鬼が来る
文字数 2,982文字
水無月の十三か十四日頃のことだと覚えております。
上州邑楽郡の大泉辺り※をまわっているノノウからの連絡がありました。砥石にいる父宛の密書でしたが、岩櫃を通るからには、私にも目を通す権というものがありましょう。
密書の中身は、小泉城主・富岡六郎四郎秀長殿宛の手紙の写しでございました。
手紙の差出人は、滝川左近将監一益様です。
富岡殿からの問い合わせに対する返書のようでした。
おそらくは富岡殿が「京都にて起きた異変の噂」を聞いて、その真偽を確かめようとなされていたのでしょう。
あいや、何故当家がそのようなものを手に入れられたか、などということは申されますな。もう遠い昔のことにございますれば。
ま、経緯はともかく、我らは何故かその中身を覗き見ることが出来た、というだけのことでございます。
返書の中身と申しますのは、
「無別条之由候」
といったものであったと記憶しております。
私は文を畳み、砥石行きのノノウに渡しました。
「別条なし、か」
この文の内容から、この時点では、滝川様は織田信長公の死を秘匿なさるおつもりだということが、この私にも知れました。
私などから観ますれば、危うい策としか言い様がないものでした。これほど大きな秘密を、長く隠し通せるはずありましょうか。
少なくとも我ら真田は真実を知っております。知らぬふりをしておりましたが、知ってしまっているのです。我らのような小勢が知っていることを、強大な北条方が知らぬはずはないでしょう。
同じ頃、木曽の方で大変な騒ぎが起きていたのですから、なおのことです。
騒ぎの端緒は、木曽福島城の木曾義昌殿に届いた一通の書状でした。
差出人は北信濃の海津城主・森武蔵守長可殿です。
織田信長の勢力下にあった海津城……後々、待城であるとか、松城であるとか、松代と呼ばれるようになった城でありますが……それは重臣・森武蔵殿の所領とされておりました。
書状の内容は、
『京の変事のため、美濃国金山へ戻ることと相成り候。ついては、明日そちらにて一晩宿営を願いたく……云々』
というような物だったと聞きます。
東信濃辺りについては、我ら真田家が筆頭となって他の国衆共々、滝川一益様にお味方するという形となっておりましたので、諍いもなくどうやら治まっておりました。しかし、北信濃では各地で一揆勢による反乱が起き、領地運営も「大変」であったようです。川中島の辺りは、北方で越後の上杉様と境を接していたわけですから、なおのことです。
森武蔵殿が織田信長横死の報を受け、運営の難しい新領地の放棄を決したのも、致し方のないことでした。
書状を受け取った木曾義昌殿は、
「合い判った、と武蔵守殿にお伝えくだされ。くれぐれも、宜しゅうにお伝えくだされよ」
そう申しつけて使者を帰すと、ご家来衆を呼び集めました。呼び集められた者の中には、証人として預けられていた我が弟・弁丸すなわち源二郎と、矢沢三十郎頼康も含まれております。
多くの者共がいるというのに、場は水を打ったように静まりかえっていました。その中で木曾殿は落ち着いた声音で仰せになったそうです。
「聞いたとおりだ。明晩『鬼』が来る」
この「鬼」と申しますのは、誰あろう森武蔵守殿のことです。森殿はその剽悍苛烈な、あるいは残酷無慈悲な闘い振りから、「鬼武蔵」と呼ばれておいででした。
森殿は出会う敵は総て切り倒すのが信条の方でした。一軍を預けられたなら、その軍を文字通りに率いて戦われます。つまり、自分が先頭に立って敵陣に切り込み、部下の誰よりも多くの首級を上げる大将であられたのです。
あの方の戦には作戦も何もありません。どのような方法であっても、相手を全滅させればよい、とお考えだったようです。
立ちはだかる者は敵であれば当然切り伏せ、敵でなくても打ち倒して進む。ただそれだけのことです。
相手を壊走させ、追撃し、撫で斬りにして殲滅する。あるいは、逃げる人々の背に矢と鉄砲の雨を降らせる。動くもの総てを動かぬようにする。
その苛烈振りを畏れた国人は証人を差し出しました。無理矢理に証人として連れ去られた者も多かったと聞きます。
そうやって集めた証人の数は、数千に及ぶと伝え聞いたことがあります。その人数を、決して大きいとはいえぬ海津城内に押し込めていたというのです。
森殿としても、そこまでせねば領国内を治めることが出来なかったのでしょう。それほどに北信濃の国人衆は森殿を……織田信長公を嫌っていたのです。
「さて鬼めは、その人々を総て引き連れて城を出たそうな。人々は鬼めの本隊の回りを取り囲むように並ばされた。これでは国人衆も滅多に手を出せぬ」
木曾義昌殿があくまで静かに仰せになると、諸将は歯軋りをしたそうです。誰も言葉を発しませんでした。
「鬼めは、人々は信府を過ぎた辺りで、解放した……亡骸にして、な」
この言葉にて、場がざわつかぬはずがありましょうや。
木曽殿もかつて武田の配下であった頃、武田方へ証人を出しておりました。齢七十のご母堂と十三歳の御嫡男・千太郎殿と十七歳の岩姫殿は、木曾殿が織田方に恭順したと知れたその時に、まだご存命であった武田四郎勝頼公の命令により、甲斐新府で処刑されました。
「北信濃の人々の悲しみはいかばかりか。証人に出した肉親を殺される辛さ、苦しさは、儂も良く知っている。……皆の者、儂は鬼を退治せんと思う」
どよめきが起きたといいます。木曾義昌殿の意見には皆同意しているのですが、伝え聞く「鬼武蔵」の恐ろしさが、ご一同に不安を抱かせたものでしょう。
「我らは深志よりの退却より間もなく、兵も疲弊しておりますれば……」
不安を声に出す者も居ったようです。
義昌殿はご一同の顔を見渡すと、
「遠山右衛門佐友忠殿、久々利三河守頼興殿、小里助右衛門光明殿、斎藤玄蕃助利堯殿……東美濃の御歴々も、かの鬼がお嫌いだそうな」
名を挙げられたのは、元々森殿とは縁の深い方々です。そういった方々にさえ、森殿は酷く畏れ、憎まれていたのです。
それが事実か否か、私には判りません。しかし、義昌殿の言葉を聞いた方々は、真実と思ったことでしょう。
「儂は鬼の為に大事な家臣、領民を失いたくはない。
良いか、明日この城へ来るのは人に非ず。彼の者は鬼である。鬼を退治するのに、人とするような堂々たる戦を、兵の命を浪費する戦を、武士らしい戦をする必要はあろうか」
主君から暗い目で見回された家臣達は、初めは無言でありましたが、そのうちに誰か一人が、
「否!」
と声を上げたのを皮切りして、
「否!」「無用にござる!」「断じて否!」
などと口々に言ったそうです。
場の興奮が最高潮に達した頃合いに、義昌殿はご自身の米咬みの当たりを指し示しました。
「その通り! 故に儂はココを使う」
人々は理解しました。つまり、森長可殿を騙し討ちにするのだ、ということをです。
早速陣立てが行われました。
ですが当たり前の戦のように「城を守るため城の外に敷く」布陣ではありません。門の内側、濠の内側、壁の内側、屋敷の内側に、少数の兵を配置する布陣です。城の中に居る者が決して外へは出られないようにする構えでした。
それはつまり、総てを城の中で済ませる為の準備であったのです。
【脚注】
※現在の群馬県邑楽郡大泉町。
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