第二話 散る花もあれば
文字数 2,370文字
季節は秋。
ルシファーは寮のすぐ隣にある小さな森に向かって歩いていた。緑地は墓地の反対側に位置し、今は枯れ色に美しく染まってトパーズさながらに輝いている。
森はルシファーの体力維持と思索の場であり、奥にある美しい湖も彼のお気に入りだった。
上空を数機の戦闘機が行き過ぎた。定時の哨戒活動である。それを仰ぎ見ながら、今日知らされた次の作戦計画に思考を巡らす。
能力者部隊の作戦司令官にはカツミが任命された。
シス被験者の経過は順調だが数は少ない。特区だけで九十名。他の基地を入れると百二十名程の予定である。
黄昏の空は琥珀色に染まり、やがて同じ色を映した湖面がルシファーの視界に入ってきた。
鮮やかに紅葉した樹々が彩りを添える。クリムゾンとトパーズ。ここにもまた想い人の色があった。
ルシファーの足が止まった。湖畔に先客の影が射していたのだ。背の高いシルエット。誰かはすぐに分かった。
「こんばんは。リミター中佐ですね」
声をかけられたクレイルが、頷きで応えた。秋風に神秘的なブルーグレイの髪が揺れる。
「お待ちしてました」
穏やかな、よく通る声だった。
「すみません。ここに向かわれていたので、先回りさせて頂きました。お時間を頂けますか?」
先回り……そのために様々な能力が必要なことは、能力者どうしであれば説明などいらない。ルシファーは、クレイルが超A級能力者だと察した。
「もちろんです。肌寒くなってきましたね」
微笑んでみせたルシファーが、ベンチに腰を下ろした。並んで座ったクレイルは、視線を湖面に置いたままおもむろに話し始めた。
「王女の夢の話。お聞きになりましたか」
「ええ。聞きました。貴方のことも」
「カツミの欠片は貴方だけ。彼の戻る場所も貴方だけです」
ルシファーは、クレイルの言葉に含まれている切なさに気づいた。
「リミター中佐」
「はい」
「ラヴィは、なぜ引き受けたんでしょうか」
彼は自分とその子孫を、百年後まで道具とすることを選んだ。ルシファーは、その決意の奥に何があったのだろうと思っていたのだ。
クレイルの返答は、思いのほか詩的だった。
「砂漠で拾われた小さな種です。咲くだけでなく、実を結びたかったのでしょう」
「咲くだけでなく……ですか」
「それが繋がった今も、命を橋渡しするための花なんです。散る花もあれば実を結ぶ花もある。しかしどちらも花には違いありません」
──散る花もあれば。
ルシファーは、クレイルの強い覚悟を悟った。
「リミター中佐。ある人に言われたことがあります。問題は時間ではなく、それまでに何を残すかだと。俺もまた一つの花だとしたら、実を結んでから地に落ちたいと思います」
「ええ」
「この国が本当の意味で独立国となったら、俺はカツミと特区を出ます。もう鳥籠は必要ないんです。彼は道具ではなく人として飛ぶことができると思っています」
大気は枯れ色のトパーズから夜の闇に染まりつつあった。その狭間で、クレイルはじっと瞑目している。
やがて、ぽつぽつと街灯がともり始めた。誘われるように秋の虫が小さく囁く。波打つ湖面に視線を注いだまま、ルシファーが再び口を開いた。
「夏の闇には熱があるんですね。俺に足りなかったのがその熱でした。でももう迷いません。だから貴方は、あなたの花を咲かせて下さい」
スッと立ち上がったクレイルが薄闇の空を仰いで呟いた。
「ありがとう。ルシファー」
穏やかな、しかし切なさに満ちた声。ルシファーが振り返った時には、クレイルの姿は掻き消えていた。
◇
広大な特区の一画にある白く大きな建物。生物兵器隊に属する研究所。そこは今、シス研究所と呼ばれていた。
現在、クレイルのいる部屋には、円柱形の巨大な水槽が据えられている。
