第二話 情熱
文字数 2,819文字
挨拶の後、アーロンはシドに酒のグラスを差し出すと、ひとつ頼み事をした。
「ドクター。貴方の話は食事の時に聞きましょう。良かったらルシファーの話を聞いてやってくれませんか?」
驚いた表情のルシファーと、いつもの人を食ったような表情のアーロン。それを見比べてから、シドがふっと目を細めて頷いた。
「ルシファー。先ほどの件は、ドクターになら話しても大丈夫だ。うちの組織の情報は共有してるからな」
そう告げてアーロンが客間を出た後も、ルシファーは戸惑ったままでいた。
本当の覚悟。アーロンの言葉の意味は何なのか。
シドがこれまで超えてきたことを思えば、多くの覚悟があったことだろう。しかしシドは、アーロンに話があってわざわざここに来たのでは? その時間を奪ってもいいのだろうか。
「すみません」
それがルシファーの最初の言葉だった。首を傾けたシドに理由が言い足される。
「ほんの今。俺にとって、とても受け入れ難いことを聞いたんです」
ルシファーは手帳をシドに手渡すと、アーロンの言葉をそのまま伝えた。目線を落とし、シドは黙って聞いている。だがルシファーが話し終わると、こう断言した。
「内通者を送り込んだのはメーニェの新しい統率者だ。彼の目的は特殊能力者の皆殺しなんだよ。メーニェだけじゃない。この国もだ」
「なっ!」
──皆殺し。ルシファーの持っていた価値観が無残にも突き崩される音がした。シドは二の句が継げないルシファーに容赦なく畳みかける。
「この国は能力者を道具として使ってきた。しかし皆殺しなんていう極端な考えにそそのかされる人物もいるんだよ。道具だからね。自分たちの利益になるなら、どんな利用の仕方をしてもいいって事だ」
驚愕で目を見開いたままのルシファーを安心させるように、シドが言葉を繋いだ。
「ルシファー。この件はもう手を打っている。内通者はもうすぐ拘束される。ただ再発の危険はあるんだ。聞く者の君であっても探れなかったんだね」
シドの問いはルシファーの慢心を打ちのめした。たとえ聞けたとしても、全てが捻じ曲げられていれば疑問を持てないのだ。疑問を持ってこそ探ろうという意志が生まれる。
ルシファーは安心しきっていた。A級能力者は特区にとって最も必要な人材。だから血眼になって探しているのだと信じて疑わなかった。
「能力を武器にして、のし上がっていく。特区の能力者は、そう思ってるだろうね。戦場では能力を解放できるし、評価もされる。カツミだって戦地では解放してるだろう?」
「はい。ずっとそうでした」
これまでの十年、ルシファーはカツミと行動を共にしてきた。駐留艦隊への派遣も日常の任務も。
「ルシファー。ゲートの外だと能力の解放なんて出来ないよね。評価どころか差別される側だ。能力者にとっては、特区は檻であったとしても拠り所なんだ。カツミみたいに天涯孤独だと、余計にそう思ってるんじゃないかな。君は退官しても帰る場所がある。しかしカツミにはもうないからね」
静かに紡がれるシドの言葉。ルシファーにもそれは分かっていた。分かっていると思っていた。
「寄り添ってきたつもりです。カツミが戻って来られる場所であろうと」
「十分過ぎるほど寄り添っているよ。しかし君に足りないものがある。何か分かるかい?」
シドが真っすぐルシファーを見つめていた。ただその眼差しは柔らかい。どこまでも包み込むように温かい。
「……思いつきません」
ルシファーの返事を耳にしたシドが、いつもの苦笑を浮かべた。彼の表情は穏やかなままだったが、次に口にされた指摘は鋭く厳しいものだった。
「激しさだよ。ルシファー。情熱だよ」
「えっ?」
「私が言うと笑われそうだがね。しかしあえて言わせてもらうよ。嫉妬でも渇望でも、執着でも独占欲でも、全ての起源はどこにあるんだい?」
「……相手への」
「相手への?」
「……愛情です」
「正解だ。ルシファー。じゃあもう一つ聞こうか」
シドは追撃の手を休めなかった。
「カツミと喧嘩したことはあるかい?」
その問いかけにルシファーは言葉を失った。ただの一度もなかったからだ。十年前のあの時期以来、ただの一度も。
「ルシファー。君たちは恋人どうしなんだろう? 特区を飛び立つ時には命を預けるペアだよね。まるで違う環境で育ったのに喧嘩の一つも出来ないのは、おかしいと思わないかい?」
「おかしい?」
「カツミを本気で奪う者が出てきたら、君はどうするんだ? 彼が望むことだからと、黙って見送るのか? それが本当の愛情だと、まさか思ってないだろうね? 君に本当の覚悟があるのなら、全てを捨ててもカツミだけは欲しいと思うんじゃないのか?」
