第一話 再会

文字数 3,512文字

 夜明け前。一艘の空母と複数の護衛艦が駐留先から帰還した。轟音が特区の上空に響き渡り、明々と灯された誘導灯と管制塔の灯り、そして整備隊の車両が粛々と艦隊を迎え入れる。
 能力者部隊の隊長は、帰還後のブリーフィングを前倒しで終わらせていた。にやりと笑ったユーリーを見て、ルシファーがぷいっとそっぽを向く。

 大気圏突入前。鮮やかに眼下に広がったこの星の蒼さ。広い海の美しさ。五大陸の緑と纏う雲の輝き。ルシファーは思った。ここだけが自分の戻る場所なのだ。ここにしか戻る場所はないと。
 一人の愛する人と彼を生かす場所。その存在を許す国と蒼い星。そして双子の星を抱くモアナ系。
 その全てが、繋がりが、ルシファーの生きる場所だった。

「走るなよ。緊急以外、走るのは禁止だからな」
「はいはい。好きなだけからかって下さいよ。耳に入りませんから」
 巨大なドライドックに飲み込まれる空母。格納が完了した重々しい振動。
「隊長はこれからどこに行くんですか?」
「あ? ああ。報告書を上げてから考えるよ」
「いないんですか? 誰か」
 ルシファーから手痛い反撃を食らったユーリーが、腹立ち紛れに言い返した。
「いたら、報告書なんか後回しだ!」
「みんな見る目がないですね」
「お前に慰められても、ちっとも嬉しくないわっ!」

 だが、ルシファーの送った意識を受け取ったユーリーは、驚いて口をつぐんだ。
『本当に、そう思ってますよ。隊長』
 ルシファーは、嫌味ではなく本心から「見る目がない」と言ったのだ。
 ルシファーは思う。ユーリーは、認め、育て、信頼することに長けている。性格に癖があるものの、内包している熱の質も量も確かなのだ。その熱さに触れれば、きっと多くの者が惹かれるはずだ。
「降りるぞ。くれぐれも走るなよ」
「はいはい」
「お前とペアを組めて良かったよ」
 照れ隠しの殺し文句を放ったユーリーが、わずかに口角を上げた。
 気が急いて前のめりになっていたルシファーだったが、不意打ちを正面から受け止め、足をぴたりと揃えて敬礼した。上官を見つめる視線に、多くの感謝を込めながら。

 ◇

「……俺、なんか怒らせるようなことしたっけ?」

 久しぶりに浴槽の湯に身体を沈めてゆったりできるはずのルシファーが、落ち着きなく首を傾げている。
 今は夜明け前の早朝5ミリア。世界は淡く蒼い光に包まれ、爽やかな風が空を洗っている。滑走路を行き交う整備車両のエンジン音だけがさざめく静寂の時だ。

 だが困惑に支配されたルシファーの脳裏には、「なぜ」というビープ音がずっと鳴り響いていた。
 ルシファーは、離艦後自室に荷物を放り込むなりカツミの部屋に直行した。どこにも寄らず、真っすぐに。
 帰還した恋人を笑顔で出迎えてくれると信じていたルシファーは、ドアが開いた途端面食らった。目に飛び込んできたのは、これまで見たことのないカツミの不機嫌顔だったからだ。
 キスどころか、まだ身体に触れてもいないんだぞ? 困惑したまま立ち尽くしていたルシファーを一瞥し、カツミが無言でバスルームを指差した。ルシファーがバスルームからカツミに視線を戻すと、カツミがこくりと頷く。どうやら入れということらしい。
 鋭い刃のように光るカツミの双眸は、ルシファーの確認や詮索を全て却下した。

 ユニットバスのドアを開ける。満たされている湯の暖かさがカツミの険しい視線と全く釣り合っていない。仁王立ちしているカツミをちらりと振り返った瞬間、以前体感した強烈な磁場がルシファーを激しく揺らした。
「完全なる一択……だな」
 全く訳がわからないルシファーは、黙って湯に浸かるしかなかった。カツミにではなく、当惑に抱かれながら。
 バタン! ルシファーの意識がいくらか湯にほだされた頃、突然開いたドアの音が平手打ちのように響いた。
 視線の先には、唇を噛み泣きそうな顔をしたカツミがいた。今度はなんなんだと新たな困惑にとらわれながらも、視線は一糸纏わぬカツミに釘付けになる。
 カツミの手が伸びて、カチリとシャワーボタンを押した。カツミはずっと無言のまま。見上げるルシファーも、口にできる言葉が見つからない。
 この二か月。一日たりともカツミを想わない日などなかったのだ。この美しい恋人のことを、一日たりとも。

「ルシファー」
 ようやく耳にできた恋人の声はひたすら甘い。しかし向けられる双眸の光は刺すように鋭い。
 バスタブの縁に手をついたカツミが顔を近づけてくる。だが、首に腕が回され、ルシファーは慌てた。
 まさか? いくらなんでもこの狭い浴槽に、野郎二人が入れるわけが!

