第四話 水盤

文字数 3,117文字

 カツミは、シャンパングラスをじっと見つめていた。
 繊細な泡は、捉えられていた淡い黄昏色の液体から解き放たれ、螺旋を描いて立ち昇る。春の初め、この邸宅の庭に咲き誇る白い花のように、高貴な香りを漂わせながら。
 飴色のゼリーは煮凝りだろうか。旬の野菜と魚介が閉じ込められ、ピリリとした薬味が乗せられている。
 無花果とマスカルポーネ。木の実のキャラメリゼ。パリッとした野菜に添えられたレバーペースト。
 食の細いカツミは前菜をほんの少しついばんだだけ。しかし趣向の凝らされたアンティパストにすっかり満足していた。

 アーロンが食前酒で口を湿らすと、カツミとクレイルに新情報を明かした。
「メーニェの統率者が死にました。シス計画は縮小されるでしょう」
 驚いた二人が顔を見合わせる。
「特殊能力に覚醒したキース・ブライアントは、自己矛盾に苛まれたのでしょう。自死しました。それと例の胎児クローンですが、自我を削りすぎて使い物にならず、失敗に終わったようです」
 あまりに皮肉な結果だった。絶句したままの客人に、口端を少し上げた当主が、こともなげに告げた。

「導く者が意識を操作すれば、双子の星は根幹から変わる。この国は血を流すことなく本当の独立を手にすることができるかもしれません」
 いかに超常的なことでも、不可能に見えることでも、アーロンはそれらを否定しない。カツミという特殊能力者とずっと共にいたためなのか。ロイの残したデータに確信を持っているのか。クレイルはアーロンの思考の柔軟さに感嘆するばかりだった。

「そういえば先日、南部にいらしてましたね」
 話題を変えたアーロンを、カツミが少し上目遣いで見た。
「ごめん。勝手に入って。もうてっきり取り壊してると思ってたから」
 カツミの謝罪を、いつもの人を食ったような表情でアーロンがさらりとかわした。
「構わないよ。あの家の所有権は、お前にあるからね」
「えっ?」
「ジェイの遺言状はそのままにしてある。お前が戻ってきたら、垂直離着陸機でも置いて出迎えてやるよ。ヘリじゃ物足りないだろうからね」
 アーロンの真意を図りきれないカツミが、何度も瞬きをしている。それをおかしそうに見つめてから、アーロンがクレイルに視線を移した。
「食べることは癒すこと。心を維持するために必要なもの。貴方はカツミにそう言ってましたね」
 やっぱり、がちがちに監視されていたか。苦笑しながらクレイルが頷いた。
「あの言葉だけで、貴方のカツミに対する気持ちは伝わりました。ここに亡命するまでの間、多くの危機と困難を切り抜けてこられたのでしょう。しかし貴方はカツミに必要な人物なのです」
 それを聞いて、クレイルがわずかに頷きながら目を細めた。
「私は王女の使い役ですが、ちょっとした穴埋め要員に過ぎませんから」
 クレイルの謙虚な返答が本心からであることを確信したのか、アーロンの笑みが柔らかくなり、すんなり次の質問が投じられた。

「それはそうと。中佐。リーンはどうですか?」
 アーロンのやつ、変なことを聞くんだな。カツミが疑問の表情を浮かべた。
 リーン──。あの実験で崩壊した彼は、もうこの世にいないのではなかったか。彼の気配は微塵も感じられない。存在は無に帰したと思っていたが。

「ご安心下さい。順調です」
 カツミが思わず耳を疑う。振り返ったクレイルが、自らに確かめるようにして真相を明かした。
「カツミ。クローンの再生です。リーンは新しく生まれ変わるんですよ」
「えっ?」
「実験に提供して頂く条件が、再生してお返しすることだったんです」
 そうか。リーンはミューグレー家の後継者になるんだな。カツミがそっと目を瞑った。リーンはこの屋敷で愛情を注がれ、今度こそ人として生きる。無慈悲な冬を乗り超えた春の芽生え。希望の子になるんだな。

