第三話 戻る場所

文字数 5,090文字

 この国は開拓者としての誇りを失いました。
 そのきっかけをつくったのが初代国王。そう、私の父です。
 父は私を手に出来なかったことで歯止めが効かなくなりました。狂ってしまったのです。
 私は父の元に留まることが嫌で逃げ出しました。気がついたら海岸の砂浜にいたのです。私もまた特殊能力者でした。

 私はそこで束ねるものの声を聞きました。
 束ねるものとは意識の海。この宇宙のあらゆる生き物の意識を浮かべる海です。貴方が子供の頃からずっと見てきた夢。水の満たされた白い世界。あれが束ねるものなのです。
 この宇宙はたったひとつの揺らぎから発生したものです。言うなれば大きなひとつの海です。海に浮かぶひとつの泡を一人の意識とするならば、泡は弾けて消えてもまた海となる。
 繋がっているのです。全ての底は繋がっている。どんな生き物も、束ねるものというひとつの海の一部なのです。
 双子の星はそれを忘れてしまいました。もとは同じ国民ですらあったのに、愚かな歴史を積み重ねてしまったのです。
 束ねるものは、この国の百年後の未来を私に見せました。父がねじ曲げてしまったこの国の末路を。そしてこう言ったのです。
 百年の呪い。これを乗り越える一族がいるのならば、混沌を洗う鏡──導く者を与えると。

 ◇

 季節は春。爽やかに晴れた暖かな休日である。
 柔らかな日差しに照らされる青い海。新緑に萌える深い森。その間を貫く海岸線の道を一台の車が走っていた。
 ハンドルを握るのはルシファー。カツミは助手席である。二人が南部に来るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
 これまでのカツミは休日をずっとミューグレー邸で過ごしていたのだ。意識操作をして幽閉したシドに会うために。しかしその習慣は今年の初めに終わっていた。

 十年。カツミはシドの意識を操作し続けた。シドの精神は退行し、その言動は少年のようだった。夢のなかで生きる者のようにカツミのことをジェイと呼び、これまでの辛い記憶を全て凍結されたことで、偽りの幸福のなかにいた。シドにあるのはジェイへの想いと、単調な日常だけ。彼は時間の止まった人形だった。

 シドを支配していた狂気。カツミに殺人を強要するほどの狂気は消えた。だが時間を止められた空虚なシドの日常は、見方を変えれば拷問とも刑の執行とも言えた。
 生か死か。カツミには究極の決断だった。そしてカツミは生を選び、大きな代償も背負った。

 シドは、最初の一、二年は安定した精神状態だった。だが次第に自分の置かれた状況に不安を訴えだした。
 シドを幽閉していたアーロン邸の敷地は広大で、シドは塀にも門にも辿り着いたことがなかった。歩いて行くにはあまりに遠いからだ。シドは外の世界を知らなかった。だがシドは自分の世話をする医師や使用人のことをよく見ていた。屋敷の当主であるアーロンのことも。

 幽閉の期間が長くなると、シドは自分の持つ根拠のない多幸感に不安を感じるようになった。
 自分は他の人と違う。自分は他の人のような感じ方や考え方が出来ない。他の人は経験を積み重ねているのに自分にはそれがない。何か大事なことを忘れている。鏡に映る自分は子供ではないというのに。

 カツミによって真っ白に塗られたこころ。その上に単調な日常とはいえ様々な経験が重ねられる。だがそれは、カツミに会うたびにまた白く塗られてしまう。
 シドにはカツミが全てだった。シドにとってのカツミは最愛のジェイだったからだ。カツミに会えばこころが安らぎ、喜びが溢れかえる。
 しかしそれは束の間だった。カツミが駐留艦隊に出向く時には長い時間を不安のなかで過ごした。オッジからの距離では意識の操作は出来なかったからだ。
 幽閉が七年を超すと、シドは得体のしれない不安から夜中に叫ぶようになった。
 自分は何かがおかしい。自分の中身はあらゆるものが抜け落ちて、ジェイだけが空洞を埋めている。

 シドはどんどんやつれていった。カツミは今にも決壊しそうなシドの意識を押し留めながら、多忙な任務をこなしていた。仕事でミスをしたことは一度もなく順調に昇進を重ね、何度か作戦司令官にも任命された。だが、カツミもまた長期間の意識操作に疲弊していた。

