おもてなし
文字数 3,492文字
蒸し暑さを感じて目が覚めたのは、その翌日の、未の下刻 を疾 うに過ぎた頃でありました。
無論、目覚めたその時に時刻が判ったわけではありません。後から家人 にそう知らされたのです。
そう。当家の家人からです。
目覚めた私の頭の下には、慣れた高さの枕があり、目の前の高みには見慣れた天井がありました。
岩櫃 城内の自室であります。
合わない鉢金 を無理矢理かぶせられている気分でした。喉の奥には鑢 をあて損ねたかのような、気色の悪いざらざらとした感触があり、胸の辺りは焼け付くようでした。
私が上体を漸 くのっそりと起こすと、
「まこと若様と来たら、肝心なところで無様 でおいでで」
垂氷 の嗤 う声が聞こえました。
いいえ、確かに嗤 っておりました。当人がどう思っていたのかは知れませんが、私にはそう聞こえたのです。
怒鳴りつけてやりたくなりました。
実際そうしようとしたのです。
ところが、酷い宿酔 の体はこれっぽちもいうことを聞きません。重たい瞼 をどうにか細々と開いて、生意気な娘を睨むのが精一杯でした。
その精一杯の怒りを露わにしたはずの顔を見て、あの娘と来たら、
「まあ、酷いお顔」
うっすら笑うのです。こちらが苦しんでいるのを見て、
「ご酒 が苦手でいらっしゃる?」
などという言葉の、その言い振りがまた、人を小馬鹿にしている……ように聞こえたのです。はい、そのときの私には、です。
「お前は一斗の酒を開けても真っ当にしておられるのか」
厭味 とも愚痴 とも取れぬ、言い訳じみた物を言ってみましたところ、
「さて。一度に一斗を呑 んだことがございませんので、判りかねます」
そう言って垂氷 は、茶碗を寄越しました。
「ですが、二日酔いにはこ れ が良う効くというのは、存じておりますよ」
茶碗の中身は、何やら甘い臭いのする茶色のモノでした。
「何だ?」
「『玄 の実 』を煎 じたものでございますよ」
「玄の実?」
「偉い医者殿などが申しますところによれば、キ グ シ とかいう、私などには良く判らない名前の薬と言うことになりますが」
「キグ……? ああ、計無保乃梨 か。妙な形をした実のなるあれだな。実は小さいが、喰うと中々に美味 い」
「まだ今年の実はなっておりませんよ。そろそろ花の咲くころかと」
垂氷 が突出 し窓を開けますと、良い風がふわりと流れ込みました。
しかしこの時の私の体は、清涼な風ぐらいでは癒 されぬほどに消耗しきっておりました。ことさら、焼けるが如き喉の渇きは酷いとしか言いようのないものでありました。
正直なところを申さば、水けのものであるならば、薬湯 でも煮え湯でも何でも構わぬから、とにかく一息に飲み干したい心持ちであったのです。
しかしわずかばかりではあるものの自制の心は残って負ったようです。薬湯を呷 るように飲むのは大層品のない事のように思われ、少しずつ、舐めるようにして喉の奥へ流し込んだのです。
後から思えば、いかにも小心者といった風の、情けない有り様でした。
その様を見つつ、垂氷 は、
「若様は、物知りなのですねぇ」
などと言いながら、口元を袖で隠してニンマリとまた嗤 うのです。
ええ、まあ、確かに口元は見えませんでしたが、目が、嗤っていたのです。
「厭味 か?」
私は言葉と言葉の間に薬湯をすすり込んでおりました。
そこへ氷垂 が、
「いえ、いえ。本心、感心しております。前 田 様 も大層お褒めでしたよ」
途端、私の口から薬湯が噴き出ました。
湯量の多い温泉場の湯の口から湯が噴きこぼれるように、勢いよく、盛大に、です。
「それは慶次郎殿のことか?」
言い終わる前に、私の両の鼻の穴から薬湯の鼻水があふれ出たものです。
その薬臭い鼻水をすすったものですから、今度は咳き込み、息を吸うことも出来ずに、私は布団の上で悶 え転げ回ったのでありました。
私の大仰 なうろたえ振りに、こんどは垂氷 のほうが驚いて大慌てとなりました。
何やら悲鳴じみた、言葉なのか叫びなのか判然としない声を発しつつ、あたふたと飛び回り、手拭らしき物を私の手元へ投げ寄越し、自分は直ぐさま私が部屋中にまき散らかした薬湯を雑巾かなにかで拭いて回りました。
しばらく経って、私の咳がどうやら治まった頃合いに、
「若様を背負っておいでになった、背の高いお武家様は、前田宗兵衛 利卓 、とお名乗りでした」
上目遣いに私を見て、おずおずと申したものです。
私は喉の奥から、
「うあぁ」
といった具合の、奇妙な呻き声が湧いて出ました。
