砥石城

文字数 3,303文字

 私共の一族郎党は卯月(旧暦四月)の半ばに厩橋(まやばし)を出ました。
 父があらかじめ滝川一益様に申し出て……というか、むしろ「手を回して」とでも言い表した方が良い気がするのですが……皆で一旦は砥石(といし)まで戻り、その後各々が行くべき場所へ向かう、という道筋の許しを得ておりましたので、我々は列をなして砥石へ向かいました。
 山の麓では暑いほどの陽気でしたが、高い尾根にはまだ雪が残っております。山肌をひんやりとした風が吹き下ろしてくれば、寒ささえ感じました。

 上州(じょうしゅう)街道を鳥居(とりい)峠を越えて進み、真田郷(さなだのさと)を経てたどり着いた砥石の城は、小さな、しかし堅牢(けんろう)な山城でした。
 東太郎山(ひがしたろうやま)の尾根先の(みね)の伝いに四つの曲輪(くるわ)があり、これら全てを合わせて砥石城と呼び習わしています。
 細かく言えば、尾根の一段低い所を開いた場所が本城、そこから北側の出曲輪(でぐるわ)枡形城(ますがたじょう)、南西の山端には米山城(こめやまじょう)、そして、南の一番高い場所にあるのが砥石城となります。

「相変わらず退屈な城よな」

 矢沢(やざわ)頼綱(よりつな)大叔父(おおおじ)が六十の老顔を(ほころ)ばせて言いました。

 あれは|天文十九年((西暦一五五〇年))の事であったと言いますから、武田滅亡の|天正十年((西暦一五八二年))からさかのぼること三十と二年程昔ということになりましょうか。頼綱大叔父は信濃国衆の一人としてこの城においででした。
 村上(むらかみ)義清(よしきよ)殿の旗下として、武田と対峙(たいじ)していたのです。

 この頃、武田は信府(まつもと)小笠原(おがさわら)氏を攻め落とし、南信濃から中信濃を手中に収め、その勢いのまま北信濃まで手に入れようという勢いでありました。
 これに立ちはだかったのが、村上義清殿です。
 実を申しますと、その前年に義清殿は上田原(うえだはら)という地で信玄公を打ち破っています。
 この戦について語り出すと大変長くなりますので、ここでは詳しい話を申し上げる事はしないと致しましょう。ただ「武田は散々に負けた」とのだと、それだけをお心においてください。
 以前に大負けした村上殿との再戦である砥石城攻めは、信玄公にとって意趣返しのためにも勝たねばならない戦でありました。
 私の祖父・真田(さなだ)幸隆(こうりゅう)入道(にゅうどう)幸綱(ゆきつな)は、この頃にはすでに信玄公の旗下(きか)に有りましたが、他の一族の内にはまだ武田に帰順していない者も多くいました。
 その帰順しない者たちの筆頭というのが、矢沢の大叔父殿だったのです。

 大叔父は祖父の直ぐ下の弟でした。
 若き頃、とある()()()()()()に甲冑も着ずに飛び込んで行き、敵方を殲滅(せんめつ)させたといった……(あま)りにも無茶な……武勇を持つ人物です。
 この蛮勇とも言うべき働きを、上田の矢沢郷(やざわのさと)の領主で諏訪(すわ)(しん)氏の庶流である矢沢(やざわ)頼昌(よりまさ)殿が気に入り、養嗣子(ようしし)にと望まれました。こうして大叔父は、上野から甲州へ向かった真田の本家と別れて、信濃に残ることになった次第です。

 砥石での戦でも大叔父は()()()()()()()を上げられました。
 武田方が千余の人死(ひとし)にを出し、壊滅的な被害を被ったほどです。
 武田信玄は同じ相手に二度負けて、這々(ほうほう)(てい)で逃げ出す結果となりました。


「『といし』の『と』は、刃を研ぐ砥石の『砥』とも、戸板の『戸』とも書くが、どちらにしても切り立ったこの岩場を良くも言い表しておる」

 頼綱大叔父は砥石本城近くの崖から身を乗り出して山裾を覗き込み、

「この山の所為(せい)であの時の戦は退屈きわまりなかった。武田の兵がこの山肌に貼り付いた所へ、岩の一つ二つ蹴り落としてやれば事が済んだ。何ともつまらぬ戦であった。城が守るに良すぎて、我が武勇が発揮できなんだ。残念であったことよ」

 カラカラと笑いました。一歩下がった場所にいた我が父は苦笑いして、

「あの折に叔父御が存分に勇躍しておったなら、今の我らは此度(こたび)とは違う算段を立てねばならなんだろうな」

 ここで『今の我らは無い』と言わないのが父らしいところです。父としてみれば、例えどんな状況に陥ったとしても、真田の家は残っているのが当たり前のことなのでしょう。

 さても、武田相手に二度も大勝した村上義清殿ですが、その一年後にはこの城を負われました。
 戦闘の結果、ではありません。真田幸隆の調()()によって、です。
 祖父は砥石城の中に在った()()()()に内応させて城を乗っ取りました。

