-6-月白 (1)

文字数 2,685文字

法、法華経―――そんな声が聞こえて僕は顔を上げた。
腕時計を見ると既に午後2時を過ぎている。どうやら昼食も忘れて勉強に没頭していたらしい。
立ちあがって腰をそらすと、数本の骨がポキポキと鳴った。

風を通すために開けた書斎の窓から顔を覘かせると、あのハーブ園が見える。
ハーブばかりが植えられたその庭にある唯一の桜の木が、ここ数日ですっかりその緑の質量を増しているのがここから見ると分かった。
風に揺られ葉が煽られるたびにその緑のコントラストが変わる。


「鶯がいるのかな……」


初夏を前にその鳴き方をするのは珍しいなと思いながら、息抜きがてら僕は書斎を出た。
廊下を渡り、軒下部分から直接庭に出る。
緩やかな風に、まるで歌うようにハーブたちが揺れていた。

法、法華経。
緑の中で、またその声が響く。


「ん?う、わ!?」


日光を避けようと桜の木陰に入ると、何かが僕の視界を横切った。
それは何回か僕の耳元で羽ばたいた後、静かに浮上して桜の枝に留まる。
丸々とした小鳥だった。その名の通り、綺麗な鶯色をしている。


「うわぁ、珍しい……」


警戒心の強い鶯はあまり人前に姿を現さないと聞いたことがある。
僕もその囀りは聞いたことがあっても、姿を見たのはこれが初めてだった。
珍しいその姿に感動していると、チッチッ、とその丸い身体が枝の上で跳ねた。
何かを伝えるようなその仕草に、僕は視線を鶯から少し外す。


「………巣箱?」


その枝の根本に、巣箱らしいものが置かれていた。
ただ、その屋根の部分が見事に外れて巣箱内に落ちてしまっている。


「あぁ、壊れちゃったのか」


漸く事を理解して、僕は辺りを見渡した。運よく誰もいない。
誰も、というか他に住民はマホロしかいないけれど。


「うーん……。ま、大丈夫か」


探せばハシゴくらいはあるだろうけれど、正直言って面倒臭い。
見上げた桜の木は、その生い茂る葉の迫力と比べるとそんなに高くはなかった。
太い幹の微かな窪みに足を掛けると、思いのほか安定している。
まず太く枝分かれしている部分に腰を乗せて、そこから頭上の枝に手を伸ばす。
警戒するように跳ねた鶯が、もう一本上の枝に移動した。


「も、ちょっと……」


指先が巣箱を捉えた、その時―――


「なにしてるの?」
「えっ?あっ!?う、わぁっ………!」


突然聞こえたその声に、ずるりと足が滑ってそのまま地面に落下した。
どすん、という音とともに腰に鈍痛が走る。


「いっ、たたたたた」
「大丈夫?」
「だっ、大丈夫……だと、思…う…たぶん」


強打した腰に悶絶していると、心配そうな顔をしたマホロが庭に下りて来ていた。
伸びてきた細い指先が、僕の頭についた葉をとって離れていく。


「木登りでもしてたの?」
「や、そうじゃなくて。これ……」


立ち上がりながら、落ちる間際で何とか掴んでいた巣箱を見せると、マホロは不思議そうな顔をして首を傾げた。


「巣箱……?」
「そう。たぶん、こないだの嵐の日に屋根が外れちゃったみたいでさ」
「これをとろうとしてたの?」
「うん、困ってたみたいだったから」
「困る?誰が?」


庭の隅に剥き出しで設置された小さい戸棚の中から工具入れを持ち出して木の下に戻ってきた僕に、マホロはまた首を傾げた。
僕の代わりに返事をするようにチッチッチ、と鶯が鳴いたかと思うと、その小さな体がふわりと木から羽ばたいた。
伸ばされたマホロの人差し指に、その小さな体が留まる。


「こいつが?」
「うん。マホロが飼ってるんじゃないの?」
「まさか。野鳥って飼っちゃ駄目なんでしょ?勝手に棲みついただけだよ」


「ね」とマホロが話しかけると、鶯が鳴いた。


「で、縁日はそれをどうしようとしてるの?」
「どうって……直そうと思って」
「……直す?」
「うん。そんな派手な壊れ方じゃないし」


幸い、屋根は落ちてしまっただけで割れたりしたわけではなかった。
一度分解してから、また釘を打ち直していく。
鶯の頭を爪先で撫でながら、マホロはそれを興味深げに眺めていた。


「新しいの買ったほうが早くない?」
「それはそうだけど……。でも、折角住み慣れた家なのに、直せるなら直した方がいいかなって」
「ふぅん」
「よし。こんなもんかな」


今度は足を踏み外さないように気をつけながらさっきと同じ場所に巣箱を打ち付けると、また落ちたりしないように慎重に僕は地面に戻った。


「さ、行きな」


マホロが、指先の鶯に声をかける。
すると羽ばたいた鶯が、僕の顔の周りを何度か旋回したあとに巣箱の中に這入っていった。

法、法華経。と、巣箱の中から綺麗な鳴き声がした。


「ありがとう、だってさ」


木漏れ日の光を受けて、水面が揺れるようにきらきらと光るその瞳が
心なしか嬉しそうにそう言った。

初夏の熱を、まだ春の匂いが残る風が攫って行った。
ふわり、とマホロの髪が柔らかく靡く。
それを気にする様子もなく、マホロは踵を返すとその場で大きく伸びをした。


「っさ、僕もそろそろ活動限界かな!」
「あ、じゃあ僕お茶淹れてくるね」
「うん、お願い」


屋敷の中に戻っていくマホロの背中を見届けてから、僕は小さく息を吐いた。

この屋敷に来てから既に二週間ほどが経った。
元々、人見知りをするほうではないし、それはマホロも一緒だったようで、
話しかければ気さくに返してくれるし、さっきのように僕が学習以外の何かをやっていれば話しかけてもきてくれる。
なんの問題もなかった。問題は、ない。

けれどひとつだけ、どうしても気をつけなければならないのが
『マホロに触れてはいけないこと』―――だ。

今まで意識したことがなかったから分からなかったけれど、人は案外何気なく人に触れようとするものらしい。
無意識にマホロに触れそうになっては、はっと我に返って背筋を伸ばす生活が一週間ほど続いて
今となってはマホロと同じ空間にいるときは脳が勝手に気を張るようになっている。

そこまで神経質にならなくていいと十影なら笑いそうなものだけれど、うっかり触れてしまったでは洒落にならないのだ。
だからマホロと同じ空間にいるときは―――とりわけさっきのように距離が近い時はどうしても、肩に力が入ってしまう。


(気付いてるよなぁ、絶対)


自分の不器用さに少し苦笑いをして、紅茶を淹れるべく僕もその場を後にした。
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登場人物紹介

斎藤 縁日(サイトウ エンニチ)

生後間もなく親に捨てられ、修道院で育てられる。

自分が孤児だという意識があまりなく、戒律厳しい修道院で育ったわりに信仰心もあまり高くない。

一人称は「僕」


山谷 眞秀(ヤマヤ マホロ)

花酔いである母親からの胎盤感染によって、生まれながらにして花酔いに感染している。

自分の出生の特殊性もあってか全てを受け入れて生きてきたため、あまり「自分が花酔いだから」という意識はしていない。

月白色の髪と瞳をもつ。

一人称は「俺」

夕凪 十影(ユウナギ トカゲ)

親同士で交流があり、幼い頃から眞秀の面倒を見て育つ。
書生として山谷の屋敷に下宿していたが、大学教授として就職を機に屋敷を離れる。
愛煙家。

一人称は「俺」

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