第四話 唯一の戻る場所

文字数 2,900文字

 もう夜は明けている。駐留艦隊の発艦時間が迫っていた。これから二か月間、二人は会えなくなるのだ。
 ぴったりとルシファーの胸の上に身体を乗せたまま、カツミは動かない。皮膚一枚だけで閉じられた心。それをどうにかして解放し、ひとつになろうとするように。
 その耳が心臓の音を聞いている。今まさに、いのちを刻む時の音を。
「ずっと聞いていたい」
「え?」
「最期の時まで、この音」
 とくん。いのちの鼓動。今ここにいる、今ここで生きている証。こんなに安心できる音をカツミは知らない。

「二か月か……」
 カツミが溜息を混ぜて呟いた。
 他の基地に個々に出向くこともあるので、数サイクルの別行動は今までもあった。
 しかしオッジの駐留艦隊となると話は変わってくる。いくら二人が聞く者であったとしても、気配ひとつ察することの出来ない遠い距離なのだ。
「遠いですね」
「長いじゃなくって、遠いなの?」
「遠いです」
 カツミが臨床実験に志願したことで、今回の派遣はルシファーのみとなっていた。彼が搭乗する戦闘機の機長はユーリーが務める。カツミの臨床実験期間は長い。ルシファーが戻った頃にようやく終わる予定だった。
「大丈夫。ルシファーは無事に戻る。俺が先に逝くって決めてるから」
 カツミのとんでもない太鼓判を聞いて、ルシファーが苦笑いをこぼした。
「また、そんな言い方して」
「そう?」
「ですよ。俺はこんなに永遠を願ったことはないです」
 珍しく甘い言葉を聞いたカツミが、もたれている広い胸を撫でさすった。優しくそっと、慈しむように。
 しかしカツミは先ほどの太鼓判以上にとんでもないことを口走り、ルシファーをひどく戸惑わせた。
「喰いたい」
「えっ?」
「喰いたい。旨いかもしれない」
「腹、壊しますよ。きっと」
 冗談にしたって、さすがにそれは。だがルシファーがそう思った瞬間には、すでに噛みつかれていた。
「ってぇ!」
「大丈夫。ちょっと歯形ついただけ」
「そういう問題じゃなくって!」
 このままかぶりついて心臓まで喰われそうだとルシファーは思う。でも俺はそれでいい。それでカツミとひとつになれるのなら、ちっとも構わない。カツミの身体もこころも全て、いつもこの腕の中に留めておきたい。それが可能なら。

 ルシファーは、アーロンの邸宅を訪ねた日のことを思い出していた。帰り際に、車に乗り込んだシドから綺麗なギフトボックスを手渡されたことを。
「ずっと贈ろうと思いながら機会を逃していてね。君にあげるよ。答えは自分で出してほしい」
「答え、ですか?」
「見れば分かるさ」
 意味ありげにシドが微笑んだわけ。
 特区に戻ってすぐに箱の蓋を開けたルシファーは、思わず息を飲んだ。箱の中にあったのはプラチナのペアリングだったからだ。
 ルシファーは気づく。自分はシドから覚悟を求められているのだと。唯一無二のパートナーであれと。ジェイを超えたカツミの拠り所になれと言われているのだと。

 足りないのは情熱。シドの指摘はルシファーに深々と突き刺さっていた。
 十年前。ルシファーはフィーアへの情熱を間違った形で使った。邪魔者だったカツミに暴力を仕向けたのだ。半死半生のカツミを救ったのはジェイだった。
 ルシファーの歪んだ情熱は、巡り巡ってフィーアを追い詰め、彼を屋上から突き落とす結果となった。

 自分の情熱はまた歪むかもしれない。こころの表面を撫でるようにしか、ルシファーはカツミに近寄れなかった。カツミが意識操作をし続けたシドが、しだいに壊れていく姿も恐れとなった。

 どれだけの激しさを持っていれば、カツミの魂と本気で対峙できるのか。探していた答えがあの指輪なのか。
 言えない言葉ばかりが増えていく。こんなに近くにいるというのに。
 皮膚一枚の遮蔽物。その薄い膜が自他を隔てる。
 しかし、このままでいいのだろうか。このまま特区を出てもいいのか。
 ルシファーはスッと息を吸い込んだ。自分が覚悟するためにも、訊いておきたいと思ったのだ。

「カツミ。教えてほしいことがあります」
「なに?」
 急に口調を強めたルシファーを、カツミが不思議そうに覗き込んだ。その瞳は本心を炙り出し、カツミもまた同じ色を映す。水面が空の色を映すように。

「なんでリーンの結果を知った後も被験者から降りないんです? 内通者を炙り出すことだけが理由なんですか?」
「……もう、ばれてるんだ」
「分かりますよ、それくらい。俺を見くびらないで下さい」
「ごめん」
 非はないのにすぐ自分のポジションを下げてしまうカツミの口癖を聞かされ、ルシファーが顔を曇らせた。
 カツミはそんなルシファーの表情を一瞥してベッドを降りると、一枚のデータカードを手に戻ってきた。
「これ。オッジに行く時に見て」
「何のデータですか?」
「俺の祖先の経歴と予言の話。ルシファーの知りたいことが書かれてる。親父が残してたものなんだ」
「経歴と……予言?」

 ピピッ。ルシファーの腕時計が持ち主を急かし始めた。
「親父やフィーアが死んだ理由も分かると思う。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ。鏡が曇ってしまったから。だからシスの力を借りようと思った」
「……鏡が曇る? なんの話ですか」
「頭がおかしくなったって思うだろ? そういう話なんだ。でも俺はアーリッカ王女の夢を見るようになった。もう事実だと認めるしかないんだ」

 ピピッ。ピピッ。基地では常に10ミリオン前行動。時間厳守である。起き上がったルシファーが制服を羽織りながら問い詰めた。
「それって、最近の話ですか? なんですぐに話してくれなかったんです?」
「言っても信じてもらえるような話じゃないんだ」
「信じる信じないは俺が決めます。そんなに頼りないですか? 大事なことなんでしょう? なぜ一人で抱え込むんです?」
「……ごめん」
「ごめんじゃ済みませんっ!」
 ピピッ。ピピッ。ピピッ。
「話したって、ルシファーを悩ませるだけなんだ」
「一緒に悩んだらいけないんですか?」
「シスのことは心配いらないよ。リーンの時と違って、ちゃんと調整するんだから」
「俺の言いたいのはそういうことじゃないです。どんなことも一番に相談して欲しいって言ってるんです。俺は貴方の、唯一の戻る場所になりたいんです!」

 ピピピピピピピピ。ピ──ッ!
 連続で鳴り出した鋭い電子音で、ルシファーがはっと我に返った。態度の豹変に驚いてカツミが絶句している。しまったと思ったものの、出してしまった感情を取り消すことは出来ない。

「……すみません。大きな声、出して」
「ううん。ありがと。ごめんね」
 泣き出しそうなカツミの顔を見て、ルシファーは後悔していた。こんな時に喧嘩などしたくないのにと。
 だが逃げ回っていては何も変えられないのだ。本当に寄り添うのなら、激しく衝突することも覚悟しなければならない。
 ルシファーはあえて後悔を顔に出さなかった。代わりにきっぱりと決意を伝えた。

「必ず戻りますから、待ってて下さい」
「……うん。待ってる」

 朝陽に照らされ、一艘の空母と複数の護衛艦がオッジに向けて発艦した。
 二か月。それは、二人にとってこれまでの十年を振り返る時間となった。

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