第一話 道具の安らぎ

文字数 3,789文字

 閉館間際の特区のジム。その中にある青い照明に光る広いプール。当然だが、この場所には砂漠の星にはない豊富な水がある。
 最終移民から百年も経つと潤沢な水を意識する者などいないが、造られた当初はずいぶんと驚かれたに違いない。ここは何度か大改装をして、いつも綺麗に保たれている施設だった。まるで水の星の恵みを誇示するかのように。
 今、泳いでいるのはカツミだけだった。美しいクロール。しかし彼は体力をつけるために泳いでいるわけではない。水中にいるとほっとするからだ。
 やがてカツミが水面から顔を上げた。壁にかけられた時計は20ミリア前をさしていた。数人いた他の隊員は、とっくにいない。
 ザブンと潜水して水から上がると、カツミはびくりと身を震わせた。すぐ目の前にあの亡命者が立っていたからだ。それまで自分以外の人の気配はまるでなかったというのに。
「結構、上手いですね」
「ずっと見てたの?」
 一体いつからいたのだろうと訝ったカツミに、クレイルが平然と答えた。
「最初に飛び込んだ時からずっといましたよ。他にあと五人いた時から」
「1ミリアも?」
「ええ。私には腰が引けますけどね」
「海に落ちたのに」
「酷いところを見られたもんですね」

 墜落時のことを言われたクレイルは、バツの悪そうな顔をした。その表情を見て、カツミには予想がついた。
 あの日、彼はこちらの視線に気づいていたんだろう。ヘリでの救助が迅速だったから、特区との打ち合わせは綿密だったはず。最後の最後に機体にトラブルが生じたのだろうか。それにしても、パラシュート付きとはいえ初見の場所に迷いなくダイブする剛の者が、この静かなプールに腰が引けるとは。

 水と戸惑いを纏いながらプールから上がったカツミが、クレイルに確かめる。
「俺に用があるんだよね?」
「もちろん。外で待ってますよ」
 クレイルが視界から消えるまでカツミはずっと目で追っていた。
 1ミリア。彼は完全に気配を消していた。まるで気付かなかった。超A級なのか。能力は俺を上回っているのかも。纏う呪いを清めし者。クレイルは、あの夢の意味を教えてくれるのだろうか。

 パシャッ。突然小さな水音がして、カツミの意識が現実に引き戻された。誰もいないプールの水面が、ゆるりと水を切るように動いている。何者かの意識が起こす波と水しぶき。鮮やかなターンをした時と同じ水音が響く。だが不自然な揺らぎはすぐに消え去ってしまった。

 ◇

 クレイルは外灯の下でカツミを待っていた。
「書類審査が通りました。明日から始めます」
「そう。分かった」
 それ以上何も言わないカツミを見て、クレイルが首を傾げた。
「訊きたいことがあるのでは?」
「たくさんある。臨床実験もだけど、アーリッカの夢のことも。教えてくれるの?」
「これから二か月、私は貴方のモニター役です。時間はたっぷりありますから、なんなりと」

 静かで揺るぎのないクレイルの態度。それを見たカツミはジェイを思い起こした。アーリッカの言うように全てが繋がっているのなら、いつかは束ねるものの元に還るのだろう。ジェイにも会えるのだろう。しかし自分はまだ繋がりを感じない。どこにも属さない孤独な存在に思えてしまう。ルシファーと会えなくなった時から、カツミはもう寂しかった。だから泳ぎに来たのだ。

「クレイル。頼みがあるんだ」
「なんですか?」
「一緒にいてくれる?」
 カツミの願いに、ふっと笑みが返された。
「今の貴方の望みですね」
「今だけのね」
 色の違う双眸に試されているように感じ、クレイルが肩を竦めた。
「やれやれ。私は穴埋め要員ですか」
「怒った?」
「今だけでは足りないようにしましょうか?」
 口の利き方がジェイにそっくりだと思いながら、カツミがクレイルをまじまじと見つめ返した。

「行きましょう」
 クレイルに背中を押され、カツミが歩き始める。
 彼方の空に一筋、流れ星が弧を描くのを仰ぎ見ながら。

 ◇

「見捨てられ不安だよ」
 書類の束をファイルから取り出しながら、ナート・フェルデン医師が呟く。
 休前日の夜。医務室には今、三人しかいない。そろそろ薬効の現れる時間だが、モニター表示は平常通りだった。

 医務室のベッドでカツミは眠っていた。施術後の経過を1ミリア観察するからと、彼は眠らされている。
 シスの成分が入れられているのは小さなピアス。二つの錠剤のような金属が耳朶を挟み、その間に針が通っている形だった。薬液は毛細血管を通してゆっくりと体内に入っていく。濃度は計画通りに調整されていた。
 施術は一瞬で終わった。後はシスの効力と拒絶反応を観察するだけである。