シドは、ルシファーがカツミに対して腫れ物に触るように接してきた事が欺瞞だと見抜いていた。カツミの意志を尊重し、翼を折らないようにと配慮したことは、しょせんルシファーの自己保身でしかないと。
ルシファーの脳裏に、あの亡命者のベイルアウトした場面が蘇る。カツミを本気で奪う者。あの男が、クレイル・リミターがもしそうだとしたら、自分はどうするのだろう。それがカツミの望みだからと黙って見送るのか? まさか。
これまで、アーロンに対して激しく嫉妬してこなかった理由。ルシファーはその理由に行き当たっていた。
自惚れているのだ。自分以上の者など決していないと自惚れきっているのだ。
必死に、死に物狂いで手を伸ばすことなど、自分はこれまでしたことがない。全てを捨てても奪い取りたいと、欲しいのだと思ったことも。
自分は逃げていた。カツミの戻る場所は結局ジェイなのだと思うことで、カツミの本当の気持ちを知ることから逃げていた。
自惚れながらも逃げている。自分はどれだけ卑怯者なのか。上っ面だけで分かったふりをして、理屈を振り回して。自分の本気はいったいどこにあったというのか。
シドは絶望的な自制を乗り越えた人物だった。得られないものを得たいと望み、心が壊れるまで渇望した人物だった。
「ルシファー。私は君をカツミのパートナーだと思っているんだ。その意味を考えたことはあるかい? 本気でカツミと生きる覚悟はあるのかい? ありのままで彼に接することができるのかい? 彼だけが欲しいと、他を全て捨てられるのかい? 自分の願いや欲求を本気でぶつけずに愛を語れるのかい?」
ついさっき覚えた悔しさが、形を変えてルシファーを襲った。シドから突き付けられた詰問に、何ひとつ答えられなかったからだ。
今まで、そんなことはただの一度もなかった。それなのに、何ひとつ……何ひとつ言い返せない。
「ルシファー。カツミは君に心配をかけないように頑張ったようだね」
それはシドがカツミと別れる時に告げた言葉だった。
「全く。いつまで経っても馬鹿正直だよ。カツミは」
シドの皮肉は辛辣だったが、瞳には慈しみが満ちていた。そこには、本当の覚悟をしてきた者だけが勝ち得る強さと優しさがあった。
「ドクター。貴方の話は食事の時に聞きましょう。良かったらルシファーの話を聞いてやってくれませんか?」
驚いた表情のルシファーと、いつもの人を食ったような表情のアーロン。それを見比べてから、シドがふっと目を細めて頷いた。
「ルシファー。先ほどの件は、ドクターになら話しても大丈夫だ。うちの組織の情報は共有してるからな」
そう告げてアーロンが客間を出た後も、ルシファーは戸惑ったままでいた。
本当の覚悟。アーロンの言葉の意味は何なのか。
シドがこれまで超えてきたことを思えば、多くの覚悟があったことだろう。しかしシドは、アーロンに話があってわざわざここに来たのでは? その時間を奪ってもいいのだろうか。
「すみません」
それがルシファーの最初の言葉だった。首を傾けたシドに理由が言い足される。
「ほんの今。俺にとって、とても受け入れ難いことを聞いたんです」
ルシファーは手帳をシドに手渡すと、アーロンの言葉をそのまま伝えた。目線を落とし、シドは黙って聞いている。だがルシファーが話し終わると、こう断言した。
「内通者を送り込んだのはメーニェの新しい統率者だ。彼の目的は特殊能力者の皆殺しなんだよ。メーニェだけじゃない。この国もだ」
「なっ!」
──皆殺し。ルシファーの持っていた価値観が無残にも突き崩される音がした。シドは二の句が継げないルシファーに容赦なく畳みかける。
「この国は能力者を道具として使ってきた。しかし皆殺しなんていう極端な考えにそそのかされる人物もいるんだよ。道具だからね。自分たちの利益になるなら、どんな利用の仕方をしてもいいって事だ」
驚愕で目を見開いたままのルシファーを安心させるように、シドが言葉を繋いだ。
「ルシファー。この件はもう手を打っている。内通者はもうすぐ拘束される。ただ再発の危険はあるんだ。聞く者の君であっても探れなかったんだね」
シドの問いはルシファーの慢心を打ちのめした。たとえ聞けたとしても、全てが捻じ曲げられていれば疑問を持てないのだ。疑問を持ってこそ探ろうという意志が生まれる。
ルシファーは安心しきっていた。A級能力者は特区にとって最も必要な人材。だから血眼になって探しているのだと信じて疑わなかった。
