会心
文字数 3,440文字
万一戦闘となれば――私は最初からそのようなことはないと踏んでいたのですが、それでも万が一に――全員が兵卒として闘うことになります。例え大将格であっても、指揮を執りながら歩行兵と同じ闘い振りをせねばならぬのです。
ここで一つでも駒が落ちたならどうなることか、想像に硬くないでしょう。
これでも私は、一応は
いや、飛車角金銀、あるいは歩の一枚であっても、落とすことが出来ましょうか。
幸直にはそれが判っています。そして幸直が判っているということが、私にも判っています。
それ故、私は笑ったのです。
申し訳なく、心苦しく、情けない、自嘲の笑みです。
真の本心からのモノでありましたが、強張った笑顔であった感は否めません。
己の頬骨の上に本心からの笑顔の皮が貼り付いた、そんな心持ちです。
私の――作り物じみていながらも命のある、さながら名人の打った猿楽の面のような――奇妙な顔を見て、幸直めは今にも泣き出しそうな顔で、唇を噛みました。
それきり、誰も動かず、誰も物を言いません。
私の
長い時が流れました。
いいえ、実際には、それほど時が過ぎたわけではなかったのですが、あの場では長い時のように感じられたのです。
あるいは日も月も止まってしまったのではないかとさえ思われました。
私の臆病な耳が、何かの音を……人の気配を思わせる音を聞き取ったとき、私はすっと体を起こしていました。
その時の一同の顔を、私は忘れることが出来ません。
敵やも知れぬ者達が近付いてくるのを伏せて待っているのだというのに、大声で訳のわからぬ事を叫んだ上に、いきなり立ち上がったのです。
目を見開いて
いよいよ狂うたか、と思った者も、あるいは居たかも知れません。
数名の体のがびくりと動きました。しかし、私が目を配るとぴたりと止み、皆はまた背を低く伏せた形で岩のように固まりました。
精鋭達は、私の目の色から、訳のわからぬ
ただ一つ、無駄に高い
視線の先の、相変わらずの濃霧の中に、私の目にもその形が認められるほどに近付いてきている一つの騎馬の影があります。
それが霧に映り込んで大きく膨れた幻影でないとするならば、その馬は大層な
一見すると
「鎧武者三騎」
と申しておったことを疑いなく信用した私には、着物の下に
時折チラチラと
その光は確かに鋭いものでしたが、さほどには大きなものとは見えませんでした。
さすれば、それは太刀ではなく、槍の穂先であろう、と私は断じました。
断じはしたのですが、実のところ、刃物の大小の区別などはこの状況では全く意味を成さぬものでした。
そうでありませぬか。太刀であれ
こちらには
潜んでいるモノがナニであるのか――鼻の効く武将であれば、火縄の臭いをさせていない我々から銃撃される可能性が無いことは判っているでしょうが――正体が
正体不明のモノが、正体不明の大声を立てている。そこに乗り込んでこようという彼の騎馬武者の胸には、一騎当千の自信が満ちているに相違ありません。
そんな方が、一戦交えてでも守ろうとしているからには、
私は一震えすると、
禰津幸直が、太刀の柄に手を添えて身を低く屈めたまま、私の顔を見上げました。唇を噛んでいます。
私の眼の端の方に、不安とも不審とも呆然とも驚嘆とも安堵とも、何様とも取れ、何様とも取れぬ、一寸言葉に表せぬ、幸直の顔がありました。引き絞った
恐らく私が、
「行け」
と言えば、
それが私には真実を見るように想像できます。
その人の槍の穂先が、幸直の背中から突き出て、ぎらりと赤みを帯びて輝いている、その様子も、です。
私は何も言いませんでした。息を吐くことさえ忘れていたような気もいたします。
私は懐に忍ばせていた物を掴み、近付く影を見つめておりました。
馬上の影の、それが馬に乗っているとは思えぬほど揺れることもなくすぅっと進み来るさまと申せば、さながら仏師が精魂込めた
私は懐の中の細い
伏せていた幾人かの腰が浮きました。声を上げる者はおりませんでしたが、皆眼差しを私の手元に突きたてました。
皆の眼には、
一同、ぽかりと口を開けました。
それが何であるか見極められなかった者は、私が何をしようとしているのかも思い当たらず、ただ
武器ではないらしい、程度のことに気付いた者は、武器も持たずに敵やも知れぬ者の前に出る気ではないかと思ったものでありましょう。そして「青二才めがとうとうおかしくなったか」と、大いに動揺したのです。
そしてその「棒切れ」が何であるか気付いた者は、私が「そんな物」を戦場に持って来ており、それも、敵らしき輩が迫っているこの時に持ち出すという非常識をやらかすのを見て、不安にかられたのです。
故に一同は、目玉が
ただ一人、幸直を除いては。
そうです。
私は、幸直以外の者達が、私に飛びかかり、押し倒し、地面に押さえつけるより前に、素早くその棒きれを、口元に宛がいました。
裏返された女竹の横笛が、甲高い叫び声を上げました。
耳効きの者が、覚えず頭を地面のその下まで潜り込ませようかという勢いで伏せ、両の耳を手で覆い塞ぎました。
他の者……幸直を除いた殆どの者達も、耳効きほどの
私は満足していました。
会心の「
ヒヤウともヒヨウともキイともヒイとも言い表せぬ、己の体から何かが飛びだして行くような音が、
ええ、
私が懐から出して吹き鳴らしたのは、京に住まう母方の祖父から戴いた、由緒あるあの
彼方から山鳥の
その向こうへ、あの音が遠く霞んで消えて行くと、それに連れるようにして、霧もまた薄れて
木々の枝の隙から、黄色みを帯びた日の光が幾本もの帯のように差し込み、薄暗かった森と道筋とを明るく照らしました。
霧の中の大きな人馬の影も、次第にその真実の姿へと変じてゆきました。