「見捨てられ不安ですか」
 復唱したクレイルにナートは頷くと、ちらりとカツミの方に視線を送った。
「書類選考には心理テストもあってね。ここのお偉いさんには理解して貰えないけど気になったんだ。メーニェでクローンを純粋培養しようとする意味が分かった気がした」
「胎児からシスを使えば管理が楽ですからね。向こうのクローンは人形ですよ。人じゃない。ただの道具です」
「道具か……」
「人員不足を一気に解消できる。死んだところで補償の必要もない。倫理などありません」
 その組織の最前線にいた人物から、このような反論が出るとは。ナートはクレイルが抱えてきた葛藤を垣間見た気がした。
「シーバル大佐はとても高水準の能力を備えている。特殊能力だけじゃない。知的レベルやパイロットとしての技能は群を抜いているし、関係者からの評価も高い。ただ自分をとても抑え込んでるように見える」
「見捨てられたくないってだけで、自分を道具にするでしょうか」
 クレイルの問いに、ナートがかぶりを振った。
「彼だけじゃない。能力者の大半が抱えている共通心理だと私は思っている」
「大半が?」
「自分の居場所は特区にしかないと思って、ここに来た人達はなおさらだよ」

 言葉を紡ぎながらもナートは書類から目を離さなかった。クレイルはカツミに顔を向けたままである。交差しない視線。その滑稽さをクレイルが遠まわしに皮肉った。

「枠に収めて安心するのは危険ですよ。相手のことを知りたいなら、本人とじっくり話したほうがいい。枠の中には決して入りきれないものが、全ての人にありますから」
 クレイルの指摘はナートの痛いところを突いていた。書類ばかりに目をやり、本人よりもデータを優先させていたのが何よりの証拠である。診断名がなければ治療方針は決まらない。しかし、一度貼ってしまったレッテルに振り回されるのも常なのだ。
 人のこころの有り様に名前を与えるのは、安心であり危険でもある。こころほど絶えず変化するものはないのだから。悪い癖が出てしまったとナートは自戒した。

「職業病だね。確かに君の言う通りだ」
「いえ。出過ぎたことを言いました」
「私は外科に進んだが、最後まで精神医学と迷っていてね。ずっと特殊能力者の心理に興味があったんだ」
「ああ。そうだったんですね」
 クレイルは思う。求めてもいない烙印を押されてしまった者の苦悩が、当事者以外にどれだけ分かるのだろうかと。
 モニターを見ながらナートが眉をひそめた。
「変わらない。血中濃度はとっくに上がっているのに」
 医師という立場上、実験の責任者は彼であったが、シスに関する知識と経験はクレイルに及ぶはずもなかった。苦笑いを押し殺して、クレイルがさらりと告げる。
「C級のリーンと比較する意味はないです。ずっとシールドしてますから」
「眠っているのに?」
「そうです。でなければ、自分の知らないうちに誰かを殺めてしまいますから」
 ナートの表情が驚愕から同情に変化したのをクレイルは見逃さなかった。患者から慕われる医師なのだろう。しかし彼は特殊能力者の心理を知らない。

 困惑口調でナートが聞き返す。
「じゃあ彼は、いつ安らげるんだ?」
「分かりません。眠り以外に求めるしかないでしょうね」
 ナートが深い溜息を漏らした。カツミがなぜ被験者を引き受けたのかが分かったのだ。
 道具と割り切っていなければ志願など出来ない。そして超A級のカツミの場合、決してリーンのような結末にはならない。だから彼一人だけが残ったのだ。
 たちの悪い人体実験だが必ず成功するだろう。リーンの時とは逆に、尻込みした他の隊員も再び志願するはずだ。それでも、新任のナートにとって特区の方針は到底理解できないものだったが。
「リミター中佐。君もA級だったな」
「ええ。ありがたくもない能力ですが」
「君の安らぎは、どこにあるんだ?」
「私のですか」

 クレイルは心の中で乾いた笑いを押し殺した。
 道具として利用されるだけの世界で何から安らぎを得ているのか? か。
 ナートの疑問は、シャルー星だけの価値観に基づいている。特区の能力者なんて希少価値の高い有能な道具じゃないか。見つかればただ駆除されるだけのメーニェの能力者とは違う。ナートは良い人だが、能力者の絶望を推し量れるほどの力量はないのだろうな。

 諦め混じりで、クレイルがさらりと答えた。
「私は生まれた時から狩られる側でした。安らぎを求めたところで死に直結するだけ。道具にしてもらえるのなら、それで十分です」
「……」
 ナートには継ぐべき言葉がどうしても見つからなかった。その複雑な表情を見て、クレイルがふっと目を細める。狩られる側。あまりにも不条理な定めだった。
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