第二話 光と闇

文字数 3,977文字

 二人が意識同化を果たした翌日の夜。ルシファーが来客に気づいた。ドアの外に立ったのはクレイルだった。
 眠ったばかりのカツミを起こされないよう、ブザーが押される前にドアを開けて招き入れる。
「夜分遅くに突然すみません」
「いいえ。来られると思っていました」
 会釈をして室内に足を踏み入れたクレイルが、ちらりとカツミに視線を送ってから、ルシファーに話を切り出した。

「ルシファー。お察しでしょうが、私はもう束ねるものの元に還ります」
 ルシファーの心がクレイルの告知で揺れた。クレイルは自己の消滅を選んだのだろうか。それとも定めに粛々と従ったのだろうか。
 クレイルに予言の結実以外の望みが一切なければ、自身の消滅を悲嘆なく受け入れるだろう。だが、クレイルは神でもなんでもない。同じ人間だ。喜んで消滅を受け入れるはずなどない。

 ルシファーの瞳が、正面からクレイルをとらえた。
「花はいつか必ず散ります。でも人は記憶の中で生き続ける。俺はそう信じています。きっとカツミもそう信じているはずです」
 きっぱり言いきったルシファーが、クレイルと入れ替わって部屋を出ようとする。
 君はカツミの恋人なのに、それでいいのか? クレイルの物言いたげな視線に振り返ったルシファーは、微笑みとともに付け加えた。
「貴方の想いもカツミの想いも、俺には全部分かっています」
 黙したクレイルの前で、重い音とともにドアが閉まった。

 部屋に残されたクレイルは困惑していた。理解することと許容することとは違う。ルシファーは私を哀れんでいるのだろうか。それとも同情して、ああ言ったのか。
 いや、違う。ルシファーは人の中にある欲の熱さを知っているのだ。その熱が、時に自他を焼き尽くす炎に変わることを。
 カツミの中にある欲。それすら彼は自分のものとして同化したというのか。だからといって恋人を差し出せるのか。
 ──貴方はあなたの花を咲かせて下さい。
 あの時の言葉は、予言の結実のことだと思っていた。他に意味はないと。なのに。
 ルシファーの中にある強い自負に、クレイルは気圧されていた。どさりと椅子に腰を下ろすと、焦点の合わない目で横たわるカツミを見つめる。
 愛しさだけを引き出すカツミは、いまだ夢の中にいた。クレイルは静かな部屋に大きく吐息をこぼすと、次第に熱くなる瞼を押さえて困惑を振り払った。
 束の間の至福。束の間だからこそ本心に従う。それでいいではないか、と。

「カツミ」
 相手を起こさないように、そっと囁く。
 耳を澄まさなければ聞き取れないくらいの静かな寝息。今、深い眠りの中で誰と会っているのだろう。
 クレイルがカツミの額に手のひらを置く。夢を覗き見るのは容易いこと。だが彼は苦笑とともに手を離した。
 夢も思考も、その者の聖域なのだ。そんな当たり前を自分はいつでも飛び越えてきた。身を守るために。目的のために。結果として人を殺すために。
 しかしもう、目的は果たされた。自分の役目は終わったのだ。

「起きて下さい。カツミ。私に貴方との時間を下さい」
 クレイルにはもう何も隠す必要がなかった。何も抑える必要を感じなかった。酷く疲れていた。手招く睡魔が永遠のものとなる前に、定めに抗いたかった。
「カツミ。貴方の声を聴かせて下さい。私だけを……」
 懇願の先は、溢れ出た嗚咽にかき消された。
 手に出来ないと知っていながら、希(こいねが)う。馬鹿げていると思いながらも、心の底から希う。
 次々に生まれ、瞬く間に弾けて消える泡沫(うたかた)。そんな泡にも切なる願いがあり、祈りがあるのだ。

 その時、クレイルは気付いた。自分もまた、目の前で眠る愛しい人と同じ砦にいたことに。鳥籠を出ろと言い続けた自分こそが、その籠に囚われていたことに。

 ◇

 ──花の色はいずこ。否、全てがそのものの色。うつろう光の現身こそが花の色。

 夜中すぎ。まどろみの中に、あの歌が迷い込んできた。重い瞼を開けたクレイルは、じっと自分を見つめるオッドアイに気付く。
「泣いてたの?」
 問いながら、カツミの両の手がクレイルの手を包み込んだ。
「クレイル。俺はあんたとの賭けに負けたみたいだね」
 カツミの言葉に、クレイルが目を細めた。
 ──貴方はきっと戻ります。混沌を映しても恐れなくなる。
 クレイルの言葉は実現していた。カツミは束ねるものに会い、そして意識の同化を果たしたのだ。
「ひとつに」
「……ひとつに」
 クレイルの呟きにカツミが同じ言葉を重ねる。二人は同じ夢の中にいたのだ。満ち溢れる光のただ中に。
 いのちの海を漂う一つの泡。生まれてはすぐに弾けて消える泡。その泡の集まりが世界を満たす。誰もが海の一部なのだ。

