第五話 球体に映る社会

文字数 2,759文字

「あれ。あの人」
 ハイウェイに乗る前の交差点でカツミが呟いた。
 中心街の大きなスクランブル交差点。通勤ラッシュの真っただ中。横断歩道の先頭で信号待ちをしている二人の車の前を、大勢の人々が通り過ぎていく。

「あの人って?」
 クレイルはカツミの示した人物をすぐには探し当てられなかった。だが視線の先を追っていると、一人の若い女性が浮き上がっているように感じられた。
 黒いスーツ。黒い髪。怯えたような表情。吸い寄せられるように二人の乗った車に向かって来る。そして女性が車の前を横切ろうとした時、カツミが呟いた。

「大丈夫。怖くないから」
 弾かれたように顔を上げた女性に、カツミが優しく微笑んだ。足を止めようとした女性は、虚しく人波に押し流されていった。泣き出しそうな、だがどこか安堵した表情を浮かべて。

 車が高速道路に乗った。時が緩むのを待っていたカツミがぽつりと言う。
「能力者だった」
「そうでしたね」
 百人に一人いる能力者は、ゲートの外にも同率で存在している。そして特区とは違い、彼らは能力者であることをひた隠しにしているのだ。
 日差しはもう強い。空調を操作したカツミが、その指でラジオのスイッチを入れた。目覚めたラジオがすぐに曲を紡ぎ始めたが、流れてくる歌声を聴いてクレイルが絶句した。よく知っている曲だったからだ。

 ──夏の夕陽の中、淡い色が映える。落ちゆく光を映し、色に色を重ねる。宵闇も朝の光もまた、その花びらを染める。花の色はいずこ。否、全てがそのものの色。
うつろう光の現身(うつしみ)こそが花の色。

「あれ。同じ歌い手だ。アーロン。曲、変えたんだ」
 クレイルは、カツミの呟きを聞き逃さなかった。
「アーロンって、あの?」
「そう。こうして意図的に同じ曲を流しているんだ。最初は讃美歌みたいな曲。『血の宝石』って曲名だった」
「血の宝石ですか」
「次が『運命の人』。今でもたまに流れるよ。でもこの曲は初めて聴いたな。なんて曲名なんだろ」
 クレイルは知っていた。もう何度も聴いていた。
「『うつろう光の現身』って言うんですよ。この曲」
「えっ。新曲じゃないの? メーニェで流れてたの?」

 クレイルは答えられなかった。だが曲の終わりにパーソナリティが今週の新曲だと告げた時、カツミがすぐに察した。
「予知だったんだ」
「そうですね。ちょっと驚きました」
 知っていることのどこまでが現実に体験したことで、どこまでが夢なのか。同じ夢を見続けていると現実との境界が曖昧になっていく。同時にクレイルは訝る。それにしては、あまりにはっきりした記憶だったなと。
 夢の支配。それがどれだけ大きなものなのか。意識するにしろ無意識にしろ、自分の人生の大半は夢に支配されている。その最も端的なものが、カツミへの想いなのかもしれない。

「意図的って、どういうことですか?」
 意識を現実に戻したクレイルが、カツミに追加の説明を求めた。
「ああ。いわゆる刷り込み。サブリミナルだよ」
「なるほど。長くやってるんですね」
「アーロンはこの国を変えたいんだ。だから俺のパトロンなわけ」
 理由はそれだけではないだろう? クレイルはカツミの美しい横顔をちらりと見やりながら吐息を漏らした。
 先ほど交差点で見た女性も、安堵するより先に頬を染めていた。意識を送ったのがカツミじゃなかったら、緊張していた彼女はもっと萎縮してしまっただろう。
 どこまでが天然で、どこまでが計算か。それを言ったルシファーだけでなく、カツミ自身にも分からないのだろう。

「そう言えば、カツミ。今さらですけど。あの交差点、大丈夫でした? 怖くなかったですか?」
「難しいな。確かに以前より透けて見える。しかしなんて言うんだろ。ほとんどの人たちが人形みたいなんだ」
「人形ですか」
「さっきの刷り込みじゃないけどさ。思考することを奪われてる感じ。だから能力者への悪感情すら見えにくい。特殊能力者が大きな事件でも起こしたら、そりゃあ社会はそのニュースに注目するだろうし、危険な連中がいたんだってことを再認識するんだろうけど、そういうのって日頃は隠されてるから。なんだか人工知能の中にいるみたいだった」
「整備され尽くした社会ですか。一見は平穏に平等に。しかし内実は違う」
「だね。綺麗に並べて表面を磨いて。でも本当のものは押し込められてる。知らされているのに認識されてない。歪んでるから」
「歪んでる。ですか?」
「球体の鏡に映ったものを見てるんだよ。映るには映るけど大きく歪んでる。でも、それが当たり前になってて、おかしいと感じなくなってるんだ」
「ああ。なるほど」

 分かりやすい例えだと思ったクレイルは、そこにカツミの意図を感じ取った。
 人形。人工知能。綺麗に並べ磨かれたもの。球体の鏡。カツミは、他人に伝えるのが難しい感覚を言葉にしようと努力しているのだろう。
 クレイルが垣間見たカツミの過去は、あまりにも苦悩に満ち、あまりにも視点が凝り固まっていた。冷え切った心が、外からの働きかけを拒んでいた。
 生か死か。白か黒か。味方か敵か。物事が二元論でしか考えられない。ぎこちない心が莫大な能力を持て余し、心も力も悲鳴をあげていた。
 しかし今は違う。カツミには、すでに他人を受け入れる心構えができている。その際、相手の真情を探ろうとするのは仕方ないのだろう。本当の意味で打ち解けようとするなら、誰でも互いの価値観を比べる。そうするのはカツミのような能力者に限ったことではない。
 解放すること。切って捨てられないものを認めて受け入れること。カツミは受容を試しながら、まだ満たされていないものすら他人に差し出そうとしているのだ。
「クレイル。なんか難しいこと考えてる?」
「別に。いつものくだらない頭の体操ですよ」
 混ぜっ返したクレイルを横目で見て、カツミがくすくすと笑った。
 クレイルは車を自動走行に切り替えるとハンドルから手を放した。シートを倒し、サンルーフから空を見上げる。青い空に白い入道雲。初夏の陽光。メーニェの灼熱とは違う。生命が育まれ伸びゆく季節の光だ。
 車内はベンチシートである。クレイルの胸は、すぐカツミに占領されてしまった。油断も隙もないな。呆れながらも、同時に喜びを感じる。ふわりとしたカツミの猫っ毛を撫でながら、クレイルは流れる雲に目を細めた。
 距離も情熱も慈しみも。あの空の彼方にいてカツミに注ぐ人物がいる。自分がここにいる意味は、百年の願いの結実と、彼にカツミを戻すこと。
 そのために自分はどんな色が差せるのだろう。全てを捨てて守りたいと願った人に向けて。

 自分が決めたのは、覚悟したのは、もう決して後ろに引かないこと。何ひとつ後悔はない。
 指先でカツミの耳のピアスに触れる。全ての鍵となるものが、そこにあった。

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