-21-我儘
文字数 1,615文字
いつもよりもずっと高い場所で雲が流れている。
その風が、夏よりも若干色の薄くなった葉を揺らして、乾いた音を奏でた。
グレーの混じる空気のひとつひとつに夕陽の光が反射して、その後姿は今にもその光に連れていってしまわれそうだった。
空っぽになってしまった巣箱を見上げたまま、マホロは何故か小さく笑った。
「最悪ね、死んじゃうんだ」
こちらを見ないまま、マホロは初めて会った時と同じ、透き通った声でそう言った。
「え?」
「花酔いウイルスに合わない人が無理にウイルスを体内に取り込もうとすると、最悪死ぬの」
「それ……」
「花酔いになろうとした人が、少なからず何人かはいたってこと」
マホロが纏う柔らかなリネンの生地が風に揺れる。
「だからマホロは……」
『駄目だよ、縁日は』―――そう言った、あの悲しそうな笑顔を思い出す。
耳の奥で、水の跳ねる音がした。
乾いた空気の中、やっと僕を見たマホロの瞳は夕陽の光を吸い込んで静かに揺れていた。
口の端が上がる。
笑えていない笑顔を諦めたように、マホロは小さく目を伏せた。
「ううん、違うよ」
少しは、それもあるかもしれないけど。
「ただの俺の我儘かな」
唇の動きと、透き通った声が別々に分かれて僕に届いた。
風が止む。
月白色が、その表情を隠してしまう。
「我儘?」
「花酔いになった縁日を、たぶん俺は愛せない」
「っ!」
止んだ筈の風の音が遠くで鳴っていた。
マホロのか細い指先が、その月白色の髪を払う。
目元を攫った指先に、いつもと違う乳白色の花弁。
「俺が縁日の特別じゃなくなるような気がするんだ……たぶん、それと一緒かな」
握って開いた手のひらから、緩やかな風が花弁の粒子を攫っていった。
きらきらと光りながら宙を舞うそれは、やがて溶けるように消えてしまった。
「俺たちは長く生きられない。運よく感染症に罹らなくても、寿命そのものが短いから」
「………ん」
「『マホロが明日死んでもいいよ』って縁日には笑って欲しいんだよ」
やけに明るくなった声がそう言って、マホロは笑った。
「そしたら俺は永遠に縁日の特別でいられる」
マホロが、僕のすぐ隣を通り過ぎた。
小さな風。
微かな香り。
残酷なほど切ないくせに、まるで初恋の告白のようにじれったいほど甘く響く声が僕の心臓を縛り付けた。
「俺がいなくなった世界で、それでも縁日は俺に囚われながら生きていけばいい。俺を忘れられなくなればいい。いつか他の誰かを好きになっても、その人の頬に触れようとするたびに一瞬 躊躇すればいい。キスするたびに、一瞬 戸惑えばいい。誰かを抱くたびに俺を思い出せばいい」
振り返る。
マホロはもう、僕を見ていた。
「ま、ほろ」
「そう……思ってたのになぁ」
溜息を吐きながら、マホロが困ったように眉を下げた。
「あんなこと聞かされちゃうと、期待するんだよ」
その顔が、俯く。
隠れてしまった表情を、その両手が覆う。
どこからか、水の音。
籠った、その声。
「一緒に生きていけるんじゃないかって。ずっと一緒にいられるんじゃないかって」
顔を覆う、その両手の間から、指の隙間から、次々と溢れ出す、桃色の花弁。
「さすがに我儘すぎるよなぁ」
両手を伸ばす。
いつも、泣きそうな顔で笑う癖に、決して泣かなかった彼の―――マホロの、涙を、払う。
「ごめん、マホロ」
指先が、その薄い肩に触れた。
その感触にか、それとも僕の言葉にか、一瞬ビクついたマホロの肩に唇をつけた。
「痛かったら、言って」
じゅわり、と途端に周りに溢れ出す砂糖が溶けるような甘い匂い。
出来るだけ皮膚に触れないように、リネンの生地ごと抱すくめたマホロの身体は
