第二話 かしずく
文字数 2,789文字
「ルシファーに牽制されるのは勘弁願いたいのだがな」
今さらのようなアーロンの呟きに、カツミが小さく笑った。
とうに真夜中を過ぎたアーロン邸の寝室。豪奢なベッドの天蓋の下に二人は横たわっている。
シドがこの屋敷を去ってからもカツミは時おり一人で訪ねては、まるで試すようにアーロンを誘う。誘われた側も決して拒まない。
「あいつは、そんなちっせえ奴じゃないから」
カツミの言葉に、アーロンは呆れかえりながら思う。この気まぐれな小悪魔に抗えることのできる者は、そうそういないだろうと。
「ルシファーに予言の話はしたのか?」
アーロンの問いにカツミがかぶりを振った。
「なぜだ?」
「なぜって。話してなんになるの?」
「……」
「アーロンには話す義務があると思うけど、ルシファーに話したら、彼は自分ではどうにも出来ないことで悩むことになる。そんなことに巻き込みたくないよ」
「彼は、お前の恋人じゃないのか?」
「そうだけど。でもこれは俺だけの問題だと思ってる。それに……。いや、なんでもない」
「カツミ?」
アーロンは腑に落ちなかった。二人がかつての双璧の再臨だというのなら、カツミの言葉はあまりに乾いている。この十年。二人はずっとフライトペアを組み、互いに命を預けてきたのではなかったか? カツミの心を一番占めているのはルシファーではないのか?
会話を遮るようにカツミが着ていたシャツを脱ぎ捨てアーロンの上に覆いかぶさった。
ゆるやかに癖のあるクリーム色の髪がぱさりと揺れ、クリムゾンとトパーズの瞳が刺すようにアーロンを見下ろす。仄暗い照明の中でも、その赤い瞳が心をえぐるように注がれているのが分かる。
「美しいな」
アーロンはもう追及をしなかった。しかし代わりに告げた賛辞には、感嘆だけでなく皮肉がこもっていた。
カツミの美しさは危うさと孤高の美しさ。他人を魅了しながらも、彼は誰の手の中にも落ちない。唯一カツミを手にできた人物は、もうこの世にはいないのだ。
「お前は自分の美しさをまるで分かっていない」
アーロンが今度は真っすぐに皮肉をぶつけた。しかし彼を見つめるオッドアイには困惑が浮かんだ。
「お前を繋ぎとめておきたいのは、ルシファーだけではないということだよ」
カツミが焦れたようにアーロンの頬を手で包み唇を奪った。彼は予言のことをひと時でも忘れたかったのだ。
すぐに身体を返されたカツミは、アーロンの向ける容赦ない愛撫に甘い声を漏らした。
アーロンは思う。妖艶な小悪魔。カツミをどこまでも追い込み絶頂に導くのは、なかなか得難い快楽だと。
落ちなくとも手放せるはずなどないのだ。誰であったとしても。
甘い香りがしていた。飛び立つ前の小鳥のような花々が屋敷の前庭で満開になっている。夜になるとその香は一層際立つ。
カツミの身体は紅い花びらが散らされたように彩られていく。幾つも幾つも残される痕は、これから数日は消えないことだろう。それはジェイに印されていたような淡いものではない。心ごと食らい尽くすような激しさで、アーロンの唇はカツミの身体をなぶる。
傷みが快楽に、それが陶酔に変化してカツミが全てを投げ出すまで、アーロンは手を緩めない。クリムゾンとトパーズの瞳が潤んだまま見開かれていく。薄く開いた唇から漏れる抑えた声。
やがてどんな些細な行為にもカツミは身悶える。解放を懇願する視線を向けられてもアーロンは焦らし続け、カツミの要求に応えない。
長く長く待たされた後、ようやく絶頂を迎えることを許されたカツミが、張りつめていたものを全て手放して深く吐息を漏らした。
それをじっと見下ろすジェイと同じ色の瞳。束ねていた金髪はすっかり乱れ、カツミの頬に触れている。
動きを止めたまま見下ろしているアーロンの真意が分からず、カツミが問いたげに見つめた。その視線を受け止めたまま、アーロンはカツミの足元まで下がった。
「アーロン?」
アーロンはカツミの足を掴み、強く握ったままその指を口に含んだ。それを見た神秘的な瞳が驚愕したように見開かれる。
