奇襲
文字数 2,811文字
実際に兵を配置するのはこの日の翌日と決まりました。
当然のことです。
日本武尊 の熊襲 討伐 の例を上げるまでもなく、奇襲 という作戦は、相手に充分油断をしてもらうことが重要です。当の「鬼」が入ってきた直後に城内の異様さに気付いてしまっては元も子もあったものではないでしょう。
ことに、彼の鬼 は武勇の御方です。企 みがばれてしまったなら、包囲網を易々と突き破って逃げられるか、あるいは城ごと落とされるということも無いとは言い切れません。
運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「鬼」が、怒りの侭 に改めて攻め寄せてくることが考えられます。
失敗は許されません。
ですから人員の配置もその行動も、速やか且つ綿密に練り上げられました。準備は万端に整えられたのです。
明くる日に「鬼」が到着したなら、歓迎の素振りで迎え入れ、饗応 している間に精鋭の兵を配備し、油断に乗じて「退治」する作戦――。
明日、総てを為す!
その夜は、流石 の木曾 伊予守 義昌 殿も寝付けなかったと見えます。
大事を明日に控えた夜に、大鼾 をかいて眠ることが出来る者はそうはおりますまい。私などは戦になるかならぬか判らぬ頃から、寝付きが悪くなります。
深夜、義昌殿は灯明 のない真っ暗闇の広間に、独り座しておられたといいます。
私にはこの時の義昌殿のお心の内を推 し量ることができません。されど、家名を守るためであれば、卑怯者 の誹 りを受けかねない策を講じ、実行せねばならない家長の、高揚 したような口惜しいような、落ち着かない心持ちは、少しばかりは判るつもりです。
深夜、ただ独りで何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を耳にした筈です。
何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は生温 い。何かが激しくぶつかり合うような、何かが破壊されるような轟音 です。
部屋が、いえ城そのものが鳴動 したことでしょう。
「何事だ!」
大声を上げるのと殆 ど同時に、小者 が一人、明かりも持たずにバタバタと広間へ駆け込み、
「一大事にございます! 鬼……森様が只今 ご到着でっ……」
小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、
「それはどういう意味だ?」
というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。
悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声を纏 って、彼の方は現れました。
「伊予 殿、久しいな!」
暗闇を割って、美貌の若武者・平 敦盛 を象 ったという能面の「十六 の面」が浮き出た……ように見えたやも知れません。
手燭 のか細い明かりが顎 の下から白い顔を照らしました。炎が揺れ、影が揺れ、その方ご自身も肩を揺して、義昌殿に近寄られました。
「お……に……武蔵、どの……?」
まごうことなく、森武蔵守長可その人です。
義昌殿が驚き、怯 み、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。
「なに、この時節 暑さが厳しく、兵も疲れ果てるであろうと考え、こちらへ着くのは明日あたりと踏んで、そのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和 と来たら、春先の如 き涼しさであった。御蔭で道行きが捗 ること、捗ること!」
眉が太く髭 の濃いところを除けば、まるで稚児 かお な ご のような優しげな顔に笑みを満たした森 武蔵守 長可 殿は、行軍するときの武装そのものとしか見えぬ「旅装」を解かず、案内 する者もないままにのしのしと進み、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。
「ところが着いてみればまだ夜も浅いというのに何と門が閉まっている。致し方なく叩 い た という次第だ。
しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にいうのは申し訳ないが、この城はあまり堅固ではないな。木槌 二つで門扉が外 れ る ようではのう!」
膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。
この時の義昌殿の耳は、鬼武蔵殿の哄笑 と、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。
庭と知れず、屋内と知れず、不寝番 の者共も、眠っていた者共も、恐慌 を起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。
あるいはしかし、耳にしても聞 こ え て こ な か っ た のやもしれません。
義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。
大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳 の働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。
『何 が 何 や ら 判 ら な い 』
義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。
慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。
しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。
そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、主君の眼前に広がる暗がりの中に「鬼」を――完爾 として笑う森長可を見出すこととなるのです。
「なんだ、木曽 福島 には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門も脆 いが道理というものか」
森長可殿が呵々大笑 なさいました。
反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。
しかし、その場にただ一人、声を上げる者がおりました。
「なんということだ。も の の ふ とあろうものが、なさけないぞ」
見事な大喝 であったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。
腑抜 達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。
年の頃は五、六歳ばかりの男の子であります。
幼いながらに眉の凛々 しい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派な拵 えの小太刀を手挟 んで立っていたそうです。
木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。
餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。
ご本人は恐らく、
「岩松丸 、来るでない」
というようなことを叫んだおつもりでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。
森長可殿が、
「なんだ、この城にも人がいるではないか。なんとまあ天晴 れな武者であろうか! さあ、近う寄られよ!」
と、仰る大層 大きな声に、かき消されてしまったに違いないからです。
その小童 は耳に届いた方の声に招かれるまま、すぅっと、長可殿に歩み寄られました。
童子は長可殿の前まで進むと、大将のように胡座 を組み、座りました。胸を張って、
「きそいよのかみがち ゃ く な ん 、いわまつまるにござる」
廻らぬ舌で、しかし堂々と名乗られたのです。
当然のことです。
ことに、彼の
運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「鬼」が、怒りの
失敗は許されません。
ですから人員の配置もその行動も、速やか且つ綿密に練り上げられました。準備は万端に整えられたのです。
明くる日に「鬼」が到着したなら、歓迎の素振りで迎え入れ、
明日、総てを為す!
その夜は、
大事を明日に控えた夜に、
深夜、義昌殿は
私にはこの時の義昌殿のお心の内を
深夜、ただ独りで何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を耳にした筈です。
何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は
部屋が、いえ城そのものが
「何事だ!」
大声を上げるのと
「一大事にございます! 鬼……森様が
小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、
「それはどういう意味だ?」
というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。
悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声を
「
暗闇を割って、美貌の若武者・
「お……に……武蔵、どの……?」
まごうことなく、森武蔵守長可その人です。
義昌殿が驚き、
「なに、この
眉が太く
「ところが着いてみればまだ夜も浅いというのに何と門が閉まっている。致し方なく
しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にいうのは申し訳ないが、この城はあまり堅固ではないな。
膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。
この時の義昌殿の耳は、鬼武蔵殿の
庭と知れず、屋内と知れず、
あるいはしかし、耳にしても
義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。
大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の
『
義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。
慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。
しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。
そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、主君の眼前に広がる暗がりの中に「鬼」を――
「なんだ、
森長可殿が
反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。
しかし、その場にただ一人、声を上げる者がおりました。
「なんということだ。
見事な
年の頃は五、六歳ばかりの男の子であります。
幼いながらに眉の
木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。
餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。
ご本人は恐らく、
「
というようなことを叫んだおつもりでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。
森長可殿が、
「なんだ、この城にも人がいるではないか。なんとまあ
と、仰る
その
童子は長可殿の前まで進むと、大将のように
「きそいよのかみが
廻らぬ舌で、しかし堂々と名乗られたのです。