暫時の自重

文字数 2,449文字

 館を出た頃には、私は()具足(ぐそく)姿になっていました。
 つまり、籠手(こて)脛当(すねあて)脇楯(わきだて)を着けており、あとは(どう)佩楯(はいだて)とを(まと)って、(かぶと)をかぶりさえすれば、すぐに戦支度ができあがる、という格好です。
 これに何処でどう着替えたものなのか、今となってはどうしても思い出すことも適いません。
 ともかく、何時でも「出陣」できる居住まいになっていたのです。
 そして命じたとおりに、馬が引かれてきました。
 馬丁(ばてい)から手綱(たづな)を乱暴に奪って掴むと、私は、開け放たれた城門の間際まで進み出て、その場に立ちました。

 急使が到着するのを待ちかまえたのです。

 その場にいた者たちは皆、私がなぜそのような姿で、このような場所に立っているのか、いぶかしんだことでしょう。
 砥石から早馬が来る、と言ったところで、誰も信じてはくれますまいゆえ、私はそのことは誰にも言わずにいましたから、尚のことです。

 果たして、急使はやって来ました。

 見張り番の目の良い者・耳の良い者が私の所へそれを知らせようと駆けつけるの同時に、使者は私の前に現れました。
 エラの張った四角い顔の真ん中に、小振りな目鼻と大きな口をギュッと一塊(ひとかたまり)に放り投げたようなその顔は、よく見知ったものでありました。
 譜代(ふだい)の家臣です。それも、普段であれば、早馬に乗せられて使い走りをするような身分の軽い者ではありません。それはつまり、()()()()()()()使()()()()()という意味でありました。

 その者――丸山(まるやま)土佐(とさ)は、私の中途半端な出で立ちを見るなり、

「ああ、間に合うた!」

 と、叫んだものです。その声は(かす)れきっていましたが、声音からは本心安堵しているのが良く判りました。
 土佐は馬から滑り降りると、よろめきながら私の足元に膝をついて、

「若におかれましては、暫時(しばし)ご自重を……」

 荒く激しく息を吐きながら申しました。土佐は誰からの言伝であるとは申しませんでした。しかし、父の命であることは明白です。

「父上は何故(なにゆえ)私に動くなと仰せか!」

 私は、肩で息を吐く丸山土佐を怒鳴りつけました。
 土佐に当たっても仕方のないことであるのは重々承知の上です。それに私は押さえた口調で言ったつもりでした。しかし口から出たのは、(いきどお)りや怒りや落胆に(まみ)れた怒声でした。言った自分が驚くほどの、酷い声でした。
 土佐は声もなく、(あえ)ぎながらただ頭を左右に振りました。
 それから幾度も生唾(なまつば)を飲み込み、呼吸を整えてから、

安土(あづち)於国(おくに)姫の元には、婿(むこ)である小山田(おやまだ)六左衛門(ろくざえもん)殿を走らせる、と。木曽の()()()の件については、最初から『そのつもり』で矢沢三十郎様を付けてある、と。また沼田のことは矢沢右馬助(うまのすけ)様に任せる、と」

 誠にもって、適切な布陣と言わざるを得ません。
 茂誠(しげまさ)がそれこそ()()()()()()()で「ただ一人の家族」である妻の救出にあたるであろう事は、想像に難くありません。
 三十郎が決死の覚悟で源三郎を逃げ落とさせるであろう事も、頼綱大叔父が鬼神のごとく戦って沼田城を守り抜くであろう事も、間違いなくやり遂げることでしょう。

 それにつけても、父がどれほど矢沢の大叔父と三十郎の父子(おやこ)を信頼していたか、これで判るというものです。事実、あの親子はその信頼に足る人物でありました。
 私はそのことさえも口惜しくてなりませんでした。矢沢父子は父から信じられ、大任を預けられたというのに、

「では父上は、この源三郎には何も任せられぬと仰せか?」

 ()ねた子供の言い振りでした。いえ、確かにあの頃の私は小僧若造に他なりませんでしたが、恥ずかしながら本人は一端(いっぱし)の武将のつもりだったのです。
 私は身を乗り出しておりました。独活(うど)の大木の上半身が、土佐の縮こまった体の上に差し出されている様を傍から見たならば、さながら壊れた傘のようであったことでしょう。
 土佐はくたびれた顔をぐいと持ち上げました。細い眼をカッと開いて、口を真一文字に引き締めております。
 私は思わず身を引き起こしました。
 丸山土佐の顔の後に、真田昌幸の渋皮を張ったような顔が浮いて見えました。
 身構える私を見据え、土佐は大きく呼吸をしました。四角い顔の真ん中で、小鼻が大きく膨らみました。

厩橋(まやばし)のことは()が一番承知の筈、と」

 言い終えると、土佐の小鼻はしゅるしゅると縮んでゆきました。
 確かに私は厩橋の地理に明るうございました。あそこは私が生まれ育った場所です。
 そもそも私は【武藤喜兵衛】が武田家を裏切らない証として差し出した人質でありましたから、厩橋城と武藤屋敷のあたりのことしか知らないも同然でした。

 それはともかくも、武田が滅し、甲州・上州・信州が織田の支配下となってからの厩橋の城内にも、信濃衆が差し出した証人(ひとじち)が留め置かれていました。当然、当家から出されていた証人もそこにおります。

「そうか、()()か……」

 背筋に震えが来ました。
 父は「於菊を取り戻せ」と言っている――。
 私はそう判断しました。
 差し出した証人を戻すということは、すなわち、父は織田家を見限る決心をした、ということです。
 私は肺臓(はいぞう)の息を総て出し尽くしました。そうせねば胸の動悸(どうき)が治まらぬ気がしたのです。
 総てを吐き出し、吐き出した以上の気を吸い込みました。

(あい)()かった。して、暫時(しばし)の自重との事であるが、どれ程の時を慎めと仰せだったか?」

 心の臓は踊るのを止めませんでしたが、それでも私は、精一杯落ち着いたふりをして申しました。
 丸山土佐守は小さな目玉を見開いて、

「矢沢右馬助様の()()()()()()()()

「大叔父殿からの()()()()()、ではないのだな?」

「左様で」

 土佐の口元に、僅かな笑みが浮かびました。
 私自身も笑っていた気がします。
 父が、ここから先は己自身で考えよ、と言っている――。そのことが恐ろしくて、そして面白くてなりませんでした。

 日が暮れ、夜が更けました。
 こうなりますと、夜になったからといって眠れるものではありません。恥ずかしい話ではありますが、私は小具足姿のままで、引き伸べられた布団の上に古座(こざ)して、悶々(もんもん)と夜明けを待っていました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み