三十郎

文字数 3,687文字

 前田慶次郎殿が、()()()()殿()()や滝川一益様にどのような進言をなさったのか、正確なところは判りません。
 進言の如何も、その進言の可否も、私には判らぬことですが、ただ我が家の者どもの行き先について、先方から細かい指示が出されたのは確かなことです。
 真田昌幸、即ち我が父と主立(おもだ)った家臣達は、希望通り砥石城(といしじょう) へ移ることとなりました。すなわち、妻子を伴っての「帰還」が許されたのです。

 父は、女衆(おんなしょ)と子供たち、つまり、私の弟たちうちでまだ元服していなかった左馬助(さまのすけ)内匠(たくみ)、それから私の同腹(母親が同じ)の姉にあたる長女の(くに)異腹(母親違い)の姉の(てる)、妹の(らく)(きよ)、そして末の妹の(きく)を連れて砥石(といし)へ行くこととしました。
 亡き祖父の弟、つまり私から見て大叔父(おおおじ)にあたる矢沢源之助頼綱(よりつな)は、滝川義太夫(ぎだゆう)殿の下について沼田城へ入ることとなりました。
 矢沢の大叔父殿は家中でも一番の武辺者でありました。滝川様としては()()を真田の本体から切り離し、且つ、万一の時の証人(ひとじち)とするおつもりだったのでしょう。

 証人は大叔父殿だけではありません。
 (くに)姉は、遠く安土(あづち)まで(おもむ)くことになりました。
 姉は私より一つ年上でありましたが、父などは、

「国が男であったなら、どれほど頼もしいことか」

 と、嫡男である私の前でしみじみと言うような度量の持ち主でしたから、これをただ一人、遠く織田公の元へ送ることに、何の心配もしておりませんでした。
 これを不安に思うていたのは、国姉や私や源二郎の生みの母と、国姉の新婿(にいむこ)、つまり先年私の義理の兄となったばかりの小山田(おやまだ)六左衛門(ろくざえもん)茂誠(しげまさ)の二人のみでありました。
 ことさら、茂誠は不満顔でありました。新妻と離ればなれになることが、辛かったのでありましょう。

 いいえ、茂誠が臆病であるとか意気地がないなどということは、決してありません。
 あの頃よりも半月ほど前の高遠(たかとお) の戦で、義兄(あに)の父親の備中守(びっちゅうのかみ) 昌成(まさなり)と叔父の大学助(だいがくのすけ)とが討ち死にしていたのです。
 そのため義兄(あに)が家族親族と呼べる者は、ほとんどこの新妻一人となっていました。それと引き離される事に易々(やすやす)と同意できようはずがないでしょう。
 しかも備中守、大学助を自刃(じじん)に追い込んだのは、織田の大殿様の嫡男の岐阜中将(ぎふちゅうじょう)信忠(のぶただ)様でありましたから、いわば親の(かたき)の元に妻を送り出すという形なのです。
 自分も妻と共に行く、と言って聞かない義理の息子を、その若さと優秀さから己の手元に置いておきたい父は、説き伏せるのに苦労をしたようでありました。

 そして、源二郎(げんじろう) 信繁(のぶしげ) は――いや、実のところ、まだそのころの弟はその輩行(つうしょう)(いみな) も名乗っておらず、もっぱら弁丸(べんまる)と呼ばれ、また自身もそのように称しておったのですが、話がややこしゅうなりますので、源二郎の名を持って語らせて頂きます――()()は遠く南の木曾(きそ)義昌(よしまさ)殿の元へ行くことになりました。
 父は口に出すことはしませんでしたが、源二郎を出すことに反対だったようです。
 木曾殿を嫌っていたためです。

 木曾殿は元々武田と敵対する勢力でした。
 いいえ、木曾殿に限りません。信濃国衆は大抵が武田勢と敵対していました。
 武田信玄公が版図を広げるために信濃へ攻め入ってきたから、というのがその理由です。
 木曾殿も当初はこの強大な()()()と戦っていました。しかし、圧倒的とも言える武力差を見せつけられ、勝つことよりもお家存続と所領(しょりょう)安堵(あんど)を優先してお降りになり、その麾下(きか)に組み込まれたというわけです。

 その後、義昌殿は信玄公の下で数々の武勲(ぶくん)をお立てになりました。
 やがて信玄公の姫君と(めあわ)せられ、ご一族衆に名を連ねるに至ります。
 ここまでの経緯は、我が真田家も似たようなものです。……ま、木曾殿の方が元の家勢も後のご身分も上ではありますが、それは置くとして……。
 真田の家も、私には曾祖父(そうそふ)ということになる頼昌(よりまさ)の頃までは東信濃の小県(ちいさがた)の小豪族として、武田家と争っておりました。
 その結果、わずかばかり持っていた所領を失いました。祖父・幸綱(ゆきつな)は信濃から逃げ出すという屈辱を味わいましたが、そのお陰で家名が残ったのは幸運でした。しかし祖父は一族を連れて関東を放浪することとなります。
 放浪の果てに祖父は信玄公に仕えることを決めました。それが失地回復する最も良い手段と考えてのことです。

