第六話 過去と写真

文字数 3,399文字

 高速道路を降りて、左手に真っ青な海の続く一般道に出た。幹線道路ではないが、別荘地に向かう整備された道である。
 青い空を横切る飛行機雲。開け放たれた窓から吹き込む潮風。入道雲から見え隠れする眩しいモアナ。
「この道が好きなんだ。周辺区域で一番いいな」
 風が遊んで乱れた髪をそのままに、窓外に顔を向けたカツミが呟いた。
 クレイルはカツミがファーストフードを口にする気配のないことを気にしていた。珈琲だけをちびちび飲んでいるのだ。カツミは飛ぶために必要な体力すら能力に頼っているのだろう。ルシファーは、カツミにどうやって食事を摂らせているのか。その苦労を思いやる。

「もう少し行ったら、右だから」
 海岸線の道の右手には深い森が連なっていた。傾斜の緩やかな山々。濃い緑が鮮やかで、メーニェでは決して見られなかった光景。海と山。そして隣にいる人。クレイルはこれまで味わったことのない貴重な時の中にいた。
 山側に右折した車に美しい木漏れ日が降り注ぐ。針葉樹の立ち並ぶ森。その間を縫うように続く私道。道は綺麗に整えられていた。道には車の進行を妨げるような枝の一本も落ちていない。
 やがて重厚な石造りの門が現れた。鉄柵の扉は開け放されたままである。クレイルは車の速度を落とし、門を潜り抜けた。
 しばらく車を走らせる。そしてクレイルは、周りの風景が変化しないことを訝るようになった。相変わらず針葉樹の道が続くばかりで一向に別邸が視界に入ってこないからだ。やがてクレイルは気づく。このひと山全てがミューグレー家の私有地なのだと。
 延々と続く森にクレイルが不安になった頃、ようやく視界に豪奢な邸宅が入ってきた。繁茂した蔦が石壁を彩る邸宅は、尖塔を夏のモアナに突き刺している。
 屋敷のアプローチに車を横づけしたクレイルの目に、前庭にある大きな樹が映った。伸びやかな枝葉。光を受けた葉が風に揺れながら眩しく輝いている。

「アーロン。取り壊さなかったんだ」
 車から降りるなり、屋敷を見上げたカツミが呟いた。クレイルが大樹からカツミに目を移す。
「この家。ジェイが俺に譲りたいって書き遺してたらしいんだ」
 クレイルは古城のような豪邸を再び仰ぎ見た。
「でも俺は親父のマンションを引き払ったくらいだし。貰っても仕方ないしさ。次の候補者はシドだったけど、彼も断ったんだね。あの頃はもう、先のことなんて考えてなかっただろうし」
 どこまでも無欲な人物が、懐かしそうに、しかし寂し気に、南側の温室を見つめていた。
「取り壊して、土地を売りに出すと?」
「アーロンはそうするって言ってた。でも道も庭も綺麗だし、建物にも手を入れてる。ちゃんと管理してるんだ。でも門は開いてたな」
 カツミと同じ疑問をクレイルも持っていた。管理されているのなら、門を開け放したままにしておくのはおかしいと。だがすぐに思い直す。土地屋敷の所有者は、情報分野では知らない者のいない大人物。自分達がここにいることは既に察知しているだろう。
 クレイルは石の階段に続く重厚な玄関ドアの前で立ち止まり、監視装置の気配を探ったものの、すぐにその努力を放棄した。
「さすがだな。そう簡単には見つかりそうもない」

 ◇

 石段に座り込んだカツミに、クレイルが車内から持ってきた紙袋を差し出した。
「カツミ。取り敢えず食べませんか? もうすっかり冷めてますけど」
「あ。忘れてた」
 カツミの返事にクレイルは少しだけ肩をすくめてから、忠告を付け足した。
「食べて下さい。食べることは癒すことですから」
「癒す?」
「そう。自分をいたわることです。食事は身体を維持するだけのものじゃない。心を維持するためにも必要なものなんです」
「そうだね。同じことをルシファーにも言われたな」