青く光る特殊な液体の中で、指先ほどの軟体生物が無数に泳いでいる。きらきらと輝きながら優雅に動き回っているのが、シスと呼ばれる生物だ。
彼が持ち込んだ時にはわずかだったシスは、今や数兆倍に増えている。この先も幾何級数的に増殖し、特区の計画にも目途が立つ……ように見える。
だが。水槽を仰ぎ見ていたクレイルは、その予想を心中否定した。
シスの成分は有効期間が短く、能力向上に用いるには決して効率的ではない。それに、いずれ不要になるだろう。
シスは『カツミだけに』必要なものなのだ。束ねるものの願いを叶えるため、そのためだけに必要なものだった。クレイルは特区の思惑を利用したのだ。
アーロンが言ったように、束ねるものの願いを結実させてしまえば、もうシスはいらない。後は、人々が自ら行動に移すのを待てば済む。
この星の国民は本来開拓者なのだ。開拓者の魂は、風化して失われたわけではない。
意識の浄化は洗脳を解除する火種。繁茂し過ぎた森に落とされる落雷なのだ。
今、クレイルの心には切なさが押し寄せていた。
炙り出された本心──。カツミは見抜いていたのか。寂しかっただけなのか。どちらでも良かった。別の答えでも、まるで構わない。実を結ぶことはなくても、咲くことはできた。それだけで十分だ。
しかし、この切なさだけは消し去ることが出来ない。
どうしても、どうしても、消し去れない……。
青い色を透過させ、ゆらゆらと舞う光の粒。シス。導く者に用意された鍵。
過去。様々な思惑に利用されてきたこの生物は、常にそれを嘲笑ってきた。一部の者にしか知られていないが、シスには意思があった。認めた者にだけ死を以て応える高等生命体なのだ。
この小さな生き物自体が特殊能力者と言ってもいい。単なる薬物として扱えば、彼らに拒絶され続けるのだ。
カツミの経過が順調なのは、シスが彼を認めているからこそ。透明なもの、美しいもの、純粋なものをシスは好む。浄化の末に生まれたカツミは、シスが求める要素を全て満たしていた。
ルシファーは寮のすぐ隣にある小さな森に向かって歩いていた。緑地は墓地の反対側に位置し、今は枯れ色に美しく染まってトパーズさながらに輝いている。
森はルシファーの体力維持と思索の場であり、奥にある美しい湖も彼のお気に入りだった。
上空を数機の戦闘機が行き過ぎた。定時の哨戒活動である。それを仰ぎ見ながら、今日知らされた次の作戦計画に思考を巡らす。
能力者部隊の作戦司令官にはカツミが任命された。
シス被験者の経過は順調だが数は少ない。特区だけで九十名。他の基地を入れると百二十名程の予定である。
黄昏の空は琥珀色に染まり、やがて同じ色を映した湖面がルシファーの視界に入ってきた。
鮮やかに紅葉した樹々が彩りを添える。クリムゾンとトパーズ。ここにもまた想い人の色があった。
ルシファーの足が止まった。湖畔に先客の影が射していたのだ。背の高いシルエット。誰かはすぐに分かった。
「こんばんは。リミター中佐ですね」
声をかけられたクレイルが、頷きで応えた。秋風に神秘的なブルーグレイの髪が揺れる。
「お待ちしてました」
穏やかな、よく通る声だった。
「すみません。ここに向かわれていたので、先回りさせて頂きました。お時間を頂けますか?」
先回り……そのために様々な能力が必要なことは、能力者どうしであれば説明などいらない。ルシファーは、クレイルが超A級能力者だと察した。
「もちろんです。肌寒くなってきましたね」
微笑んでみせたルシファーが、ベンチに腰を下ろした。並んで座ったクレイルは、視線を湖面に置いたままおもむろに話し始めた。
「王女の夢の話。お聞きになりましたか」
「ええ。聞きました。貴方のことも」
「カツミの欠片は貴方だけ。彼の戻る場所も貴方だけです」
ルシファーは、クレイルの言葉に含まれている切なさに気づいた。
「リミター中佐」
「はい」
