比興《ひきょう》

文字数 3,760文字

 滝川一益様に気に入られ、過分な信頼を得られたからこそ、父は……真田家は本領を安堵(あんど)された上に、滝川様支配下の関東ではなく信濃の砥石(といし)に住むことが許されているのです。

「あの(じん)は、実に面白い。まことに珍しい生き物だ」

 父も笑っていました。
 これを聞いた大叔父は、

「向こうもお主をそう思うておろうよ」

 大笑(たいしょう)しました。
 一頻(ひとしき)りお笑い納めになると、大叔父は急にお顔の色を険しくなさいました。

「儂は人の胸の内を探ったり内密に調べたりなどというのは苦手だ」

 父が声なく苦笑しました。
 矢沢頼綱は当家随一の武変者でありました。確かに自身が「(忍者)」のように動き働くことは苦手でありましょう。しかし配下の者たちを動かし、「(忍者)」を働かせて敵の内情を探ることはお得意の筈です。大叔父は当家随一の武変者であると同時に、当家随一の名将でもあったからです。

 大叔父は主君であり甥である我が父の表情の変化をまるで無視して、話を進めました。

(ゆえ)に、義太夫(ぎだゆう)殿とも今まで通り当たり前に付き合うことにする。当たり前に付き合うて、当たり前に知れることを知る。面白きことがあれば、(ぬし)に知らせる。それで良いな?」

「構いませぬ」

 父はにこやかに答えました。
 これを聞いて大叔父は(うなづ)いて、立ち上がり、そのまま出て行こうとなさりました。……が、二、三歩ほど歩んだところでふと立ち止まり、甥とはいえど主君たる父に背を向けたままという無作法な姿勢で問いました。

於菊(おきく)が事は、如何(いか)にする?」

 途端に父の顔から笑みがかき消えたものです。面倒くさげに息を吐いて、

「やれやれ、厄介(やっかい)ごとを思い出させてくれますな」

「忘れたで済む事でははない。(ぬし)はのらりくらりと正式な返答を送ることを引き延ばしても良いだろうが、(わし)は帰れば直ぐに義太夫殿に復命せねばならぬ」

 振り返りもしない大叔父の背を(にら)みすえ、父は玩具を取り上げられた(わっぱ)のように口をとがらせて言いました。

「今、於菊が三九郎殿に嫁せば、降将が命惜しさのために娘を(にえ)にしたように見る者もおるだろうから、その儀は今(しばら)くお待ちいただきたい、とお伝えいただければよいでしょう」

 諒承(りょうしょう)したとも謝絶(しゃぜつ)したとも取れる()(ぐさ)ではありますが、それでも一応は理に適った言い訳になっています。

「ふん……。で、石田の方へは?」

「この度の事により未だ家中が落ち着かぬ故、輿入(こしい)れの義はお待ちいただきたい、とでも文を出しましょう」

 これも、(しょう)とも不承(ふしょう)とも取れ、()つ、あやふやとは言え筋は通っています。

「成程。して、主は天秤の傾き具合を遠くから眺める、か。比興(ひきょう)なり、比興なり」

 大叔父はカラカラと笑い、歩幅大きく歩み出て行かれました。

 その時私には、苦笑いして大叔父を送り出す父の目が、少しばかり曇っているように見えました。
 不安であるとか、心配であるとか、そう言った心持ちのために生じた曇りではない。何かを隠しておいでるのではないか。何か重要な事柄を、大叔父にも私にも言わずにおられるのではないか――私はそう思うて父の顔を見ておりました。
 父の目を見ることで、何かを読み取れるかも知れない、と思ってのことです。
 私の浅はかな考えなど、直ぐに父に知られてしまいました。
 父は瞼を閉じてしまったのです。

「源三郎」

 地を這うような低い声音が私を呼びました。身が縮む思いがしましたが、しかしどうやら平静を保ち、

「はい」

 返答いたしますと、父は小さな声で言いました。

「織田様の使い……いや、織田様の身辺からの正規の使いが重要な知らせを持って滝川様の元へ走り込むのと、ノノウや『(忍者)』達がそれを持ってここへ走り込んでくるのと……お主はどちらが速いと思う?」

 私は暫し考えました。
 父のことですから、()()()()()()()()()()(たず)ねているのでは無いでしょう。私に聞くまでもなく、父の方がその答えを良く知っているはずです。
 ではなぜ私にそのようなことを聞くのか――。
 私には父の意向が図りかねました。
 となれば、それを正直に答えるより他に術がありましょうか。

「どちらとも申し上げかねます」

小狡(こずる)い答えだな」

「そう仰せになられましても、私には『場合によると』しか返答できませぬ」

「場合、とは?」

「まずは、使()()()()()()()()()です」

「ほう?」

岩櫃(いわびつ)におります垂氷(つらら)と申しますノノウの足の速さには大変驚かされました」

「ノノウの、垂氷(つらら)?」

 今から思い起こしますと、この時の父の眉根には、なにか奇妙で不可解な皺が浮いていたように思われます。しかしながら、その折の私には、それがどの不可解に対して浮かんだ物であるか、などと考えている暇はなかったのです。
 何分、私の身の回りには、足りない脳味噌で考えねばならぬ事が、あれやこれやあふれておりました。考える事が多すぎて、考えの廻らなくなっていたそのときの私は、いささか早口で言葉を続けました。

