-23-急転
文字数 2,043文字
マホロの唇の感触を、当然ながら僕は知らない。
けれどキスと呼ばれるその行為の感覚を、僕は知っている。
目尻に、耳に、首に触れる、かさついた指先の感触や
頬に触れる鼻先のひんやりとした冷たさとともに
唇に触れる、他人の唇の感触を、僕は知っている。
それを思い出す日が来るなんて、思ってもみなかった。
それを思い出してこんな気持ちになるなんて、知らなかった。
「――― 縁日?」
「…………」
僕の名前を呼ぶ、その薄桃色で『上書き』されることは―――
「………なんでもないよ」
―――きっとこの先、ないだろうから。
***
「えんにち―」
緩やかに吹いた風が、乾いた水色の空に木の葉を舞い上がらせた。
そこに、いつもいるはずのひょろりとした後ろ姿はない。
書斎、台所、裏庭や屋根裏部屋にも、その姿はなかった。
「縁日?」
今まで縁日が眞秀に黙ってどこかに行くことはなかった。
過保護なのか心配性なのか、はたまた十影の教育の所為なのかは分からないけれど、家中を移動するときでさえ
どこへ行くのか逐一報告してきていたのに。
じわりと胸に落ちた不安が、じわじわと広がっていく。
低いはずの体温が、ほんの少しだけ上昇したのが分かった。
それとは反対に、頭から血の気が引いていく。
脳裏に黒い残影がちらついて、その不確定な不安が広がっていくスピードを速める。
「縁日……」
あの眠たそうな瞳が、あの頼りなさげな背中が、側にいないだけで、その理由が分からないだけで
こんなにも不安になっている自分に戸惑いながら、眞秀は意味もなく同じ場所を歩き回っていた。
独りなんて、慣れきってしまっていた筈なのに。
知らず知らずのうちに、眞秀の中で縁日という存在は大きくなっていたのだ。
自覚していた以上にもっと。
それは、独りでいることよりもずっと怖いことのような気がした。
「っ!」
遠くで蝶番を外す音が聞こえて、慌てて庭へ向かう。
緑色の中に映える黒い影に、落胆すると同時にほんの少し安心した。
微かに息を切らす眞秀に驚いたような顔をして、十影は持っていた買い物袋を廊下に下ろした。
「なんだ、十影か……」
「十影“さん”だっつってんだろ」
「はは。久しぶりに聞いた、それ……」
ふぅ、と息を吐くと、眞秀はそのまま庭に足を投げ出して廊下に上半身を倒した。
普段走るという行為をしない所為で速まったままの心臓がなかなか落ち着かない。
額と前髪の隙間から汗が結晶化した花弁が廊下に落ちる。
闇市場ではひとつ数万で取引されているらしいそれをこともなげに庭へ払い落としながら、十影は廊下へ腰かけた。
「なんだ。どうした」
「や、縁日がいなくてさ……どこ行ったんだろうと思って」
「は?」
「え?」
怪訝そうな声を発した十影に、眞秀は顔を上げた。
「え?……十影、知ってるんじゃないの?」
「いや、知らん……」
「じゃあ縁日どこ行ったの!?」
「いや待て!あいつだってもう大人なんだから一人でどっか行くことくらい……」
「縁日が?俺や十影に何も言わずに?」
「そっ……」
勢いよく立ち上がった十影はぶつぶつ呟きながら庭をうろついたあとに、ほんの少し冷静になった顔になって
また元の場所に座った。
「大丈夫だ。浄見絡みではない、と、思う……たぶん」
「なんで言い切れるのさ」
「あいつは今、警察で事情聴取を受けてる」
「は?なんで?」
「なんでって……そりゃな」
鼻で笑うようにそう言って、十影は小さく息を吐いた。
「厚労省の重役が逮捕されたんだ。諸々の不正が発覚してな。―――その不正に、浄見も関わっていた」
「花弁を裏で売ってるのがバレたってこと?」
花弁の効果は機密事項で一般に知られていることではない。
しかしもしその事実が、その逮捕により世間に知られることになれば―――
花酔いにとってそれは、とても喜べる事態ではない。
「いや、花弁については誓約があるから、もし仮にその逮捕に花酔いが関わっていたとしてもそれが表向きの理由になることはないよ。
適当にデータの改竄だとか、横領だとか言う話になるんだろうさ」
「そう、だね……」
「研究費用と偽って、不正に浄見に金を渡していたらしい。どうせ花弁を私的に買ってたんだろ」
「逮捕……されるの?」
「たぶんな」
夏よりも色味を落とした庭先に、眞秀は小さく目を細めた。
胸騒ぎが消えない。
いつもよりも速いスピードで心臓から送り出される血液が、指先に届かずに身体の中心でだけ熱く滞っている。
「じゃあ縁日は……」
「………………」
「………十影?」
返事のなくなった十影のほうを見てみると、その黒い瞳が動くことなく庭先のただ一点を見つめていた。
群れて咲くヘリアンサス。
