嘘笑い
文字数 2,700文字
ほんの半月ほど前まで信州も上州もただ一人の支配者たる織田信長公の下にあったのです。同じ「家」の中で物を動かすのに、わざわざ荷や人を
かつて関所であった所には門やら番小屋やら柵の類いが残ってははりましたが、しばらく使っておりませんでしたから、あちらこちらが壊れかけ、外れかけているような、うら寂しい状態になっておりました。。
それでもその門柱や柵の後ろ、あるいは建物の中を、我らは探らざるを得ませんでした。
その物影に生きた人の姿が「無い」ことを確かめるためです。
もし隠れている者がいて、それが信濃の者であるならば、我々はその者を
信濃の者でないならば
我らが調べた時、生きた人の姿はありませんでした。
代わりに、
かつて生きていた者が落命し、日が
その
我々は百姓の
陽が落ちれば辺りには深い霧が巻き、
我らは関所跡から離れ、道筋から山中へ少し入った木々の影に身を潜ませました。
そして私はといえば――。ええ、お察しの通りです。巨樹の根に座り込んでおりました。
それでも、すぐ側に
この期に及んで背を丸め、ガタガタと震えるなどという失態を見せようものならどうなることか、想像に難くありません。
幸直から矢沢の大叔父を経由して、恐らく
と、まあ、いかにも子供っぽい、つまらない見栄ではありましたが、そんなものでもピンと張っておれば、無様に倒れずに済むのですよ。
頼りない見栄の糸にぶら下がって、口を真一文字に引き結び、目は何も見えぬ闇の彼方を睨むように見開いている私の傍らで、幸直は何も言わずにおりました。
思うに、恐らくは幸直も私と同じように、奥歯を噛みしめた青白い顔で闇を睨め付けるておったのでしょう。
湿った無音の闇は、人の心も時の流れを包み隠してしまいました。
突然、闇の中から声がしました。
「
地面に耳を当てていた「
夜明けが間近に迫っておりました。
「いずれから、いずれへ?」
それまで長く口を閉ざしてものですから、私は
問われた「
「上州の側から、こちらへ」
というささやきは、私の予想と違わぬものでした。
「数は?」
「十騎に足りぬかと。あるいは二,三騎ほどやもしれませぬ。それと
これは予想外でした。
「少ないな……」
私は驚くほど素直に口に出しました。
「数には確証がございませぬ。なにせ、
そう言って「耳効き」は平伏しましたが、私はこの者の「耳」を完全に信頼することにしました。
多く見積もって三十名程、少ない方に見積もれば十二,三名の者達が、上州から信州へ向かっているのです。
多い方の三十というのが正しければ、何か――例えば
何しろ、我らの員数もその程度でありましたから。
また、十
「本隊からはぐれた落ち武者の類でしょうか? あるいは、
もっともな
つまりは、三割ほどは違うと感じておった次第です。
試しに、三割のうちのそのまた三割程度の思いつきを、口へ出してみました。
「逃げ出した百姓の
幸直は一瞬息を詰まらせました。霧がまいているせいかも知れませんが、顔色は真っ白であったと覚えます。
その白い顔の上に、硬い笑みを浮かべると、幸直めは、
「全く若と来たら、冗談が下手であられるから。それではお
かさついた声で言ったものです。
実のところ、私としてはこれは全くの本気の言葉で、冗談を言ったつもりなど
私が農夫のフリをして山中の
ですから、私でない、人に
ところが、その場にいた他の者たちはおしなべて幸直の言葉を信じた様子でありました。各々、疲れた白い顔にほんの少し紅をさして忍び笑いをしたものですから、私も「違う」とは言い出せなくなりました。
「そうか、つまらないか。済まぬな」
それだけ言うと、皆と同じように嘘笑いをしました。
不思議なことですが、その途端に、頭の奥に引っ掛かっていた、得体の知れない怖ろしさ、あるいは薄暗闇の様なものが、少しばかり晴れました。
腹の奥からの
年を重ねた今となれば、そう思えます。
ただあの頃の、