第三話 何を残せるか

文字数 1,810文字

「お客様、晩餐の準備が整いました」
 ドアの外からメイドの声がした。その誘いに応じたシドが、再びルシファーに視線を戻すと提案をした。
「ルシファー。君にも聞いてもらいたいことがあるんだ。同席してくれるね?」

 ◇

 空調の効いた広い食堂。キンと冷やされた酒。
 ようやく気持ちを落ち着かせたルシファーだったが、鎮静はすぐに破られた。

 アーロンが食前酒を片手に口火を切った。
「ドクター。いきなり無理を言ってすまなかった。貴方でないと言えないことがあると思ったのでね」
「いえ。私はカツミを守るためなら何でもしますよ。それがジェイの遺志ですから」
 シドがさらりと返したのを聞いて、ルシファーは思い知る。穏やかな笑みの裏にどれだけの厳しさを持った人物なのだろう、と。

「それで、今日はどのような用件で?」
 本題に入ったアーロンに、シドは結論から告げた。
「アーロン。お察しでしょうが、私はいま体調を崩しています。仕事はサラに任せて療養生活に入りました」
 サラ? 誰のことだろうと首を傾げたルシファーに、含み笑いを浮かべたアーロンが思ってもみなかった事実を告げた。

「ルシファー。ドクターは最近、後輩の医師と結婚されたんだ。特区にいた方だ。サラ・ノースさん。会ったことはなかったのかな?」
 結婚? 驚きのあまり言葉を失ったルシファーに頓着せず、シドは話を続けた。
「発症が分かったのが、彼女に結婚を申し込まれる直前だったんです。私は発病の事実を告げて断ったんですが、彼女に怒られたんですよ」
 ルシファーの胸が重苦しさで塞がれた。十年。あまりに長い囚われの日々だった。呪縛が解けたからといって、全てが元通りにはならなかったのだ。

「再開したての医院をすぐ閉じるなんて無責任だとなじられたんです。後は引き受けるから、貴方はやりたいことだけをやりなさいってね。サラは私の主治医なんです。少々手厳しいですけど」
 ルシファーはシドにかけられる言葉がどうしても思い浮かばず、黙り込んだ。
 しかし、アーロンは躊躇なく核心に切り込んだ。

「ドクター。病名は?」
「特発性筋繊維症候群。治療法の見つかっていない病気です。症例も少ないので研究も進んでいません。予後はほぼ一年と言われていますが、これもまたなんとも言えませんね。対症療法が効くことに期待するしかありません」
「特発性……ですか」
「原因不明という意味です。全身の筋肉が繊維のように変化していくので、筋肉の塊とも言える心臓に達したら、そこで終わりでしょう。まあ、ゆっくり進行することだけが救いですね。それまでに、やりたいことをやれますから」
 死の恐怖を乗り越えた者特有の、覚悟がにじんだ口調だった。黙って頷いたアーロンに頷き返したシドは、ルシファーに顔を向けた。
「ルシファー。今の話はいずれカツミの耳に入ると思う。その時に彼の支えになって欲しいんだ。カツミのことだ。また自分のせいにするかもしれないからね」

「記憶を止めていた期間が原因ではないのですか?」
 不躾なルシファーの問いに、シドがいつもの苦笑を浮かべた。
「さっきも言ったけど、原因は不明なんだ。人ってのは分からないことに何かと理由をつけて不安を解消しようとするものだけどね」
「はい」
「ルシファー。君も、もうすぐオッジに向かうだろう? そこでの任務の危険性と比べてみたらいい。私は緩やかな戦地にいる。けれど君は一瞬のミスであっという間に終わる可能性がある。問題は時間じゃない。それまでに何を残せるかだ」
「何を残せるか、ですか」
「君だったら、カツミと共に多くのものを残せる。人の一生は短い。でも生きた証を残そうとするのが人だろう? 君は紛れもなくカツミの拠り所だ。彼を支えてほしい。カツミには、なんでも一人で抱え込む悪い癖があるからね」

 シドの懇願にアーロンがふっと息を漏らした。いつもの彼とは違う穏やかな面持ちで。知っていたはずの人物の今までとは違う顔。それを見たルシファーは気づいた。この二人を変えたのがカツミなのだという事実に。

 与えることは与えられること。差し出すことは差し出されること。空っぽなはずの透明なうつわ。与えられるものなどほとんどないはずなのに、カツミは身を削るようにして人に与えたがる。怯えながらでも棘の刺さる手を引こうとしない。
 カツミは知っているのだ。願っているのだ。
 人の心の奥底には必ず美しいものが潜んでいるのだと、願っているのだ。
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