「ノノウや『草の者』たちが揃ってみな彼の者ほどに足早で、しかもその網が強く強固であるのなら……当たり前の連絡(つなぎ)であれば、おそらくノノウや『(忍者)』の方が恐らく速いかと。されど……」

「されど?」

()()()()()()()()()が、思いもしない程に大きければ、正規の御使者とて死に物狂いで馬を走らせることでしょう。その速さは、あるいは『草』を追い抜くことがあるやもしれませぬ。
 ですから、場合による、と」

「事の、大きさ、か」

 父は言葉の一つ一つを、それぞれ絞り出すようにして言い、瞑目(めいもく)したまま天を仰ぎました。
 このような勿体(もったい)振った有様を見せつけられますれば、幾ら鈍い私でも、父の所に来た連絡の内容が、実は相当な大事であったのだろうと察することが出来ます。
 己が頼みとする叔父・頼綱に総てを開かすことができず、不肖(ふしょう)(せがれ)にもそのまま告げることが出来ないような一大事です。
 私は足りない頭で精一杯の問いかけをいたしました。

「速く届いた知らせが、必ずしも正しい知らせとは限らないのではありますまいか?」

 そのようなことなど父は重々承知でしょう。それでも私は言わずにおれなかったのです。

「正しくなければよいが、な」

 父は大きく息を吐き、眼を見開いて、天井を睨みました。
 私は不安に駆られました。そして何故か、このまま父を沈黙させてはならない、そんな気がしたのです。

「正しいとご判断なさるに足る知らせで御座いますか?」

「むしろ、有り得ぬ知らせだな」

「ならばそれほど御懸念(ごけねん)なさらずとも宜しいのでは?」

「ここが、な……」

 つい先ほど、顎の辺りを撫でた右手の、骨太な親指が、胸板の真ん中当たりを突き刺すようにして指し示しました。
 父の唇の端がくっと持ち上がりました。笑っています。
 しかし、目は、眼は、暗い色をしておりました。
 いいえ、決して落ち沈んでいたのではありません。
 遠い暗雲の中の雷光のような、暗い、恐ろしい光を放っていたのです。
 心の大半では、大事が起きるのを楽しみに待っている。そして残った僅かなところで、平穏無事を願っている。
 人の心という物は、なんとも複雑な代物です。
 私は父の前に膝行(しっこう)し、その暗く光る眼を見つめ、思い切って尋ねました。

「どのような知らせで?」

「儂がこの()()()()を、人に開かすと思うか?」

 父は弾けるように笑いました。

「身方にも(せがれ)にも明かさずに、()()()()になさりまするか?」

 私が()ねた声で尋ねますと、父は笑声をぴたりと止め、

「菊の嫁ぎ先を決めたなら、真っ先にお前に教える」

 渋皮を貼ったような顔で言ったものです。


 さて――。
 私が岩櫃に戻りますと、垂氷(つらら)が出迎えてくれました。いえ、出迎えたと言うよりは、待ち構えていたと言った方が良いかも知れません。
 その時の私といえば、情けなくも、できれば直ぐにでも寝てしまいたいと弱気になるほどに疲れ切っておりました。ところが、垂氷(つらら)は私の都合など知らぬ顔で、

()()()()()()()は、血の氷った鬼のような方ですね」

 口を尖らせました。

「大叔父殿が、なにかなされたか?」

 垂氷(つらら)の顔には、そう尋ねろ、と、書かれておりました。

「戻ってお見えになるなり、
『沼田だ。急ぐ。換え馬』
 で御座いますよ。それで、沼田からお連れになって、ここで御休息なされていたご家来衆の襟首を掴んで、まるで荷物のように無理矢理馬に乗せて……」

「ここを出立するときに、私を馬に乗せたように、か?」

「はい、先刻若様にそうなされたように、です」

 私の疲れ切った脳髄(のうずい)でも、大叔父のなさりようが、ありありと想像できました。

「それは……可哀相(かわいそう)に」

 呟いたその直ぐ後を追って、大きな欠伸(あくび)が腹の底から湧き出て参りました。

「本当にお可哀相でしたよ。丁度お茶を点じて差し上げた所でしたのに。まだ口も付けない内に、首根を掴まれて引きずって行かれて。本当に酷いお年寄りです」

 垂氷(つらら)のむくれた声が、なにやら遠くにから聞こえるような気がしました。
 私は首を横にして、

「違う。可哀想なのはあの者達ではなく、大叔父殿だ。父上から厄介ごとを頼まれて、その頼まれごとに急かされている大叔父殿が可哀相だ……」

 と言いました。
 いえ、正しくは「言ったつもり」でありました。

 情けないことに私は、首を横に振ったその途端に、耐え難い眠気に襲われて、途端、バタリとうつ伏し、そのまま夜が明けるまで、前後不覚に眠ってしまったのです。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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