国王の臣下が靴先に唇を寄せるように、しかしそれとはまるで違う意味合いもあるように、アーロンの唇はカツミの一つ一つの足指を貪る。
全身に震えがくるような未知の快楽がカツミを襲う。それ以上に視線も逸らさず続けられる行為の意図がまるで分からなかった。
全ての指を思う存分しゃぶり尽くして、ようやくアーロンはカツミの脇に身体を横たえた。薄色の瞳に見据えられ、カツミは身動きひとつ出来ない。
「かしずくという行為を知ってるか?」
「ひれ伏して祈ること……だったと思う」
カツミの即答にアーロンはふっとその眼光を緩めた。
もし今の行為がひれ伏す行為というのなら、ずいぶんと尊大な臣下がそこにいた。
「導く者にかしずく。真っ当なことだと思うのだがね」
「心にもないこと言うなよ」
呆れ顔を見せたのは、今度はカツミの方だった。
唇を尖らせる彼を見つめて、アーロンは微かに笑みを浮かべる。
どんな表情を見せたとしてもカツミは美しく、見る者の心を魅了した。かつてのように自分の身体を自虐的に扱うことをカツミはもうしていない。
そこに至るまでにどれだけの労力をルシファーが傾けてきたのか。今のカツミは、なにも彼一人だけで勝ち得たものではないのだ。
無駄な時間など一瞬もないのだとアーロンは思う。
それを知っていたからこそ、シドがカツミを許したのだということも。
長い長い時間、あまりにも残酷な呪縛の中にシドはいた。彼もまた、導く者にとっての生贄だったのだ。
カツミが身体を起こし再びアーロンに口づけた。先ほどとは比べ物にならない激しさで魂まで奪い尽くそうと挑みを向ける。
きっとジェイは、この小悪魔の毒にあてられてしまったのだろう。そう思い、アーロンはまた目を細めた。
自分には話す義務がある。ルシファーには悩ませたくないから話せない。カツミの言葉は今のアーロンにとって複雑なものだった。自分が兄の二の舞になっていることは、とっくに分かっていた。今さら言えることではないが。
しかしアーロンは思う。小鳥も羽根を休める場所は欲しいだろうにと。
ルシファーはカツミのことを決して束縛しない。常に距離を置いている。カツミがこの屋敷で何をしているのかは当然知っているだろうに。
今でもまだ、カツミの拠り所はジェイなのだ。ルシファーはそれを超える覚悟がない。だから自分に対しても嫉妬を顕わに出来ない。もう十年も経つというのに。
早春の冷たい風が窓の隙間から流れ込んできた。春の兆しの甘美な香りとともに。
白い小鳥は自由を求める。それとともに戻る場所を求めるのだ。
人は孤独な旅をする。そして一生を終える。それは事実だろう。ただアーロンは気づいていた。カツミがどれほど寂しがりで、孤独に耐えられないのかを。
今さらのようなアーロンの呟きに、カツミが小さく笑った。
とうに真夜中を過ぎたアーロン邸の寝室。豪奢なベッドの天蓋の下に二人は横たわっている。
シドがこの屋敷を去ってからもカツミは時おり一人で訪ねては、まるで試すようにアーロンを誘う。誘われた側も決して拒まない。
「あいつは、そんなちっせえ奴じゃないから」
カツミの言葉に、アーロンは呆れかえりながら思う。この気まぐれな小悪魔に抗えることのできる者は、そうそういないだろうと。
「ルシファーに予言の話はしたのか?」
アーロンの問いにカツミがかぶりを振った。
「なぜだ?」
「なぜって。話してなんになるの?」
「……」
「アーロンには話す義務があると思うけど、ルシファーに話したら、彼は自分ではどうにも出来ないことで悩むことになる。そんなことに巻き込みたくないよ」
「彼は、お前の恋人じゃないのか?」
「そうだけど。でもこれは俺だけの問題だと思ってる。それに……。いや、なんでもない」
「カツミ?」
アーロンは腑に落ちなかった。二人がかつての双璧の再臨だというのなら、カツミの言葉はあまりに乾いている。この十年。二人はずっとフライトペアを組み、互いに命を預けてきたのではなかったか? カツミの心を一番占めているのはルシファーではないのか?