 ルシファーの懸念はすぐに現実となった。胸の上に乗られたと同時に、ざばぁとお湯が溢れかえる。同時に、むさぼるようなキスが容赦なく降り注いだ。
『長かった』。カツミの感情が触れて、ルシファーの奥底にある意識がザワリと音をたてた。
『寂しかった』。こころの際(きわ)を引っ掻くような、ありのままの感情が滑り込む。
『会いたかった』。知っていたはずの相手に潜んでいた熱。それはそのまま、自分の中に隠れていた熱だった。

 手がつけられないほどに唇をついばまれたルシファーは、両手でカツミの頬を包み込んだ。
 ほんのりと色づいた唇が、紡ぎたくても紡げない言葉を探すように、わずかに開いては閉じられた。

「遅いよ! ルシファー」
 泣きながら責める言葉とは真逆の想いが溢れていた。
「どれだけ、待たせるんだよっ!」
 二人の想いを言葉で証すのは無意味だ。
『二か月も気配ひとつ分からない距離だったのに』
「すみませんでした。待たせて」

 なぜ謝っているのか分からないのだが。いや、謝る必要など一つもないのだが。謝罪したルシファーは濡れたカツミの髪をかきあげた。
 完全にカツミのペースに乗せられている。それは分かっていた。しかし抗う理由など何ひとつない。この至福を拒む理由がどこにあるというのだろう。

 頬を膨らませたカツミが、シャンプーボトルを引っ掴んだ。中身を頭の上にたっぷりとぶちまけられたルシファーは、ついでにお湯をかけられて乱暴に髪を洗われる羽目になった。

 どうやらまだ怒られているらしい。こんなことが以前にもあったなと、ルシファーは既視感を覚えていた。
 自分はあの時なんと言っただろう。捨て猫には弱い? 十年後、とんでもない猛禽類が現れるとも知らずに、甘っちょろいことを。

 シャワーのお湯がようやく視界を開いた。泡が消えるのを待てないというように、カツミが全てをしゃぶり尽くそうとする。
 ルシファーの腕の中には、まるで自制の効かないカツミがいた。しゃくり上げる声が耳に届く。荒れ狂う感情の波が飛沫を散らして押し寄せる。
 想いの密度はまるで変わらなかった。ルシファーは思わず溜息をつく。カツミは自分を映している。今爆裂しているカツミの熱は、すなわち自分の熱なのだ。身中に潜んでいた膨大な熱を無視しようとした自分の暗愚に呆れてしまう。

 これは当分、解放されそうもない。されたくはないが、されそうもない。しかし恐ろしく狭い上に泡だらけなのだ。おまけに上から圧し掛かられていては、身動きすら出来ない。
 ルシファーはバスタブの湯を落とすレバーを引いた。浴槽に足をつき身体を引き上げる。浮力を失ったあと露わになった身体を目にして、押さえなど利くはずもない。

 カツミの心と、そして身体に、自分がどれだけ溺れていることか。その指と唇との愛撫に、どれだけ幻惑されていることか。
 イカレているのは、むしろ自分の方なのだろう。
 この二か月。自分はカツミの心については、嫌というほど思考を巡らせた。しかしそれを包む身体については、やはり逃げをうっていたのだ。
 カツミから注ぎ込まれた以上の熱をルシファーは激しく注ぎ返す。喰らい尽くしたいとさえ思う。
 甘く小さく漏らされるカツミの吐息。それを聞きながら、泡の残る滑らかな背中に指を這わす。首筋から背中へ。背骨の一つ一つを辿るように。
 しかしその指が腰の下を辿った時、カツミがびくりと身を捩って声を上げた。

「やめて……くすぐったい」
「えっ?」
 いつもと同じ愛撫なのに? くすぐったいなんて言われたことは一度もないのに。ルシファーが思わず聞き返した。
「どういう?」
「分かんない。シスが増えてから全ての感度が上がったみたいで」
「全ての……感度?」

 見方を変えれば、それは罠かもしれない返答だった。しかしルシファーは構わず溺れることにした。快楽の限界に挑む衝動を抑える必要など、どこにもなかったからだ。
 沈着冷静なはずのルシファーが幻惑の渦からどうにか生還できたのは、その日の昼も過ぎた頃であった。

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