天に向かって咲くその黄色い花は、向日葵の姿によく似ていた。
けれどキスと呼ばれるその行為の感覚を、僕は知っている。
目尻に、耳に、首に触れる、かさついた指先の感触や
頬に触れる鼻先のひんやりとした冷たさとともに
唇に触れる、他人の唇の感触を、僕は知っている。
それを思い出す日が来るなんて、思ってもみなかった。
それを思い出してこんな気持ちになるなんて、知らなかった。
「――― 縁日?」
「…………」
僕の名前を呼ぶ、その薄桃色で『上書き』されることは―――
「………なんでもないよ」
―――きっとこの先、ないだろうから。
***
「えんにち―」
緩やかに吹いた風が、乾いた水色の空に木の葉を舞い上がらせた。
そこに、いつもいるはずのひょろりとした後ろ姿はない。
書斎、台所、裏庭や屋根裏部屋にも、その姿はなかった。
「縁日?」
今まで縁日が眞秀に黙ってどこかに行くことはなかった。
過保護なのか心配性なのか、はたまた十影の教育の所為なのかは分からないけれど、家中を移動するときでさえ
どこへ行くのか逐一報告してきていたのに。
じわりと胸に落ちた不安が、じわじわと広がっていく。
低いはずの体温が、ほんの少しだけ上昇したのが分かった。
それとは反対に、頭から血の気が引いていく。
脳裏に黒い残影がちらついて、その不確定な不安が広がっていくスピードを速める。
「縁日……」
あの眠たそうな瞳が、あの頼りなさげな背中が、側にいないだけで、その理由が分からないだけで
こんなにも不安になっている自分に戸惑いながら、眞秀は意味もなく同じ場所を歩き回っていた。
独りなんて、慣れきってしまっていた筈なのに。
知らず知らずのうちに、眞秀の中で縁日という存在は大きくなっていたのだ。
自覚していた以上にもっと。
それは、独りでいることよりもずっと怖いことのような気がした。
「っ!」
遠くで蝶番を外す音が聞こえて、慌てて庭へ向かう。
緑色の中に映える黒い影に、落胆すると同時にほんの少し安心した。
微かに息を切らす眞秀に驚いたような顔をして、十影は持っていた買い物袋を廊下に下ろした。
「なんだ、十影か……」
「十影“さん”だっつってんだろ」
「はは。久しぶりに聞いた、それ……」
ふぅ、と息を吐くと、眞秀はそのまま庭に足を投げ出して廊下に上半身を倒した。
普段走るという行為をしない所為で速まったままの心臓がなかなか落ち着かない。
額と前髪の隙間から汗が結晶化した花弁が廊下に落ちる。
闇市場ではひとつ数万で取引されているらしいそれをこともなげに庭へ払い落としながら、十影は廊下へ腰かけた。
「なんだ。どうした」
「や、縁日がいなくてさ……どこ行ったんだろうと思って」
「は?」
「え?」
怪訝そうな声を発した十影に、眞秀は顔を上げた。
「え?……十影、知ってるんじゃないの?」
「いや、知らん……」
「じゃあ縁日どこ行ったの!?」
「いや待て!あいつだってもう大人なんだから一人でどっか行くことくらい……」
「縁日が?俺や十影に何も言わずに?」
「そっ……」
勢いよく立ち上がった十影はぶつぶつ呟きながら庭をうろついたあとに、ほんの少し冷静になった顔になって
また元の場所に座った。
「大丈夫だ。浄見絡みではない、と、思う……たぶん」
「なんで言い切れるのさ」
「あいつは今、警察で事情聴取を受けてる」
「は?なんで?」
「なんでって……そりゃな」
鼻で笑うようにそう言って、十影は小さく息を吐いた。
「厚労省の重役が逮捕されたんだ。諸々の不正が発覚してな。―――その不正に、浄見も関わっていた」
「花弁を裏で売ってるのがバレたってこと?」
花弁の効果は機密事項で一般に知られていることではない。
しかしもしその事実が、その逮捕により世間に知られることになれば―――
花酔いにとってそれは、とても喜べる事態ではない。
「いや、花弁については誓約があるから、もし仮にその逮捕に花酔いが関わっていたとしてもそれが表向きの理由になることはないよ。
適当にデータの改竄だとか、横領だとか言う話になるんだろうさ」
「そう、だね……」
「研究費用と偽って、不正に浄見に金を渡していたらしい。どうせ花弁を私的に買ってたんだろ」
「逮捕……されるの?」
「たぶんな」
夏よりも色味を落とした庭先に、眞秀は小さく目を細めた。
胸騒ぎが消えない。
いつもよりも速いスピードで心臓から送り出される血液が、指先に届かずに身体の中心でだけ熱く滞っている。
「じゃあ縁日は……」
「………………」
「………十影?」
返事のなくなった十影のほうを見てみると、その黒い瞳が動くことなく庭先のただ一点を見つめていた。
群れて咲くヘリアンサス。
天に向かって咲くその黄色い花は、向日葵の姿によく似ていた。