「ラヴィがなんでこの星の海に触れたいと思ったか、分かった気がした」
 カツミの呟きにクレイルが頷く。全ては繋がっている。時間も空間も超え、途切れることなく繋がっているのだ。
 しかし、クレイルはどうしても切なさを拭い去れなかった。思考と感情がどうやっても揃わなかった。
「クレイルは、どこに行くの?」
 カツミの問いにクレイルはかぶりを振る。影は光から離れることはないのだ。足元には必ず影がある。濃く薄く。長く短く。色と形を変えながら。しかし、いつも光に付き従う。
「見えなくても傍にいます。今までもこれからも。ジェイが言っていたでしょう? 死は消滅ではないと。見えなくなったからといって不安にならなくてもいいと。想いは、消えることはないと」
「でももう触れられないんだね。俺の代わりにいなくなるの? クレイルの戻る場所は誰なの? いなかったの? 出会えなかったの?」
 カツミの問いを聞いたクレイルは、自分の内心がとっくに見透かされていたことを覚った。カツミは分かっていたのだ。分かっていながら、何も言わなかったのだ。
「求めませんでした。いたのかもしれません。出会えたかもしれない。けれど私は求めなかったんです。貴方以外の人を欲しいと思ったことがなかった。戻る場所がなければ役目を終えて還る。貴方の代わりではありません。私が選んだんです」
 カツミは瞼を閉ざし、一言も聞き漏らさないようクレイルの告白に耳を傾けていた。
 私が選んだ……クレイルの言葉が切なく消え入り、二人の間を沈黙が隔てると、カツミは握っていたクレイルの手を引き寄せ、その指を噛んだ。まるで、自分の刻印を刻むかのように。

「戻ってきて。クレイルは俺の中にいる。俺の血肉になる。だから戻って来て。待ってるから。ずっと待ってるから」
 クレイルは気づいた。カツミがなぜ自分の本心を炙り出したのか。その後に何も言わなかったのか。なぜ決断を先延ばしにしていたのか。
 カツミは自らの死や穢れだけを恐れていたわけではなかったのだ。この私が、カツミの闇として消える定めに抗っていたのだ。
 無くしたくないもの。カツミの言葉がクレイルの脳裏をよぎった。
 カツミは、みずからの本心と遠い過去から求められた使命を天秤にかけたのだろう。ひとつを得るために、ひとつを捨てる選択をしたのだ。

 切なさで張り裂けそうだったクレイルの心は、カツミの慈愛に温かく包み込まれていた。
 私はカツミにとってかけがえのないものだった。無くしたくないものだった。カツミは私のことをずっと待っていてくれる。光と闇。既に私はカツミの半身なのだ。

 蒼い瞳が湛えた闇は、神秘のオッドアイに光を注がれた。漆黒の闇は薄明の蒼に染まる。いのちは巡り、いのちは還る。

「クレイルは俺のこと好き?」
 美しい瞳から溢れる涙をそのままに、カツミが再び問うた。
「好きですよ。大好きです」
 今度は即答したクレイルだったが、そのあと眉を寄せ、唇を噛んだ。

「じゃあ、抱きしめて」
 拒む理由などあろうはずもない。椅子を鳴らして立ち上がったクレイルは、カツミの頬に手を添えると倒れ込むように抱き締めた。

 ──いのちのクリムゾン。死のトパーズ。

 やがて虚空となりゆく相手を見つめ、生死の狭間がゆらりと光る。クレイルの脳裏にカツミの送ったイメージが『映し出された』。

 真っ先に春の訪れを知らせる花。白い小鳥が一斉に羽ばたく音。甘い香が風に乗る。その香を纏って白い群れが青空に舞う。
 白い花の洪水。白い花の渦。漆黒の星空を映す水鏡(みかがみ)に、白い花が揺らぐ。
 冷やされた夏の夜は薄明の空に蒼く染まる。熱を戻し、熱に満ちる。
 安息の闇は希望の光に。そしてまたトパーズの黄昏に。
 時は循環し、時は渦巻き、そして時は波紋を広げる。透明な水の鏡に、想いを映す花を浮かべて。

 死の砂漠で拾われた種。百年注がれたいのちの水。百年注がれたいのちの光。百年注がれた安息の風。百年注がれた安息の闇。
 全ては表裏。全ては一対。
 死がなければ生はなく、いのちを糧にいのちは続く。この世の半分は死で、この世の半分は闇なのだ。
 いのちのために。光のために。成すために。残すために。変えていくために──。
 クレイルは、鍵を開けた扉の先を凝視していた。そこにはカツミが光り輝いていた。それは漆黒の闇に射し込む、目も眩むような光点。
「カツミ。次は本当に奪いに行きますよ」
 クレイルはカツミの唇をそっと閉ざした。賭けの報酬は口づけ。それを受け取ったクレイルが、カツミの髪を優しく撫でる。
「待ってる。必ず見つける」
 カツミの確かな宣言を聞いて、クレイルは目を細める。そのあとクレイルの実体は潮が引くように失われ、瞬く間に薄れていった。
『次に咲く時は……貴方の色を』
 残された意識。途切れた言葉の先を、カツミは知っていた。

 一人、取り残された部屋。この季節にあるはずもない白い花が、部屋中に散っていた。ただ咲いて朽ちるだけの花。その花びらが。
 静寂の中。花弁はやがて砂となり水と変わり、最後には何ひとつ残さなかった。

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