 まずカツミに忠告をしたのはアーロンだった。これ以上シドの意識操作を続けて大丈夫なのか、と。
 週末。カツミと共にアーロン邸を訪れたルシファーも、シドの現状を見ると即座に告げた。今すぐ意識操作をやめるべきだと。
 だがカツミは二人の忠告を無言で突っぱねた。意識操作を解除することが、シドの自殺に繋がることを懸念していた。本心は……自らの恐怖心だったのだが。

 カツミはシドを失いたくなかった。自分がエゴを貫くことでシドを不幸にしているのは分かっていた。
 しかしシドに対する責任だけがカツミの生きる意味になっていた。

 カツミは常に生死の天秤の真ん中にいた。十年の間に特殊能力の制御を覚え、部下も増え、仕事の責任も増えた。周りから必要とされる人物となっていた。それでもカツミの両腕は、生と死が左右から引き合っていた。
 シドは、カツミを生に押し留める最後の防波堤だったのだ。

 しかし、その日は来た。
 今年。年が明けてすぐ、カツミが事故を起こした。
 通常任務から帰投したカツミだったが、機体がオーバーランしたのだ。他の機体との接触はなかったが、滑走路がしばらく使用できない事態となった。整備兵が駆け寄ると、彼は気を失っていたという。

 カツミの意識喪失。それによりシドの意識操作が解除された。記憶を取り戻したシドから狂気はすっかり消え失せていた。
 シドはすぐにカツミとの別離を決め、アーロン邸から出た。どこに行くとも何をするとも言わずに。
 カツミに操作されていた関係者の記憶も復元された。アーロンはシドのデータを以前のものに戻し、シドは十年の空白ののちに再び実在の人物となった。

 シドの行方は、数か月後にカツミに届いたカードが知らせた。ジェイの別邸がある南部。その更に南に下った先にある小さな港町。シドはいま、医師のいなかったその町で診療所を開いていた。

 現在、カツミとルシファーが向かっている南部。この海岸線の道をまっすぐ南に下ればシドの住む町に着く。しかし、シドはもうカツミとは会わないと告げていた。

 この十年で能力の制御を覚えたカツミは、特殊能力の封印を解いた。自分の能力をいたずらに恐れて硬く封印する必要はもうない。
 アーリッカ王女の夢を見るようになったのは、それからである。王女は数日おきにカツミの夢に現れては、はっきりと記憶に残る話をした。
 カツミはもう、その夢をただの夢と片付けることが出来なくなった。父の記録の裏付けがあったからだ。
 だが、その内容をルシファーに語ることはなかった。
 カツミは思っていた。あまりにも現実離れした話だ。ルシファーに話したところで、彼を悩ませるだけだと。そして……。
 ──あの白い世界。束ねるものと呼ばれる世界。あの場所に行くことは、自分の死を意味するのだろうか。
 それが、カツミがルシファーに予言の内容を話せない本当の理由だった。

 夢のなかで王女に問いかけることは出来なかった。彼女はいつも一方的に話すだけなのだ。
 白い世界の夢。幼い頃から恐れてきた夢だった。
 地平線の彼方まで薄く水が満たされた神秘の世界。水がなければ砂漠の真ん中に放り込まれたのと同じ。王女の言うような繋がりなどカツミは感じたことがない。

「最近、前に比べると自分の感覚がまるで違うんだ」
 内心の不安を隠し、離れた部分からカツミが話を始めた。ルシファーの反応を知りたかったのだ。
 この十年、ずっとフライトペアを組んできた相手である。そして二人はもう公認の仲。それでもルシファーはカツミとの距離を縮めようとはしてこなかった。
「どういうことですか?」
「うーん。いま、この車は100Dで走ってるよね」
「そうですね。制限速度をちゃんと守ってますよ」
 他の車が次々と追い越して行くが、ルシファーはこの休日をゆっくり過ごしたい気分でいた。カツミを独り占めできる休日はこれまでなかったのだから。

「俺だったら、音速の三倍出しても物足りないな」
「性能的に無理ですね。戦闘機じゃあるまいし」
 そう返しながら、自分が運転席に座っていることにルシファーはほっとした。相変わらずカツミのフライトオフィサに名乗りを上げる隊員はいないのだ。ルシファーだけがカツミの後ろに座れる人物だった。