「ラヴィは、なぜ引き受けたんでしょうか」
彼は自分とその子孫を、百年後まで道具とすることを選んだ。ルシファーは、その決意の奥に何があったのだろうと思っていたのだ。
クレイルの返答は、思いのほか詩的だった。
「砂漠で拾われた小さな種です。咲くだけでなく、実を結びたかったのでしょう」
「咲くだけでなく……ですか」
「それが繋がった今も、命を橋渡しするための花なんです。散る花もあれば実を結ぶ花もある。しかしどちらも花には違いありません」
──散る花もあれば。
ルシファーは、クレイルの強い覚悟を悟った。
「リミター中佐。ある人に言われたことがあります。問題は時間ではなく、それまでに何を残すかだと。俺もまた一つの花だとしたら、実を結んでから地に落ちたいと思います」
「ええ」
「この国が本当の意味で独立国となったら、俺はカツミと特区を出ます。もう鳥籠は必要ないんです。彼は道具ではなく人として飛ぶことができると思っています」
大気は枯れ色のトパーズから夜の闇に染まりつつあった。その狭間で、クレイルはじっと瞑目している。
やがて、ぽつぽつと街灯がともり始めた。誘われるように秋の虫が小さく囁く。波打つ湖面に視線を注いだまま、ルシファーが再び口を開いた。
「夏の闇には熱があるんですね。俺に足りなかったのがその熱でした。でももう迷いません。だから貴方は、あなたの花を咲かせて下さい」
スッと立ち上がったクレイルが薄闇の空を仰いで呟いた。
「ありがとう。ルシファー」
穏やかな、しかし切なさに満ちた声。ルシファーが振り返った時には、クレイルの姿は掻き消えていた。
◇
広大な特区の一画にある白く大きな建物。生物兵器隊に属する研究所。そこは今、シス研究所と呼ばれていた。
現在、クレイルのいる部屋には、円柱形の巨大な水槽が据えられている。
青く光る特殊な液体の中で、指先ほどの軟体生物が無数に泳いでいる。きらきらと輝きながら優雅に動き回っているのが、シスと呼ばれる生物だ。
彼が持ち込んだ時にはわずかだったシスは、今や数兆倍に増えている。この先も幾何級数的に増殖し、特区の計画にも目途が立つ……ように見える。
だが。水槽を仰ぎ見ていたクレイルは、その予想を心中否定した。
シスの成分は有効期間が短く、能力向上に用いるには決して効率的ではない。それに、いずれ不要になるだろう。
シスは『カツミだけに』必要なものなのだ。束ねるものの願いを叶えるため、そのためだけに必要なものだった。クレイルは特区の思惑を利用したのだ。
アーロンが言ったように、束ねるものの願いを結実させてしまえば、もうシスはいらない。後は、人々が自ら行動に移すのを待てば済む。
この星の国民は本来開拓者なのだ。開拓者の魂は、風化して失われたわけではない。
意識の浄化は洗脳を解除する火種。繁茂し過ぎた森に落とされる落雷なのだ。
今、クレイルの心には切なさが押し寄せていた。
炙り出された本心──。カツミは見抜いていたのか。寂しかっただけなのか。どちらでも良かった。別の答えでも、まるで構わない。実を結ぶことはなくても、咲くことはできた。それだけで十分だ。
しかし、この切なさだけは消し去ることが出来ない。
どうしても、どうしても、消し去れない……。
青い色を透過させ、ゆらゆらと舞う光の粒。シス。導く者に用意された鍵。
過去。様々な思惑に利用されてきたこの生物は、常にそれを嘲笑ってきた。一部の者にしか知られていないが、シスには意思があった。認めた者にだけ死を以て応える高等生命体なのだ。
この小さな生き物自体が特殊能力者と言ってもいい。単なる薬物として扱えば、彼らに拒絶され続けるのだ。
カツミの経過が順調なのは、シスが彼を認めているからこそ。透明なもの、美しいもの、純粋なものをシスは好む。浄化の末に生まれたカツミは、シスが求める要素を全て満たしていた。