ノノウ

文字数 3,710文字

 私と源二郎、頼綱大叔父は、砥石城に着いた翌日には、それぞれ岩櫃(いわびつ)、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。
 末の妹の於菊(おきく)は、滝川様が厩橋(まやばし)の御屋敷を整える都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。
 恐らくは、於菊を手放したくない父の「手回し」があったのでありましょう。

 私が入ることになった岩櫃城には、山城には似つかわしくないほどに立派な作りの館がありました。父がここに武田勝頼(かつより)公をお迎えする腹積もりで築いたものです。ご存じのとおり、御隠居様(勝頼公)御屋形様(信勝公)も甲州天目山(てんもくざん)にて御自害あそばしましたので、真新しい居館はしばらくの間は主のない状態でありました。


 私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことでした。
 信濃巫(しなのみこ)であるとか、()()()などと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月(もちづき)千代女(ちよじょ)殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねて参られました。

 ノノウはご神体を携えて各地を遊歴(ゆうれき)して、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷(きとう)をしたり、あるいは死者や神仏の口寄(くちよせ)せをするなどして働きます。
 巫女と言いましても、ノノウ達は特定の社寺に属しているのではありません。確かに、信濃巫女とは諏訪(すわ)明神の巫女という事になっております。御諏訪様の信仰を広めるという()()ではあるのですが、実際に諏訪大社まで出向いて修業を行った者は少ないでしょう。
 あるいは祭神である建御名方神(タケミナカタノカミ)八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)の夫婦神、と洩矢神(モレヤシン)御射宮司神(ミシャグジさま)の区別も付かない者もおるかもしれません。
 神事を執り行えぬ者たちは、田楽(でんがく)を舞い、傀儡(くぐつ)を操るといった、旅芸人に近いような事を行うことがあります。あるいは神仏に仕えるのではなく、初穂料を頂戴して男衆に()()()()()()()()ような事をする者達もないではありません。

 さて、望月千代女殿はそのころ四十歳を少し過ぎておいでだったでしょうか。白髪の多い、ふくよかな、品の良いご婦人でありました。元は武田信玄公の外甥(そとおい)でもある望月(もちづき)盛時(もりとき)殿の奥方であられました。
 夫の盛時殿は、永禄四年(西暦一五六一年)の「八幡原(はちまんぱら)の戦い」とも呼ばれる、()()()()()()()()()()()でお亡くなりなっておいでです。寡婦(かふ)となられた千代女殿に、信玄公は「甲斐(かい)信濃(しなの)二国(にこくの)巫女(みこの)頭領(とうりょう)」の任を与えられました。

 以降千代女殿は、信濃国小県(ちいさがた)禰津(ねづ)村でノノウの修練場を営んでおられました。
 千代女殿の巫女道修練場には常時二~三百の女衆が居り、修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟や夫を失った女性(にょしょう)達でした。なんでも、農家の娘も、商家の娘も、武家の娘も、富貴(ふうき)の家の者も、貧賤(ひせん)の家の者も、入り交じっているといいます。

 私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。
 まだ十にも満たない童女から、三十を過ぎた年増まで、様々年頃の女がいました。
 女衆は、大きな神社の巫女が着るような「一重(ひとえ)緋袴(ひばかま)」といった出で立ちではありません。それぞれに違った、様々な色柄の丈の短い小袖(こそで)を着、足下は脚絆(きゃはん)を着けております。
 膝下から足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、私には妙に(なま)めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、千代女殿に向かって、

「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」

 うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。
 千代女殿は娘達を一瞥し、

「修行の足りない者ばかりで」

 気恥ずかしげにと頭を下げられました。流石に女衆も神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。

「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。女性(にょしょう)の笑顔は、男の心を開かせる力を持っておると聞き及びます。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。
 ……ああ、今私も危うく余分なことを言いそうになった」

 私が言いますと、千代女殿は誇らしげに頬笑みました。

 甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がその妻となったのも、千代女殿自身の忍びの術がすこぶる巧みであったためだと聞き及びます。
 忍びの達人たる千代女殿の教えが、加持祈祷(かじきとう)呪術(まじない)薬石(やくせき)医術による治療、神に捧げ人を(ひき)き付ける歌舞音曲といった、巫女としての技術知識に留まる筈がありません。
 己が身を守るための武術を学び、並の男共と渡り合っても生き残れるほどの腕前となった者もおります。
 他の歩き巫女のように、夜に男の閨房(けいぼう)に入る者もおります。しかしその房中術(ぼうちゅうじゅつ)と言えば、ただ男を喜ばせて小銭やその夜の食事を手に入れるためだけのものではありません。彼女らのそれは、男共を籠絡(ろうらく)し、操り、情報を引き出すための術です。

