家内安全

文字数 1,891文字

 私はこのいじらしい妹に何も言ってやれませんでした。その姿を見るのも辛くて(たま)りません。
 弱虫の私は顔を上げて、歩き出さずにいるもう一人の強情そうな武者を見ました。
 前田(まえだ)利卓(としたか)という老練(ろうれん)な武将は、

「うちの左近将監(さこんのしょうげん)は、(いさか)いを上州の中だけで抑えこむ算段(さんだん)でいるようだが、そう簡単には行かないだろうな」

 他人事(ひとごと)のように仰り、ふわっと微笑まれました。

「して、わが父には、どのように伝えればよろしいですか?」

 私の問いに対して、

()()()()()()()()()()かね?」

 慶次郎殿は少々意地悪そうな眼差しをされました。私は思い切って、申しました。

「いえ、北条殿との(いくさ)のことです」

 こう尋ねたと言うことは、つまり、織田信長の死のことなど我らは()うに知っている、と暗に打ち明けたことなります。
 慶次郎殿はわずかにも慌てることなどありませんでした。慶次郎殿も真田(われわれ)が影でコソコソと何やら動き回っていることなど、おそらくは承知だったのでしょう。
 それはつまり、滝川一益様もある程度はご存知であったに違いないということであるのですが、

「そういうことは、伯父御が考えることであるし、それなりの考えがあればそれなりの使者を走らせるだろう。どちらにせよ、儂のすることではないな」

 と慶次郎殿が仰せになったということは、滝川様は知っていて黙認、あるいは黙殺し続けるという判断をなさっておられるのでありましょう。

「では、慶次郎殿のなさることといえば?」

「なぁに、儂は戦しかできぬでな。儂はただ、目の前にいる敵を倒す。それだけしかできぬ、不器用者さ」

 その言葉には、湿っぽさは微塵(みじん)もありませんが、それでも何やら悲しげではありました。

「目の前の敵が、友であっても……倒されますか?」

 私は心中恐る恐る、しかしそれを出来るだけ表に出さぬようにして、そっと訊ねました。

「ああ、倒すよ」

 前田利卓は冷たく低く言いました。ギラリとした鍛鉄(たんてつ)(かたまり)が、音もなく風を切ります。

「敵になるのかね?」

 いつの間に鞘を払ったものでありましょう。繰り出された槍の穂先は私の鼻先を指し、その三寸先でピタリと止まっています。

「そういうことは、真田昌幸が考えることでしょうし、考えがあればそれなりの使者をよこすでしょう。どちらにしても、私が決めることではありません」

「だろうな」

 槍先が私の眼前からすぅっと消えました。
 尖った恐怖の代わりに、私の胸に満ちたのは、高らかな笑い声でした。腹の底から溢れ出た呼気で天地が割れるような哄笑(こうしょう)でありました。
 一頻(ひとしきり)り笑うと、前田慶次郎利卓は、ふっと息を吸い込み、真っ直ぐな眼差しで私を見つめました。

「ま、そういう時が来たなら、互いに正々堂々とな」

「はい」

 私はなぜか笑んでおりました。命のやり取りをする約定を交わしているのに、なぜか嬉しく思えたのです。
 恐ろしいことです。実に、恐ろしい。

「では、又な」

 そう短く言い残して、前田慶次郎は峠を下って行かれました。


 戦の只中(ただなか)へ、悠然(ゆうぜん)と。


「なんとも恐ろしいお人だな」

 いつの間にやら崖上から降りてきたものか、禰津(ねづ)幸直(ゆきなお)が私の背で、ポツリとこぼしました。

「そうだな。敵には回したくない」

 私は本心そう思っておりました。そして同時に、あの黒鹿毛(くろかげ)に向かって馬を突き進める自分の姿を、憧れに似た妄想に心震わせていたのです。

 そして、私たちも峠を下って行きました。上野へ背を向けて、血の匂いのしない方向へ……。


 さて……。

 その先の話は、又、別の折にいたしましょう。
 滝川の方々と北条の方々が如何様(いかよう)に戦い、そして滝川一益が如何様に落ちてゆかれたか……粗方(あらかた)のことは、あなた様もご存知でありましょうから。

 はて、解らぬ事が一つと仰せですか?
 厩橋(まやばし)の事、と……?
 ああ、私に命じられて於菊(おきく)を助け出しに向かっていったのに、付いてみれば目的の人間はとうに失せている城のみを目の当たりにすることとなった()()()()()のことですか。

 出浦(いでうら)盛清(もりきよ)のような種類の男からすれば、

「負けぬ戦での無駄足(むだあし)()みなどは、むしろ喜ばしきこと」

 といった具合で、

「まあ、それでも何もせぬというのはつまらぬものですから、ついでの事に、他の信濃衆がお預けになった証人(ひとじち)の皆様と、ちょっとした()()をいたしましたよ。行き先は無論、信濃でございますが」

 などと、やはりしれっとした顔で申したものです。

 もう一人のことは、と?
 それならばお聞きになる必要はございませぬのではありませんか。
 ええ。そうです。
 垂氷(つらら)がこのあと三ヶ月(みつき)ばかりは口も聞いてくれなかったというのは、言わずもがなのことでございます。


 まあ、つまり、そういうような次第だったのですよ。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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