるにつれ、誰かともめるような十影の声も近付いてくることに気が付いた。


「―――だから!話をするだけなら俺で十分でしょう!?そうでなくとももっとちゃんと……!」
「煩い。お前の話は聞いていない」


スーツ姿の見慣れない男が、廊下の角から現れた。地鳴りのような足音がぴたりと止まる。
その男の蔑むような眼が、ゆっくりと眞秀を見下ろした。
それを遮るように男の前に十影が立つ。


「いい加減にしてください!」
「―――山谷 眞秀だな?」
「………だれ、あんた」
「話がある。来い」
「は?ちょっ……」


あの十影をいとも簡単に片腕でいなして、男がなんの躊躇もなく眞秀に手を伸ばした。

背筋が、引き攣るように震えた。
逃げろ。
頭ではそう思うのに、身体が動かない。

あの時とは---縁日と初めて会った時とは違う。
動かないんじゃない---動けない。

息が、詰まる。


服に、その男の指先が揺れた。
瞬間―――雷が、落ちたと思った。


「なっ……!?」
「触んな」


雷雨の中で、その声はやけに響いて聞こえた。
眞秀の前に立つ、決して広いとは言えない背中。
ミントにも似た、その匂い。


「…………え、ん……にち……」


眞秀の声に振り向くことなく、ただ守るように縁日は男と対峙している。
手を弾かれた男は、ゆっくりと我に返って怒りに震えた。


「な、なんだ貴様……!」
「気安く眞秀に触るな」
「っ!」


始めて聞く、縁日の声だった。
静かで、穏やかで、それでいて怒りに満ちたその声に、男がたじろぐ。
男の後ろにいる十影でさえも、縁日を見つめたまま固まっていた。
風に攫われた雨の音が一瞬止んで、また激しく庭の葉を打つ。
それに合わせるかのように、ぱんぱんと手のひらを打つ音がした。


「はい。その通りですよ、安斎くん」


場違いな程に穏やかな声を、男―――安斎が振り向く。
廊下の角から姿を現したのは、長身で細身の男だった。
安斎の着古したような安いスーツとは違い、素人目にも分かる高級そうなスーツを見事に着こなしている。
銀色のフレームの奥の目が笑っていた。
しかしその笑顔に安心感がまったくないのは、男が纏う威圧感のせいだろう。
安斎のような直接的な威圧感ではなく、空気だけで辺りを制圧するような静かな威圧感。
その姿に安堵したような顔をしたのは、十影だけだった。


「よ……‥吉永管理官……!?どうしてここに……?」
「や、そこで偶然、彼に会いましてね。事情を説明してお邪魔させて戴いたんですよ」
「いえ、そういうことではなく……!」


笑っていた目が、少し開く。
ただそれだけで、安斎は言葉を飲み込んだ。


「上からの命令でね。お目付け役ですよ。君は必ず暴走するから、と」
「暴走…ですか……」
「暴走でしょう?花酔いの体質については特別講義があったはずですが……」


君は今、彼になにをしようとしました?と吉永は横目で安斎を見た。
その視線を、今度は十影に向ける。


「まぁ可愛い後輩の為でもありますし。こうやって僕自ら出向いたわけです、はい」


“可愛い後輩”とは、安斎ではなく十影のことなのだろう。
何か言い返そうと咄嗟に口を開いた十影は、結局何も言わずに吉永から目を逸らした。
そんな十影に小さく笑って、吉永は再び眞秀に向き直ると頭を下げた。


「非礼の数々、大変申し訳ございませんでした。後で重々言って聞かせますので、ここは僕の顔に免じて、お許し頂けないでしょうか」
「………」
「お許し頂けないでしょうか」
「……別に、なんとも思ってない」

良かった、と顔を上げた吉永の後ろで十影が小さく溜息を吐いていた。
そんな十影を、安斎の肩が遮る。

「お言葉ですが、管理官!」
「彼が一体何をしました?」
「っ!」

抑揚も、話し方も変わらない。
けれど熱を含まないそのたった一言で、安斎は口を噤んでしまった。

「後のことは僕からお話しします。君は先に戻っていてください」
「か、管理官!」
「はい、なんでしょう?」
「っ……!」

怒りからか、憤りからか、その火照った顔を赤くした安斎は言葉を飲み込んで首を横に振った。

「……いえ、なんでもありません……失礼します」

伏せられた目が一瞬だけ眞秀を睨み付けて、空間から出て行った。
安斎が消えた廊下の角を眺めながら、吉永が小さく肩を落とす。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。思春期の子供の癇癪とでも思ってください」

平然とそう言い放って、吉永は眼鏡のフレームを神経質に押し上げた。

「悪い人ではないんですけどねぇ。向いていないんですよ」
「向いてないって?」
「警察官という仕事に」

ぞくり、と背中が粟立つのを感じた。
十影一人だけが、呆れたような顔をして吉永を見ている。

「真面目すぎるんですよ。潔癖で、融通が効かない。自分の正義を信じすぎるがあまり、物事の中身を見ようともしないでこれは悪だと決めつける。そんなことをしていたら、いつの間にか自分が悪側にいるかもしれない。それでも彼は、自分が信じたものこそが正義だと言い張るんでしょうね。暑苦しくて、---見苦しい」
「……いいんですか。そんなこと言って」
「勿論オフレコですよ。秘密です」

しぃっと人差し指を唇にあてて、吉永の眼鏡の奥が笑う。わざとらしいくらいの満面の笑みだった。

「……本当はなにしにきたんですか、先輩」
「ん?だから言ったでしょう?可愛い後輩のため---」
「可愛い後輩の為にわざわざこんな山奥まで出向くような人じゃないでしょう。上からの命令ってのも嘘ですね」
「ははっ、お前は本当に可愛いねぇ。夕凪」

そう言って吉永はやっと、その眼鏡の奥の瞳を細めた。

「嘘は吐いてないよ。間違いなく僕は上司命令でこんな山奥にまで来たし、可愛い後輩のためっていうのも嘘じゃない。ただまぁ---9割がた好奇心かな」
「相変わらずで安心しました、先輩」

そう言って十影は、今日何度目かの溜息を吐いた。

気付けば、雷の音が止んでいた。
少しだけブルーの混じった淡い灰色の雲から、細い雨が静かに落ちてくる。
微かな光がその隙間から漏れていた。

「中へどうぞ、先輩」
「ん?」
「ここで話すような内容でもないんでしょう?」
「あぁ…まぁ、うん。そうだね。それじゃあ---」


お邪魔します、と顔を伏せた、その影に隠れた吉永の眼鏡が、小さく光った。
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登場人物紹介

斎藤 縁日(サイトウ エンニチ)

生後間もなく親に捨てられ、修道院で育てられる。

自分が孤児だという意識があまりなく、戒律厳しい修道院で育ったわりに信仰心もあまり高くない。

一人称は「僕」


山谷 眞秀(ヤマヤ マホロ)

花酔いである母親からの胎盤感染によって、生まれながらにして花酔いに感染している。

自分の出生の特殊性もあってか全てを受け入れて生きてきたため、あまり「自分が花酔いだから」という意識はしていない。

月白色の髪と瞳をもつ。

一人称は「俺」

夕凪 十影(ユウナギ トカゲ)

親同士で交流があり、幼い頃から眞秀の面倒を見て育つ。
書生として山谷の屋敷に下宿していたが、大学教授として就職を機に屋敷を離れる。
愛煙家。

一人称は「俺」

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