会話を遮るようにカツミが着ていたシャツを脱ぎ捨てアーロンの上に覆いかぶさった。
ゆるやかに癖のあるクリーム色の髪がぱさりと揺れ、クリムゾンとトパーズの瞳が刺すようにアーロンを見下ろす。仄暗い照明の中でも、その赤い瞳が心をえぐるように注がれているのが分かる。
「美しいな」
アーロンはもう追及をしなかった。しかし代わりに告げた賛辞には、感嘆だけでなく皮肉がこもっていた。
カツミの美しさは危うさと孤高の美しさ。他人を魅了しながらも、彼は誰の手の中にも落ちない。唯一カツミを手にできた人物は、もうこの世にはいないのだ。
「お前は自分の美しさをまるで分かっていない」
アーロンが今度は真っすぐに皮肉をぶつけた。しかし彼を見つめるオッドアイには困惑が浮かんだ。
「お前を繋ぎとめておきたいのは、ルシファーだけではないということだよ」
カツミが焦れたようにアーロンの頬を手で包み唇を奪った。彼は予言のことをひと時でも忘れたかったのだ。
すぐに身体を返されたカツミは、アーロンの向ける容赦ない愛撫に甘い声を漏らした。
アーロンは思う。妖艶な小悪魔。カツミをどこまでも追い込み絶頂に導くのは、なかなか得難い快楽だと。
落ちなくとも手放せるはずなどないのだ。誰であったとしても。
甘い香りがしていた。飛び立つ前の小鳥のような花々が屋敷の前庭で満開になっている。夜になるとその香は一層際立つ。
カツミの身体は紅い花びらが散らされたように彩られていく。幾つも幾つも残される痕は、これから数日は消えないことだろう。それはジェイに印されていたような淡いものではない。心ごと食らい尽くすような激しさで、アーロンの唇はカツミの身体をなぶる。
傷みが快楽に、それが陶酔に変化してカツミが全てを投げ出すまで、アーロンは手を緩めない。クリムゾンとトパーズの瞳が潤んだまま見開かれていく。薄く開いた唇から漏れる抑えた声。
やがてどんな些細な行為にもカツミは身悶える。解放を懇願する視線を向けられてもアーロンは焦らし続け、カツミの要求に応えない。
長く長く待たされた後、ようやく絶頂を迎えることを許されたカツミが、張りつめていたものを全て手放して深く吐息を漏らした。
それをじっと見下ろすジェイと同じ色の瞳。束ねていた金髪はすっかり乱れ、カツミの頬に触れている。
動きを止めたまま見下ろしているアーロンの真意が分からず、カツミが問いたげに見つめた。その視線を受け止めたまま、アーロンはカツミの足元まで下がった。
「アーロン?」
アーロンはカツミの足を掴み、強く握ったままその指を口に含んだ。それを見た神秘的な瞳が驚愕したように見開かれる。
国王の臣下が靴先に唇を寄せるように、しかしそれとはまるで違う意味合いもあるように、アーロンの唇はカツミの一つ一つの足指を貪る。
全身に震えがくるような未知の快楽がカツミを襲う。それ以上に視線も逸らさず続けられる行為の意図がまるで分からなかった。
全ての指を思う存分しゃぶり尽くして、ようやくアーロンはカツミの脇に身体を横たえた。薄色の瞳に見据えられ、カツミは身動きひとつ出来ない。
「かしずくという行為を知ってるか?」
「ひれ伏して祈ること……だったと思う」
カツミの即答にアーロンはふっとその眼光を緩めた。
もし今の行為がひれ伏す行為というのなら、ずいぶんと尊大な臣下がそこにいた。
「導く者にかしずく。真っ当なことだと思うのだがね」
「心にもないこと言うなよ」
呆れ顔を見せたのは、今度はカツミの方だった。
唇を尖らせる彼を見つめて、アーロンは微かに笑みを浮かべる。
どんな表情を見せたとしてもカツミは美しく、見る者の心を魅了した。かつてのように自分の身体を自虐的に扱うことをカツミはもうしていない。
そこに至るまでにどれだけの労力をルシファーが傾けてきたのか。今のカツミは、なにも彼一人だけで勝ち得たものではないのだ。
無駄な時間など一瞬もないのだとアーロンは思う。
それを知っていたからこそ、シドがカツミを許したのだということも。
長い長い時間、あまりにも残酷な呪縛の中にシドはいた。彼もまた、導く者にとっての生贄だったのだ。
カツミが身体を起こし再びアーロンに口づけた。先ほどとは比べ物にならない激しさで魂まで奪い尽くそうと挑みを向ける。
きっとジェイは、この小悪魔の毒にあてられてしまったのだろう。そう思い、アーロンはまた目を細めた。
自分には話す義務がある。ルシファーには悩ませたくないから話せない。カツミの言葉は今のアーロンにとって複雑なものだった。自分が兄の二の舞になっていることは、とっくに分かっていた。今さら言えることではないが。
しかしアーロンは思う。小鳥も羽根を休める場所は欲しいだろうにと。
ルシファーはカツミのことを決して束縛しない。常に距離を置いている。カツミがこの屋敷で何をしているのかは当然知っているだろうに。
今でもまだ、カツミの拠り所はジェイなのだ。ルシファーはそれを超える覚悟がない。だから自分に対しても嫉妬を顕わに出来ない。もう十年も経つというのに。
早春の冷たい風が窓の隙間から流れ込んできた。春の兆しの甘美な香りとともに。
白い小鳥は自由を求める。それとともに戻る場所を求めるのだ。
人は孤独な旅をする。そして一生を終える。それは事実だろう。ただアーロンは気づいていた。カツミがどれほど寂しがりで、孤独に耐えられないのかを。