「良かった」
 カツミの呟きを聞いて、アーロンの心に感傷と感慨がじわりと滲んだ。
 人は生まれる場所を選べない。しかしカツミは選ばれて生まれてきたのかもしれない。
 カツミは過去を超えられるだけの潜在能力を備えている。だからこそ運命を変える大役を託され、冬の時代を乗り切る試練を課せられた。
 自分が成長すると同時に、周りに集う者全ての意識を変える。それがカツミに突きつけられた厳しい課題だ。
 束ねるものがカツミに課した試練は、同時に特殊能力者に対する認識への問いでもあったのだろう。

 全ては繋がっていた。カツミを基点として全ての命が繋がっていた。
 アーロンの脳裏に大きな水盤が浮かんだ。水盤の真ん中に投げ入れられた小石は、血の宝石だった。
 その石が水中に沈むと、水面に等間隔で波紋が広がる。最初は強く、徐々に緩やかに。やがて波紋は水盤の縁に到達する。跳ね返った波は、今度は波紋の中心に向かって逆走する。あらゆるものを携えて逆走するのだ。

「カツミ。もうすぐルシファーが帰ってくるな」
 アーロンが確かめると、カツミの表情が和らいだ。
 カツミの変化はルシファーの変化。離れていても二人は繋がり、離れたからこそ運命の楔を確認できたのだった。

 ◇

 ゆったり進んだ晩餐を終えたクレイルは、笑みを浮かべながら会釈した直後にさっと消えた。来た時と同じように、ほんの一瞬で。クレイルの空席を恐々見ていたアーロンだったが、すぐにカツミをいじった。
「なんで、お前を連れて戻らないんだ?」
「気をきかせたから。だろうね」
 アーロンの軽い揶揄を、カツミがくすくす笑いながら躱(かわ)した。呆れ顔のアーロンが突っ込みをひとつ追加する。
「手に負えないって、どういうことだ?」
「想像に任せるよ」
 アーロンは瞬間移動で現れたクレイルが口にした言葉をしっかり覚えていた。にやにや笑っているカツミを見て、肩を竦める。

 グラスを手にしたアーロンは、カツミが席を立って隣に座ると、困ったやつだと言うようにもう一度呆れてみせた。頬に添えられたカツミの手のひらに応えるように、グラスをテーブルに戻す。
 この日の午後、二千人の人物を魅了した瞳が、今たった一人に光を注いでいた。

「アーロン」
「なんだ?」
「伝わるものが昔と変わった。あんたは俺のことずっと試してたけど、今は違うものが見える」
「試していたのは、お前も同じだろう?」
「そうだね。俺も変われたのかな」
 変われたのだろうか。超えられたのだろうか。許せたのだろうか。与えることが出来ているのだろうか。そして、導くことが出来るのだろうか。
「お前がなんの恐れもなく他人に飛び込んでいく意味が、ようやく分かってきたよ」
 澄んだオッドアイが、瞬きをした。

「お前はいつも与えたいと思ってきたんだ。満たしていないうちから与えたいと思ってた。保身も何もない。傷も裏切りも、お前の気持ちを遮れなかったんだ」
「俺はアーロンに与えることが出来てる?」
「十二分にね。……私は、ジェイほど察しが良くはなかったけどね」

 長い間ジェイを嫌悪し続けていたアーロンが、さらっとジェイの存在を認めた。それはカツミがずっと欲しいと願っていた言葉だった。ふわりと笑みを浮かべた彼が、さらに顔を近づける。

「カツミ。これ以上近づくと護衛が飛び出してくるぞ」
「じゃあ、寝室に上がる」
 即答したカツミの瞳に吸い寄せられる。アーロンは、どうしても目を離すことができなかった。
「なぜ私は、お前に抗えないのかな」
「アーロンが俺に映ってるからじゃない?」
 近づけば近づくほど、磨きこまれた鏡に映る自己。そこにまざまざと示される本心。
 抑え難い熱と溢れ出る慈愛を引き出す奇跡の宝石。

 ふうと息をついたアーロンがソファーに倒れ込む。
 注ぎ込んだ熱を注ぎ戻すような、濃厚な口づけを受けながら。


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