情けなく、惨 たらしく、恥ずかしく、面目なく、申し訳なく、勿体 なく、私は薬湯の染みた掻巻 に突っ伏しました。
「もしかしてあの方が、お手紙の主の『慶』様で?」
後ろ頭の上から、垂氷 の声が降って参りました。
私は突っ伏したまま頷 きました。顔を上げることなど出来ましょうか。
「もしかして、もしかしますると、あの御方はとてもお 偉 い 方 、だったりするのですか?」
幾分か不安の色が混じる声でした。
私は伏したまま、どうにか顔を横に向けて、チラと垂氷 の顔を盗み見て、小さく頷いて見せました。
「関東管領・滝川左近将監 様の甥御 に当たるお方だ。ついでに申せば、能登 七尾 城主の前田又左衛門様の甥御でもある」
本来ならば、身を正してきちんと説明すべき事柄なのですが、この時の私には体を起こす力を絞り出すことさえできませんでした。
「つまり、偉 い 方 、と言うことですか?」
垂氷 が目玉を剥いて尋ねます。
「つまり、偉 い 方 、と言うことだ」
私が答えますと、垂氷は小首を傾げ、眉根を寄せました。
「それで、あんなご立派な馬に乗られて、良いお召し物をお召しであられたのですね」
「お前は外見で人を量るのか?」
私は少々呆れて申しました。垂氷 は激しく頭を振って、
「あの方がご自身で『厩 よりの使いにござる』と仰せになったのですよ。ですからてっきり、厩 橋 に御屋敷のある、偉いお家の馬丁殿かと思ったのです。下人に至るまで絢爛 な装束をまとえるほどに立派なご家中の……」
私は呆れ果てつつ申しました。
「馬糞 を片付けるのに、わざわざ錦 をまとう莫迦 は、どんな高貴なご身分の方の家にもおらぬ」
しかし言う内に、果たして本当にそうであろうか、と不安になったのです。
何しろ「厩の宴」の最中に、世の中とは誠に広く、己とは誠に小さい物である、ということを、強 かに思い知らされたばかりです。美しき衣を纏って飼葉を運ぶ者が、あるいはこの世のどこかに居るやも知れません。
ですから私は言い終わった後で、小さく、力なく、
「……恐らくは……」
と付け加えました。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか知れませぬが、垂氷 は拳を握り天を仰いで、
「この垂氷 めとしたことが、一生の不覚で御座います!
あの方が若様の大切な『慶』様であると気付きもせぬとは。そうであると知っておりましたなら、もっと良くお 持 て な し をしましたものを。
それなのに面 を良く見ることもな し に!」
言い終えると同時にガクリと肩を落として項垂れました。
それは、あからさまというか、白々しいというか、大仰というか、鼻に付くというか、ともかく下手な地回りの傀儡 使いの数倍も下手な演技と見えました。
こちらが面白がるか、あるいは、気付かずに呆けるのを待っているのが透けて見えるたのです。
私は不機嫌でした。
自分が情けなくてなりませんでした。
慶次郎殿にお掛けした迷惑が申し訳なく、それを詫びに行こうとか取り繕おうとかするために身を起こす心持ちになれないことが不甲斐なく、どす黒い吐き気と頭痛とを取り払うことも出来ず、怠惰 に悶々 と布団の中に居る己に、不機嫌を募らせていました。
ですから、素直に笑ってやることも、素直に無視してやることも出来なかったのです。
「お 持 て な し と面 な し を掛詞 にしたか。ああ、面白い、面白い。笑うた、笑うた」
私は野茨 の棘 の如くささくれ立った言葉を垂氷 に投げつけると、掻巻 を頭まで被りました。
薄い真綿 の向こうで、垂氷 は笑っておりました。
「面白うございましたか?頂上 、頂上 」
悪念も邪心も感じられない、穏やかで、心底楽しげな声でした。
私は己の惨めさに打ちのめされたものでした。
お恥ずかしい話ではありますが、この後の数日の間、私は長々と「不機嫌」で居続けました。
何事も起きなければ、もっと長く不機嫌の侭 であったやも知れません。
手水 を使う以外には布団から出ず、食事も粥の類を布団の中ですすり、書も読まず、文も書かず、ただただ「不快」を言い訳にゴロゴロするだけの日々を、数日どころか一月も二月も過ごしていたに違いありません。
そうです。何 事 も な け れ ば 。
無論、目覚めたその時に時刻が判ったわけではありません。後から
そう。当家の家人からです。
目覚めた私の頭の下には、慣れた高さの枕があり、目の前の高みには見慣れた天井がありました。
合わない
私が上体を
「まこと若様と来たら、肝心なところで
いいえ、確かに
怒鳴りつけてやりたくなりました。