「自分の速度と外の速度が違いすぎるんだ」
「自分の速度ですか」
「そう。こんな不確かなこと他人には話せないよ。能力者だからって片づけられてしまう。俺がいま、まともに話せるのはルシファーだけなんだ」
 異論を唱えたくなったルシファーは、即座に突っ込んだ。
「アーロンは違うんですか?」
「種類が違う」
「種類……ですか?」
「役割っていうのかな。二人に感じる必要性は質が違うんだ。どっちかを取れって言われたら俺はルシファーを取る。でも複数を取ってもいいならアーロンの手は離したくない」

 ルシファーはカツミにカマをかけられていたが、それに気づいていない。
 基本的に『聞かない』カツミには、相手の心の内は分からない。本心は怖くて訊けないのだが。
 そしてルシファーは他人の思考を常に『聞いて』きたので、人の気持ちを思い量ることが苦手なのだ。シールドの硬いカツミの気持ちは分からない。
 特殊能力者ではない人間にとっては当たり前のこと。それを二人は遠回りに再現していることになる。

 カツミの言葉の意図が分からないまま、ルシファーはもう一歩踏み込む。
「アーロンくらい必要な相手が他に出てきたらどうします?」
「取りに行く」
 即答だった。迷いのない返答にルシファーは思わず吹き出していた。
「ったく。貴方についていくのは大変だ。もう十年ですよ。俺にだって、それなりに独占欲ってもんがあるんですからね」
「それなりに?」
「貴方はほんと羽根でも生えてるみたいだ。しっかり掴んでいないと、どこに行ってしまうか分からない」
 その瞬間をカツミは逃さなかった。触れるのが怖い。無くすことが怖い。しかし想いは伝えなければ。

「ちゃんと戻ってくるから」
「えっ?」
「必ず戻ってくる」

 カツミの告白を聞いたルシファーは、驚いたまま固まってしまった。彼にとって意外すぎる言葉だったからだ。ルシファーは恐るおそる横を見た。カツミは前方の景色を眺めていたが、その横顔は真顔だった。
 ルシファーは、カツミの戻る場所は今でもジェイの元だと思っていた。カツミの心を捉えて離さず、一番の拠り所となっているのはジェイなのだと。
 そのカツミが最も欲しかった言葉をくれたというのに、ルシファーは驚いたまま言葉を失った。

 じりっと空白の時間が流れた。二人の想いの密度は違うのだろうか。カツミがそう感じてしまうのに、十分な時間が。
 ルシファーはカツミの自由を尊重し常に距離を置く。その距離感はカツミにとって心地良いものである。だが寂しい時もあるのだ。熱がないと感じてしまう時が。

 別荘地のなだらかな森が途切れ、視界一面に海が広がった。息詰まる空気を一掃するようにカツミが声をあげる。わざとはしゃいだ声を。
「海だっ!」
 即答しなかったルシファーに対する失望はある。だがカツミは追求をしなかった。
 かつてのカツミは違った。残酷なまでに他人の本心を暴き出していたのだ。まるで鏡に映すように。

 爽やかな潮風が窓から吹き込み、二人の髪を煽った。
 水の星のいのちの糧。この海があったからこそ、彼らの祖先は多くの困難を超えて移民を果たしたのだ。
「泳ぎたいな」
 カツミの独り言にルシファーがぼそりと突っ込んだ。
「泳げるんですか?」
「士官学校でベイルアウト(緊急脱出)して海に落ちた時のために訓練した。そこそこは泳げるよ」
「まあ、万に一つの可能性ですからね。大気圏すら抜けられない機体なんて勘弁してほしいし」
「はははっ」

 ──ちゃんと戻ってくるから。必ず戻ってくる。
 話題が変わった後も、ルシファーはカツミの言葉が頭から離れなかった。
 国の改革を進める同志であり支援者であるアーロン。そして拠り所であり続けるジェイ。ルシファーは二人の間に挟まれて、ずっと身動きが取れずにきた。
 しかしカツミはきっぱり言い切った。戻る場所は自分のところだと。

「取り敢えず、砂浜に降りたいな」
「御意。降りられる場所を探します」
 戻る場所。自分にその価値はあるのか。己に問いながら、ルシファーはナビを立ち上げた。
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