‐17‐敗北

文字数 1,891文字

じりじりと首の後ろが焼かれる感覚に、僕はやっと顔を上げた。
頭上には、真夏に逆戻りしたような夏空が広がっている。
最近は大人しくなったはずの蝉の生き残りが、どこかで鳴いていた。


「縁日―?」


縁側に現れたマホロが、庭にしゃがみこんでいる僕を見つけて不思議そうに首を傾げた。


「なにしてんの?」
「ちょっと蛇口の調子が悪くて……直してるんだよ」
「直せるの?」
「まぁ、締め直すだけだしね」
「ふぅん」


そう言ってマホロはそのまま縁側にしゃがみ込んだ。
その視線を背中に感じながら、緩んだボルトにスパナを当てる。


「器用だよね、縁日」
「うーん、そうなのかな?あんまり考えたことなかったけど」
「縁日ってさ」
「んー?」
「童貞?」
「ほぁっ!?……あっ……ぶ!?」


驚いた拍子にスパナがずるっとずれて、締めていたはずのボルトが外れてしまった。
途端に勢いよく溢れた水が僕の顔を直撃した。


「……童貞かぁ」
「なっなっなっなに!?急に!なに!?」
「んー?気になかっただけ」
「そんな感じで聞くことなのかな!?」
「あはは!ごめんごめ――――――んぷっ!?」


両手に溜めた水をマホロに向けて投げると、髪や肌に当たった水がきらきらと光りながら空間に弾けた。


「えーんーにーちー!」
「あはは!マホロが怒った!」
「ちょっ!?言いながら水かけんな!」
「涼しくていいで―――う、わぁっ!?」


庭に降りてきたマホロから逃げようとしたところで、濡れた芝生に足をとられてずるりと滑った。
そのまま後ろ向きに腰を強打する。


「いったた……」
「あはははは!」
「もー笑いごとじゃな……っぷ、はははっ!」
「あはははっ!なにやってるんだよ、もー」


排水管からスプリンクラーのように溢れる水が、庭を、僕を、マホロを濡らしていく。
降り注ぐ太陽の光に反射して虹色に輝きながら、最後の夏の匂いが庭中に満たされていった。






***







水の跳ねる音がした。
さっきまであれだけ激しく脈打っていた心臓も今は穏やかにその身を潜めているのは、身を沈めるこの冷水のせいだろうか。
身体の芯部体温まで下がったのか、今はそれほど冷たいとは感じない。

当たり前に、いつもは一人で入る湯船の水が僕が動いてもいないのにまたぴしゃりと跳ねた。
水面に一瞬、白い肌が浮上してまた沈んだ。
生まれた緩やかな波が、僕の肌に触れる。
灯りのついていない浴室で、マホロの白い肌だけが夕方の仄暗い光を吸収して光っていた。


「―――こんな悪知恵、誰に教わったの?」
「あはは、十影みたいなこと言うね。縁日」


水に濡れた髪を掻き上げながら、向かいに座っているマホロがそう言って笑った。


「ずっと思ってたよ」
「え?」
「縁日が、綺麗だって言ってくれた日から」


す、と凭れていた浴槽から背を浮かして音もなく近付いてきたマホロの伸ばした指先が、水中で僕の差し出した手のひらに触れた。
爪先じゃない、肌の感触。冷たい水の中で、マホロの皮膚は僕に触れても溶けなかった。あの焦げた匂いは、しない。


「ずっと触りたいって思ってた」
「マホロ……」
「自分が花酔いってこと、初めて気にしたのはあの日かな」


僕の手のひらの形に沿うようにマホロの指先が動く。
その指先が、僕の人差し指に絡んだ。
くんっ、と力が込められて身体が傾く。
ちゃぷん、と水が跳ねた。

目の前に、揺れる月白色の瞳。
伏せられた長い睫毛が水分を含んで透けている。
甘い息が、唇にかかった。


「花酔いじゃなかったら触りたいときに触れるのに、とか。キスできるのに、とか。それ以上のことも―――」
「マ、ホロ……」
「でもやっぱり、この距離が精一杯」
「マホロ、僕……っ」
「駄目だよ」


触れそうな位置で、その唇が小さく笑った。

僕は今、何を言おうとしたんだろう。
自分でも、分からなかった。


「駄目だよ、縁日は」


そう言ったマホロの言葉の意味は、少し分かった気がした。


ギリシャ彫刻のような滑らかな肌の上を水滴が流れる。
その水滴が、消えかけの火傷の痕の上で止まった。
言いようのない不快感が、生温い熱が、胃の底でもぞもぞと動いた。

マホロの言う通り、この距離が精一杯なんだろう。
その肌を傷つけてまで、僕はマホロを欲しいとは思えない。
唯一の解決策でさえ、言葉にするのを怖がって気付いていないふりをしている。

僕は。僕、は―――



―――あの男には、勝てない。

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登場人物紹介

斎藤 縁日(サイトウ エンニチ)

生後間もなく親に捨てられ、修道院で育てられる。

自分が孤児だという意識があまりなく、戒律厳しい修道院で育ったわりに信仰心もあまり高くない。

一人称は「僕」


山谷 眞秀(ヤマヤ マホロ)

花酔いである母親からの胎盤感染によって、生まれながらにして花酔いに感染している。

自分の出生の特殊性もあってか全てを受け入れて生きてきたため、あまり「自分が花酔いだから」という意識はしていない。

月白色の髪と瞳をもつ。

一人称は「俺」

夕凪 十影(ユウナギ トカゲ)

親同士で交流があり、幼い頃から眞秀の面倒を見て育つ。
書生として山谷の屋敷に下宿していたが、大学教授として就職を機に屋敷を離れる。
愛煙家。

一人称は「俺」

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