 石の階段に並んで座った二人の視線の先には、なだらかに続く森と青い海。
 朝昼兼用のブランチ。たっぷりとレタスの挟まったハンバーガーにカツミが齧り付く。クレイルも横から大盛りのポテトフライに手を伸ばし、強く効いたスパイスの味を口中に満たす。
「いいところですね」
 海から森を抜けて心地よい風が吹き上げてくる。雲のヴェールに包まれたモアナからは、柔らかな日差しが降り注いでいた。
「ねぇ、クレイル」
「なんですか?」
 日差しを見上げて目を細めていたクレイルに声をかけたカツミは、前庭にある大きな落葉樹を指し示した。
「あの樹。早春にね、真っ先に花が咲くんだよ。大きな花で甘い香りなんだ。アーロンの本邸にも同じ樹が植えられてる。小鳥みたいな形の花」
「小鳥ですか」
「うん。真っ白でね。翼を広げて飛び立つ姿に似てる」
 ──小鳥のような白い花。それはまさにカツミだとクレイルは思う。
 黄昏の色も薄明の色も映す、真っ白い花びら。小さくても力強く翼を広げ、風を切って羽ばたく鳥。誰をも惹きつける、甘やかな香。

「ジェイと最後に会ったのがここだったんだ。その日の夕方にはオッジに発つから、二度と会えないのは分かってた。でもまだ話せたんだよ。だからその日のうちに亡くなるなんて思ってもみなかった」
 思ってもみなかった? クレイルはジェイの死の背景を推測した。
 最愛の人と二度と会えないことが、ジェイの命の火を吹き消した。カツミとの最後の会話は、ジェイの死を早めてしまったのだろう。
 だが、それはジェイにとって本望だったはず。死の間際までカツミの生を願い、余命の全てをカツミに注いでその背を押したのだから。
「親父もここで死んだんだ」
 カツミは悲劇を語りながらも淡々としていた。クレイルは思わず眉をひそめた。
「シドの自殺を遮って。彼が用意してた毒をあおって」
「カツミ……」
「悔しかった。置いていかれたことが。何も言ってくれなかったことが」
 カツミの視線は遠くの海に向けられていた。真夏のまぶしい海ではなく、十年前の鈍色の海に。
「あいつのためになんて、絶対に泣いてやるもんかって思った。でも、ほんとは寂しかった。多分、俺はジェイに嫉妬した。最後に親父の心を占めていたのが、ジェイだったから」
 息子のカツミにも、かつての恋人ジェイにも、ジェイへの思慕を消せなかったシドにも……関わったあらゆる人々に深い傷を残した男。ロイ・フィード・シーバル。最後のカタルシス。
 ロイは己の生き方を変えなかった。命尽きるまで不条理な定めに抗い続けた人物だった。

 ◇

 特区に戻り一人自室に入ったカツミを待っていたのは、メールボックスの白い角封筒。差出人はライアンとセアラ。結婚式の招待状だった。
 封を開け、箔押しの文字に彩られたカードを取り出す。定型文と日時を確認したカツミは、封筒の中にもう一つ何かが入れられていることに気付いた。
 薄い紙に包まれていたのは二枚の写真。十年前。カツミが父のマンションを引き払った日に、セアラの前で処分したはずのものだった。
 生まれたばかりの自分の写真と、乳児であるフィーアの写真。少し退色したプリントに、小さなメッセージカードが添えられていた。

 ──カツミくん
 ごめんね。この写真、貴方が見てない時に持ち出してたの。捨てちゃいけないと思ったから。いつか貴方が、お父様を許せると思ったから。それが今かどうかは分からない。でももう返すね。
 貴方との時間、楽しかった。ありがとう。これからもよろしくね。ずっと見てるよ。──セアラ

 いつか許せると思ったから……。唇を噛み締めたカツミの目頭が熱を帯びる。許すことは超えること。しかしあまりに大きな傷跡に自分はまだのたうち回っている。
 運命を定め、絶対的に支配し、最愛の人の命を縮め、そして憎むことすら出来ない相手。
 自分は確かに言った。あの人を超えた時に許すと。しかしこうは言っていない。許してから超えていくとは。
 だが、超えるためにはどうしても先に許しが必要なのだ。セアラにはそれが分かっていた。だからこそ、この写真をずっと持っていたのだ。そして自分を信じているからこそ、今、返した。彼女もまた背中を押す。もう二度と振り返るなと言いながら。

「これが鍵なの? セアラ」
 多くの葛藤の中でも二人の息子への愛情を捨てきれなかったロイ。それを最も端的に示しているもの。
 ロイは全てを手にしたかったのだ。地位も、家族も、ジェイの心も。そして運命に対する反逆への勝利も。

 カツミは深く息をつくと写真を封筒に戻し、そっと瞼を押さえた。

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