 祖父の考えは正しかったと言うより他にありません。
 信玄公の元で存分に働かせていただいた御蔭で、真田の家は旧領を含む小県(ちいさがた)郡を得ることが出来たのです。
 私の父は一時、信玄公のご母堂(ぼどう)系譜(けいふ)である武藤(むうとう)の姓を与えられました。後に私の母になる女性(にょしょう)を妻に迎えるにあたっては、一度信玄公が養女となさいました。
 信玄公は父を外様の信濃国衆ではなく譜代の甲斐衆の一員として扱ってくださったのです。
 父も存分に働きました。旧領の上に上州の沼田領を得るに至りました。

 いやいや、いまは我が家のことなどはどうでもよろしいことです。木曾殿の話をさせて頂きましょう。

 信玄公がご存命の頃は、木曾殿も他家へ走ろうなどとは寸毫(すんごう)ほどもお考えにならなかったことでありましょう。

 しかし、木曾殿の本領は甲府を遠く離れた木曽谷であり、美濃との国境でした。
 目の前に織田の軍勢が見える場所です。
 ですから信玄公がお亡くなりになり、まだ年若い勝頼公が家督をお継ぎになられることによって、武田の勢いが弱くなるという不安に取り憑かれたに違いありません。
 武田の後ろ盾がなくなれば、織田軍攻めてくる。そうなればまたしても領地を失う。
 領地を失った侍ほど哀れな者はありません。我々は自ら耕すことも獲ることもしませんから、領地から得られる収入が無くなれば、飢えて死ぬより他にないからです
 勝頼公から無理な城普請(しろぶしん)を命じられたことも、応じればご自身の国力が削がれるという不安にを大きくさせたことは、想像に難くありません。
 木曾殿は勝頼公ご存命の内に、織田様に下られました。
 対織田の最前線であった木曾義昌殿が「()()()()」がために武田は滅んだ、と申しても過言ではないでしょう。

 ですから、父は義昌殿をあまり好いていないのです。
 と言っても、義理の弟でもある主君を売ったという不忠不幸が理由では、恐らくないでしょう。親子兄弟、あるいは主君と家臣が、時に敵対し、騙し合い、あるいは殺し合うことは、哀しいかな()()()()()()です。
 父も必要とあれば、親族を出し抜き、主家を陥れ、戦って討ちとることを躊躇(ちゅうちょ) しないでしょう。

 実際この度の戦が起きる前、父は水面下で織田様や北条家と()()していました。
 勝頼公には信濃へ落ち延びるように注進し、その準備を進めながら、同時に、織田様や北条家に文と名馬を贈っています。
 それが功を奏して、我々は織田様の旗下で命永らえています。

 そんなわけですから、父が道徳的な理由で木曾殿を嫌っていることは考えられぬことです。
 勝負をする前に勝負を投げ捨てて逃げたのが気に入らない、というのが本音でありましょう。
 ただし、これは私の想像です。
 父は何も言ってくれませぬでしたので、本当のところは判りません。
 判りませんが、私の想像が大きく的を外しているとは思えないのです。

 理由はどうあれ、父は源二郎を木曽へ送ることを渋ったのです。しかし拒否することが出来ないことは判っています。
 そこで、

()()(いまだ)若年(じゃくねん)(ゆえ)に」

 と理由をこじつけて、矢沢頼綱の嫡子で、父からすれば従兄(いとこ)、私から見たなら従伯父(いとこおじ)である三十郎(さんじゅうろう)頼康(よりやす)を同行させることを先方に同意させました。

 三十郎伯父(おじ)が随行者に選ばれたのは、いざと言うとき、包囲網を突き破って逃げ出すためでありました。必要とあらば、血路を開くことも(いと)わず、です。

 三十郎伯父は父よりも二歳ばかり年上なのですが、初見でそうと解る人はまずいないでしょう。
 この人は恐ろしく若く見えるのです。
 例えば、私が「少し年の離れた兄」と言ったとして、おそらく誰も疑うことがないに違いありません。

 そういえば前田慶次郎殿も「若く見える」方でしたが、慶次郎殿の若さは、申してみれば「若武者のように見える」若さでありました。
 他方、三十郎伯父の「若く見える」は、慶次郎殿のような頑強(がんきょう)な若々しさではありません。
 幼顔で柔和な相貌(かお)で、体つきはすらりと細く、物腰も穏やかなものですから、一見すると文人か公家(くげ)のようにも見受けられました。
 そんな若輩の文人風、悪く言えば、末生(うらな)りの青二才じみたその風貌(ふうぼう)が、三十郎伯父の強力な武器となるのです。

 馬上で三尺三寸五分の野太刀(のだち)を振るう剛の者であることを覆い隠すことが出来るのですから。

 三十郎伯父は家中でも三本の指に入る剛の者で――因みに申しますと、三本指の筆頭は、先にも挙げまたとおりに、頼綱大叔父でありますが、三十郎伯父はその器量の御陰で「筆頭」の陰に(かす)んでいます。
 ええそうです。わざと霞ませているのです。「敵対者」の警戒からは真っ先に外れるようにするためです。

 思惑通り、織田様のご家中からも、三十郎伯父はさほど警戒されませんでした。むしろ当主の血縁者である人質が二人に増えるというので、先方からは反対意見が出ませんでした。
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登場人物紹介

真田源三郎信幸

この物語の語り手。

信濃国衆真田家の嫡男。

氷垂(つらら)

自称「歩くのが得意な歩き巫女」


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