実際そうしようとしたのです。
ところが、酷い
その精一杯の怒りを露わにしたはずの顔を見て、あの娘と来たら、
「まあ、酷いお顔」
うっすら笑うのです。こちらが苦しんでいるのを見て、
「ご
などという言葉の、その言い振りがまた、人を小馬鹿にしている……ように聞こえたのです。はい、そのときの私には、です。
「お前は一斗の酒を開けても真っ当にしておられるのか」
「さて。一度に一斗を
そう言って
「ですが、二日酔いには
茶碗の中身は、何やら甘い臭いのする茶色のモノでした。
「何だ?」
「『
「玄の実?」
「偉い医者殿などが申しますところによれば、
「キグ……? ああ、
「まだ今年の実はなっておりませんよ。そろそろ花の咲くころかと」
しかしこの時の私の体は、清涼な風ぐらいでは
正直なところを申さば、水けのものであるならば、
しかしわずかばかりではあるものの自制の心は残って負ったようです。薬湯を
後から思えば、いかにも小心者といった風の、情けない有り様でした。
その様を見つつ、
「若様は、物知りなのですねぇ」
などと言いながら、口元を袖で隠してニンマリとまた
ええ、まあ、確かに口元は見えませんでしたが、目が、嗤っていたのです。
「
私は言葉と言葉の間に薬湯をすすり込んでおりました。
そこへ
「いえ、いえ。本心、感心しております。
途端、私の口から薬湯が噴き出ました。
湯量の多い温泉場の湯の口から湯が噴きこぼれるように、勢いよく、盛大に、です。
「それは慶次郎殿のことか?」
言い終わる前に、私の両の鼻の穴から薬湯の鼻水があふれ出たものです。
その薬臭い鼻水をすすったものですから、今度は咳き込み、息を吸うことも出来ずに、私は布団の上で
私の
何やら悲鳴じみた、言葉なのか叫びなのか判然としない声を発しつつ、あたふたと飛び回り、手拭らしき物を私の手元へ投げ寄越し、自分は直ぐさま私が部屋中にまき散らかした薬湯を雑巾かなにかで拭いて回りました。
しばらく経って、私の咳がどうやら治まった頃合いに、
「若様を背負っておいでになった、背の高いお武家様は、前田
上目遣いに私を見て、おずおずと申したものです。
私は喉の奥から、
「うあぁ」
といった具合の、奇妙な呻き声が湧いて出ました。
情けなく、
「もしかしてあの方が、お手紙の主の『慶』様で?」
後ろ頭の上から、
私は突っ伏したまま
「もしかして、もしかしますると、あの御方はとても
幾分か不安の色が混じる声でした。
私は伏したまま、どうにか顔を横に向けて、チラと
「関東管領・滝川
本来ならば、身を正してきちんと説明すべき事柄なのですが、この時の私には体を起こす力を絞り出すことさえできませんでした。
「つまり、
「つまり、
私が答えますと、垂氷は小首を傾げ、眉根を寄せました。
「それで、あんなご立派な馬に乗られて、良いお召し物をお召しであられたのですね」
「お前は外見で人を量るのか?」
私は少々呆れて申しました。
「あの方がご自身で『
私は呆れ果てつつ申しました。
「
しかし言う内に、果たして本当にそうであろうか、と不安になったのです。
何しろ「厩の宴」の最中に、世の中とは誠に広く、己とは誠に小さい物である、ということを、
ですから私は言い終わった後で、小さく、力なく、
「……恐らくは……」
と付け加えました。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか知れませぬが、
「この
あの方が若様の大切な『慶』様であると気付きもせぬとは。そうであると知っておりましたなら、もっと良く
それなのに
言い終えると同時にガクリと肩を落として項垂れました。
それは、あからさまというか、白々しいというか、大仰というか、鼻に付くというか、ともかく下手な地回りの
こちらが面白がるか、あるいは、気付かずに呆けるのを待っているのが透けて見えるたのです。
私は不機嫌でした。
自分が情けなくてなりませんでした。
慶次郎殿にお掛けした迷惑が申し訳なく、それを詫びに行こうとか取り繕おうとかするために身を起こす心持ちになれないことが不甲斐なく、どす黒い吐き気と頭痛とを取り払うことも出来ず、
ですから、素直に笑ってやることも、素直に無視してやることも出来なかったのです。
「
私は
薄い
「面白うございましたか?
悪念も邪心も感じられない、穏やかで、心底楽しげな声でした。
私は己の惨めさに打ちのめされたものでした。
お恥ずかしい話ではありますが、この後の数日の間、私は長々と「不機嫌」で居続けました。
何事も起きなければ、もっと長く不機嫌の
そうです。