 どのような調略が有ったのか、私は知りません。
 父によれば、祖父はその話を三男であった父には直接口伝することがなかったというのです。それゆえに父は、(せがれ)である私にも「何も教えてやることができぬ」と言います。
 祖父から詳しい話を伝え聞いていたやもしれなかった父の兄たち、すなわち信綱(のぶつな)伯父、昌輝(まさてる)伯父も、私が(とう)になる前に長篠の戦で討ち死にしていますから、この筋から話を聞くことも適いません。
 残るは、調略された側である頼綱大叔父となりますが、

「なに、ちぃと兄者に(そそのか)されての。ま、幾らか味方に付く者を集め、あとは少し()()()()()()をしたまでのことじゃわい」

 程度にしか話してくれぬのです。
 ただ大叔父が「戦らしいこと」というそれを、小規模な戦闘だとは思えないのが不可思議ではあります。

 経緯はともあれ、祖父は砥石城を奪い取りました。そしてその褒美として信玄公は、砥石城をそのまま祖父に与えてくださいました。
 以降祖父はここを居城としました。あるいはこの城こそ真田家の本城と考えたのでしょう。
 後年、祖父が真田の郷に立て直した(やかた)ではなく、この山城で最期を迎えたのは、そんな理由からだと、私には思えます。

 我が父・昌幸はここで幼き日々を暮らし、七つの折に、直ぐ下の弟……つまり、私から見れば叔父である信尹(のぶただ) とともに、証人(ひとじち)として甲府へ送られました。

 ()わば、父にとってはここが故郷ということになります。
 だからこの度も、どうしてもここへ戻ってきたかったのでありましょう。
 新たな(あるじ)に仕えるに当たって、初心のある場所に戻りたかった。
 父は私などに心中(しんちゅう)を悟らせてはくれませんが、私が父のような生い立ちであれば、恐らくそうしたでしょう。

 ところで、「父のように」ではなく、「私として」生まれ育ったその頃の私は、父のように「生まれ育った所」に戻りたいとは思っていませんでした。
 私は甲府の武藤屋敷で生まれました。躑躅ヶ崎(つつじがさき)館で武田信勝公(太郎さま)に仕え、育ちました。
 ですから甲府は幼き日々を過ごした懐かしい場所です。帰りたいと思うこともあります。ですが、あの場所からやり直したいとは思えません。
 全く我ながら不思議なものです。

 砥石の城の物見(ものみ)(やぐら) に登り立てば、南には上田平(うえだだいら)を、北東には真田の郷を一望できます。
 南東の方角に目を転ずれば、北佐久(きたさく)の土地を眺めることもできます。
 西を流れる神川(かんがわ)が南に進んで千曲川(ちくまがわ)と合流している様子が見えます。

 私が四方を見回していると、

手狭(てぜま)、であろう」

 背後から声をかけたのは、父でした。

「兵も馬も武器も兵糧も水も、止め置ける量が少ない。山城はそこが不便だ。源三郎は、いかが思うか?」

 父は私の顔ではなく、眼下に広がる景色を遠く眺めておりました。

「不便というよりは、この城は位置が悪いと存じます」

 私は父の色黒で皺の深い、年相応以上に老けた顔を見ました。渋皮の付いた栗が石塊(いしくれ)になったような、固い顔つきをしています。

「そうか?」

「上田の平には近く、塩田(しおだ)の平が遠う御座います。あるいは、真田の庄に近く、川中島(かわなかじま)には遠い。
 上州沼田にはまだしも近うございますが、その先の甲州、振り返って信府(まつもと)、さらに申しませば諏訪(すわ)、木曽、あるいは、京の都には遠い遠い」

 私が地名を言うごとに、父の顔が歪んでゆきました。頬の辺りがひくひくと()れ、奥歯でギリギリと音をたてています。そして、目尻がじわじわと下がってゆくのです。
 京の都の辺りになると、父は堪えきれずに、弾けるように息を吐き出して、山が崩れるのではないかというくらい、大きく大きく笑いました。
 珍しいことです。
 腹を抱えて一頻(ひとしき)り笑い終えると、また渋皮顔に戻って、

「さても、源三郎は強欲よ」

「はて、私はただ『遠い』と申したまでです」

 私は空惚(そらとぼ)けて答えました。その土地が欲しいなどとは……例え淡い憧れのような思いはあったにせよ……一言も発していません。
 父は渋皮顔のまま、

「儂もなにがどう強欲とは言っておらぬぞ」

 口元だけ僅かに微笑させました。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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