想像していたよりもずっと小さくて、ずっと壊れそうだった。
その風が、夏よりも若干色の薄くなった葉を揺らして、乾いた音を奏でた。
グレーの混じる空気のひとつひとつに夕陽の光が反射して、その後姿は今にもその光に連れていってしまわれそうだった。
空っぽになってしまった巣箱を見上げたまま、マホロは何故か小さく笑った。
「最悪ね、死んじゃうんだ」
こちらを見ないまま、マホロは初めて会った時と同じ、透き通った声でそう言った。
「え?」
「花酔いウイルスに合わない人が無理にウイルスを体内に取り込もうとすると、最悪死ぬの」
「それ……」
「花酔いになろうとした人が、少なからず何人かはいたってこと」
マホロが纏う柔らかなリネンの生地が風に揺れる。
「だからマホロは……」
『駄目だよ、縁日は』―――そう言った、あの悲しそうな笑顔を思い出す。
耳の奥で、水の跳ねる音がした。
乾いた空気の中、やっと僕を見たマホロの瞳は夕陽の光を吸い込んで静かに揺れていた。
口の端が上がる。
笑えていない笑顔を諦めたように、マホロは小さく目を伏せた。
「ううん、違うよ」
少しは、それもあるかもしれないけど。
「ただの俺の我儘かな」
唇の動きと、透き通った声が別々に分かれて僕に届いた。
風が止む。
月白色が、その表情を隠してしまう。
「我儘?」
「花酔いになった縁日を、たぶん俺は愛せない」
「っ!」
止んだ筈の風の音が遠くで鳴っていた。
マホロのか細い指先が、その月白色の髪を払う。
目元を攫った指先に、いつもと違う乳白色の花弁。
「俺が縁日の特別じゃなくなるような気がするんだ……たぶん、それと一緒かな」
握って開いた手のひらから、緩やかな風が花弁の粒子を攫っていった。
きらきらと光りながら宙を舞うそれは、やがて溶けるように消えてしまった。
「俺たちは長く生きられない。運よく感染症に罹らなくても、寿命そのものが短いから」
「………ん」
「『マホロが明日死んでもいいよ』って縁日には笑って欲しいんだよ」
やけに明るくなった声がそう言って、マホロは笑った。
「そしたら俺は永遠に縁日の特別でいられる」
マホロが、僕のすぐ隣を通り過ぎた。
小さな風。
微かな香り。
残酷なほど切ないくせに、まるで初恋の告白のようにじれったいほど甘く響く声が僕の心臓を縛り付けた。
「俺がいなくなった世界で、それでも縁日は俺に囚われながら生きていけばいい。俺を忘れられなくなればいい。いつか他の誰かを好きになっても、その人の頬に触れようとするたびに一瞬 躊躇すればいい。キスするたびに、一瞬 戸惑えばいい。誰かを抱くたびに俺を思い出せばいい」
振り返る。
マホロはもう、僕を見ていた。
「ま、ほろ」
「そう……思ってたのになぁ」
溜息を吐きながら、マホロが困ったように眉を下げた。
「あんなこと聞かされちゃうと、期待するんだよ」
その顔が、俯く。
隠れてしまった表情を、その両手が覆う。
どこからか、水の音。
籠った、その声。
「一緒に生きていけるんじゃないかって。ずっと一緒にいられるんじゃないかって」
顔を覆う、その両手の間から、指の隙間から、次々と溢れ出す、桃色の花弁。
「さすがに我儘すぎるよなぁ」
両手を伸ばす。
いつも、泣きそうな顔で笑う癖に、決して泣かなかった彼の―――マホロの、涙を、払う。
「ごめん、マホロ」
指先が、その薄い肩に触れた。
その感触にか、それとも僕の言葉にか、一瞬ビクついたマホロの肩に唇をつけた。
「痛かったら、言って」
じゅわり、と途端に周りに溢れ出す砂糖が溶けるような甘い匂い。
出来るだけ皮膚に触れないように、リネンの生地ごと抱すくめたマホロの身体は
想像していたよりもずっと小さくて、ずっと壊れそうだった。