「能力を武器にして、のし上がっていく。特区の能力者は、そう思ってるだろうね。戦場では能力を解放できるし、評価もされる。カツミだって戦地では解放してるだろう?」
「はい。ずっとそうでした」
これまでの十年、ルシファーはカツミと行動を共にしてきた。駐留艦隊への派遣も日常の任務も。
「ルシファー。ゲートの外だと能力の解放なんて出来ないよね。評価どころか差別される側だ。能力者にとっては、特区は檻であったとしても拠り所なんだ。カツミみたいに天涯孤独だと、余計にそう思ってるんじゃないかな。君は退官しても帰る場所がある。しかしカツミにはもうないからね」
静かに紡がれるシドの言葉。ルシファーにもそれは分かっていた。分かっていると思っていた。
「寄り添ってきたつもりです。カツミが戻って来られる場所であろうと」
「十分過ぎるほど寄り添っているよ。しかし君に足りないものがある。何か分かるかい?」
シドが真っすぐルシファーを見つめていた。ただその眼差しは柔らかい。どこまでも包み込むように温かい。
「……思いつきません」
ルシファーの返事を耳にしたシドが、いつもの苦笑を浮かべた。彼の表情は穏やかなままだったが、次に口にされた指摘は鋭く厳しいものだった。
「激しさだよ。ルシファー。情熱だよ」
「えっ?」
「私が言うと笑われそうだがね。しかしあえて言わせてもらうよ。嫉妬でも渇望でも、執着でも独占欲でも、全ての起源はどこにあるんだい?」
「……相手への」
「相手への?」
「……愛情です」
「正解だ。ルシファー。じゃあもう一つ聞こうか」
シドは追撃の手を休めなかった。
「カツミと喧嘩したことはあるかい?」
その問いかけにルシファーは言葉を失った。ただの一度もなかったからだ。十年前のあの時期以来、ただの一度も。
「ルシファー。君たちは恋人どうしなんだろう? 特区を飛び立つ時には命を預けるペアだよね。まるで違う環境で育ったのに喧嘩の一つも出来ないのは、おかしいと思わないかい?」
「おかしい?」
「カツミを本気で奪う者が出てきたら、君はどうするんだ? 彼が望むことだからと、黙って見送るのか? それが本当の愛情だと、まさか思ってないだろうね? 君に本当の覚悟があるのなら、全てを捨ててもカツミだけは欲しいと思うんじゃないのか?」
シドは、ルシファーがカツミに対して腫れ物に触るように接してきた事が欺瞞だと見抜いていた。カツミの意志を尊重し、翼を折らないようにと配慮したことは、しょせんルシファーの自己保身でしかないと。
ルシファーの脳裏に、あの亡命者のベイルアウトした場面が蘇る。カツミを本気で奪う者。あの男が、クレイル・リミターがもしそうだとしたら、自分はどうするのだろう。それがカツミの望みだからと黙って見送るのか? まさか。
これまで、アーロンに対して激しく嫉妬してこなかった理由。ルシファーはその理由に行き当たっていた。
自惚れているのだ。自分以上の者など決していないと自惚れきっているのだ。
必死に、死に物狂いで手を伸ばすことなど、自分はこれまでしたことがない。全てを捨てても奪い取りたいと、欲しいのだと思ったことも。
自分は逃げていた。カツミの戻る場所は結局ジェイなのだと思うことで、カツミの本当の気持ちを知ることから逃げていた。
自惚れながらも逃げている。自分はどれだけ卑怯者なのか。上っ面だけで分かったふりをして、理屈を振り回して。自分の本気はいったいどこにあったというのか。
シドは絶望的な自制を乗り越えた人物だった。得られないものを得たいと望み、心が壊れるまで渇望した人物だった。
「ルシファー。私は君をカツミのパートナーだと思っているんだ。その意味を考えたことはあるかい? 本気でカツミと生きる覚悟はあるのかい? ありのままで彼に接することができるのかい? 彼だけが欲しいと、他を全て捨てられるのかい? 自分の願いや欲求を本気でぶつけずに愛を語れるのかい?」
ついさっき覚えた悔しさが、形を変えてルシファーを襲った。シドから突き付けられた詰問に、何ひとつ答えられなかったからだ。
今まで、そんなことはただの一度もなかった。それなのに、何ひとつ……何ひとつ言い返せない。
「ルシファー。カツミは君に心配をかけないように頑張ったようだね」
それはシドがカツミと別れる時に告げた言葉だった。
「全く。いつまで経っても馬鹿正直だよ。カツミは」
シドの皮肉は辛辣だったが、瞳には慈しみが満ちていた。そこには、本当の覚悟をしてきた者だけが勝ち得る強さと優しさがあった。