()()の若様……いえ、今は()()の若様であられましたな」

 千代女殿は丸い顔を(ほころ)ばせました。
 私が……というか、父が武藤姓を名乗っていたのは、天正乙亥(西暦一五七五年)の長篠の戦の後までです。あの時分でもはや七年も昔から真田姓に戻っているのですが、千代女殿にとっては私は何時までも()()()()()()()()()()だったのでありまでしょう。

()()()()()の本心を聞き出す機会を(いつ)したとあれば、残念なことでありまする。若様も殿様も、真田の皆様は皆、中々に腹の奥底を見せてくださいませぬ故」

 千代女殿は元々細い眼を針のように細くなさいました。
 私は苦笑いして、

「父は元より、私も不誠実ですか?」

「さても……。腹の扉の開閉を己の一存で決め、誠実と不誠実の両方を使いこなすのが、今の世では良い侍ということでありましょう。若様はお父上に似て、良い侍であると言うことで御座いまするよ」

「それが信濃巫女の頭領が降されたご神託とあれば、有難く受けましょう」

 私は土地神の社殿に詣でる以上に深く頭を下げました。

「『神託』はまだ他にも御座いまする」

「それは父も聞いた『お告げ』ですか?」

 私が訪ねますと、千代女殿はこくりと頷かれました。

「真田の殿様は、武田の御隠居様(勝頼公)亡き後、身の置き所に不自由しておりました我らノノウを庇護(ひご)してくださるとの事で御座います由に。殿様の求めがありますれば、我らは何時でも神懸かり、言葉をお告げいたしまする」

 遠回しな物言いでした。
 千代女殿とその配下のノノウ達が、我が父の命を受けて、「(くさ)(ばたら)き」つまり忍者の役目をしてくれている――ということをそのまま言うのは、例え()()()()の中であっても、まだ(はばか) られるのです。それほど真田の立場は不安定でした。
 先ほどの私の問も、真意は『父も』ではなく『父から』であり、『お告げ』ではなく『指図・命令』を意味しています。

 千代女殿は笑顔を崩さずに、

禰津(ねづ)村から優れた者を選んで連れて参りました。後は各地に散っております特に腕の良い者達にも連絡(つなぎ)を付けております。あれこれ合わせれば百に少し足りない程の人数になりましょうか。
 ……とまれ、本日連れて参りました内の(とう)ほどは、砥石におわす殿様のご要請にて、砥石のあたりを中心にして歩き働く事になっております」

「では残りの衆は何処へ向かわれましょう?」

「さて、近いところで善光寺、甲府、沼田、小田原のあたりですね。私は草津のお湯にでも浸かろと思っておりますよ」

「遠いところでは?」

「諏訪のお社に『御札』を取りに参った者もおりますし、脚を伸ばして木曽の御岳(おんたけ)様、岐阜の伊奈波(いなば)神社。伊勢の神宮へ『祈願』に向かった者もおります。
 何分にも、あのあたりの『御札』は『法力』が強うございますから……。
 出来ますれば、北野の天満(てんまん)さまや厳島(いつくしま)本宮(ほんぐう)讃岐(さぬき)琴平(ことひら)さま、宇佐(うさ)八幡(はちまん)さま辺りまで行きたいものです」

 この千代女殿の言葉は、即ち、
『ノノウ達はすでに、関東から信濃、そして岐阜美濃に進入し、京の都や芸州、四国、九州あたりにまでその「網」を広げようとしている』
 ということを意味します。
 父は砥石の山頂に座したまま、上杉殿の情勢、北条氏の情勢、関東に残られている滝川様の動き、南信濃の国人の動向、そして織田様の事を知ることが出来るのです。さらには山陰山陽、南海四国、西海九州まで見て通そうとしています。
 あの時、「砥石の城は京に遠い」と言っただけの私のことを強欲者と笑った父ですが、なんの、私などよりもずっと欲深なことでありましょうか。
 私は貪婪(どんらん)な父が無性に羨ましくなりました。父が得る事柄を私も知りたいと、猛烈に感じました。
 そこで、

「この辺りにも()()()()()が居るので、幾人かこちらを回って貰いたいのですが」

 千代女殿に遠回しに私にも情報網の一角を握らせて欲しいと頼んでみました。

「もちろん、元より幾人かこの郷を回らせるつもりでございますれば。
 それから一人は若様の武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈祷をする役目に、このお屋形に留めおけという『神託』が、高いところから降りました故」

 千代女殿は手を捧げ挙げ、天を仰ぎました。

「なるほど『神様』は何でもお見通し、と言う訳ですか」

 真田昌幸という「神様」には到底敵わない――願いが通じたというのに、私は少々口惜しく思ったものです。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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