碓氷峠

文字数 2,317文字

 我らが隊の先頭には、禰津(ねづ)幸直(ゆきなお)が付くこととなりました。
 我ら一団のうちで幸直のみは、農夫の装束の上に古びた腹当鎧(はらあてよろい)を着込み、頭に古びた鉢金を着け、柄糸のほつれた打刀を帯びておりました。
 その姿は、さながら戦場から落後して彷徨(さまよ)ったその果てに、僅かな(あわ)の粥を口にするのと引き替えに農夫の用心棒なったかのような、哀れな侍崩れそのものでした。
 幸直が好んでそのような格好をしたのではありません。私がその(なり)をさせたのです。
 その哀れな格好をした幸直を先頭に立てておいて、一応は将である私自身がどうしていたかといえば、隊の半ばの位置で、他の者の陰に隠れるようにしておりました。

 いや、どうかお笑いくだされ。
 袖丈(そでたけ)の合わない継ぎの当たった野良着(のらぎ)を羽織り、()(がさ)を目深に被って顔を隠し、ひょろ長い身を縮こまらせていた、情けない私を。

「我らの(なり)形は、まるきり、用心深い百姓がどこぞへ何やらを運ぶ風情そのもの、でございますな」

 幸直は不平を露わに口を尖らせました。

 その頃といえば、言わずもがなの戦続きの時世であります。
 直接戦場にならなかった村々にも、ある日突然侍共がやって来て、()()()などと言い、米も野菜も家財も、時には人さえも奪って行くようなことが、当たり前に行われておりました。
 物持(かねも)ちな百姓の中に、財産を別所へ避難させようとする者がおったのも当然でしょう。
 例え行き先が安全であっても、運ぶ途中で奪われては困ります。ですからそういった物持ちたちは、村の力自慢の者が戦に出ていなければ……大抵の男は農夫であると同時に地侍でありますから……その力自慢に荷を負わせ、そういった若者がいなければ、どこかの軍勢から逃げ落ちてきた「侍だった者」を雇うのです。

 そのことをよく知っているからこそ、私は私の配下に入った精鋭たちに、村から……(いくさ)から逃げ出そうとしている民の姿形を真似させたのであります。

「何か、不満か?」

 私は幸直のふくれ面に尋ねました。

「誰であれ侍ならば、落人(おちうど)牢人(ろうにん)の姿など、嘘でもしたくありませんよ」

 幸直が言うのは当然のことです。誰しも敗残兵(おちうど)などにはなりたくありません。
 大体、この時の我らと申せば、そうなりたくないが為に、必死を持って碓氷峠へ向かおうとしているのです。

「私も願い下げだよ」

 だからこそ小狡(こずる)い私は農夫のフリをしているのです。幸直は四角い顎を突き出して、

「ご自身がなさりたくないことを、()()()()にはさせるのですな」

「ああ、させる。済まぬな」

 私はぼろきれで覆った頭を下げました。幸直は私が、つまり(あるじ)家人(けらい)に平身到底する様子に、まるで驚きもせずに、

「謝られても困りまする。……と申しますか、若はいつでも誰にでも頭を下げればよいとお思いのようですが、それで大将が務まりましょうか」

「さあて、どうであろうな」

 私は自信なく言いました。本当に自信がなかったのです。幼い頃から兄弟同然に過ごした幸直の前では、どうにも本心を隠すことが出来ません。
 幸直は大きく頭を振り、息を吐きました。

「しかし、まあ……。若が侍でない格好をなさっても、まるで似合わぬことで」

「そうかな?」

「百姓の気骨(きこつ)が感じられませぬ」

「うむ。私は弱虫だからなぁ」

「全く、若は昔から物知らずで臆病で泣き虫の(ずる)虫であられるから」

「そうと知っているなら、文句を言うなよ」

「それがしは若に輪をかけた臆病者。若に向かって文句など、口が裂けても言えません。これは独り言です」

「よう聞こえる独り言だな」

「若が耳聡(みみさと)いだけです」

「そうか。しかし、お前も私の独り言が聞こえたらしいから、私以上に耳がよいのだろう」

「あれは独り言ですか?」

「ああ、独り言だ」

左様(さよう)で」

 それだけ言うと、幸直は突き出していた顎を引きました。
 私と幸直のやりとりは、さながら素人狂言(きょうげん)のようだったことでしょう。
 農夫の(なり)をした屈強の侍達は、肩を揺らして笑いを堪えておりました。
 それでも、

「では、参りましょうぞ」

 先導の幸直が号するのと同時に、皆笑うのを止め、静かに荷を担って歩き始めたのです。


 先導は信濃を指して行きました。上州の側には滝川様方の方々も武田遺臣の者もいるのです。そういった顔見知りの方々に、ばったりと出会ってしまわぬ為の用心です。
 戦に(おび)えきったこの()()が、実は真田昌幸の倅・源三郎信幸であると云うことがすぐに知れてしまっては、私が困りますから。
 だからといって道なりに進んで信濃に入ってしまっては、我々の顔をもっと良く知っている者達――例えば、それこそ真田昌幸であるとか――そういう方々に出会ってしまいます。
 ですから信濃の方向の、山の中に分け入ったのです。
 そうして我らは山の中を進みました。
 本筋の道ではありませんから、歩きづらいことはこの上ありません。もしも鎧など着込んでおったなら、すぐに息が上がってしまっていたことでありましょう。

 私達は……というか、私という一人の小心者は、ちいさな物影が動くにも木の葉が擦れる些細な音にもおどおどと怖じ気づきながら、歩みました。
 ところが、道行きには火縄の臭いも、血の臭いも、死人の臭いもないのです。
 これから戦へ向かおうという軍も、戦場から逃げ帰ってきた人々も、()()山賊(さんぞく)の類に()ちた者共にも、出会うことはありませんでした。
 私は安堵しましたが、(ほとん)ど同じくらい拍子抜けも感じたものです。
 わざわざ装いを変えた用心は――山道が(こと)の外歩きやすく、道行きが思ったよりもずっと(はかど)った以外は――ほとんど無駄と云ってよいものでした。

 こうして、運良く――いえ運悪しく、と行った方が良いやもしれません――私達は本当に何事もなく、無事に碓氷峠(うすいとうげ)へとたどり着いたのです。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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